わたしメリーさん、今あなたの後ろにいるけど完全に詰んでる
「わたしメリーさん、今あなたの後ろにいるの」
可憐な声が、囁くように暗闇を震わせた。明かりの落ちた薄暗い室内では、一人の少女が受話器を握ったまま、声に背を向けて立ち尽くしている。恐怖で竦み上がり、振り返るどころか悲鳴をあげる事すらできないのだろう。
「ストップ、そこまで」
できた。
「わたし――」
「いいから一旦黙って聞いて。こっちから声かけようにも、あなた毎回すぐ電話切っちゃったし。誰なのかは知らないけど、とにかく絶対それ以上近付いちゃダメ」
恐怖のあまりパニックを起こし来ないで来ないでと泣き喚くのとも違う、まるで諭すような落ち着き払った口調に、怪異の心に初めて疑問が芽生えた。その戸惑いが、通常なら決まり文句しか口にしない怪異の行動を変える。
「どうして? わたしが怖い?」
「いや私ゴルゴーンだから。近付いたらあなた死ぬわよ」
暗闇が生むのともまた違う沈黙が場に落ちた。暫し絶句していた怪異が、やがて絞り出すように少女へ問いかける。
「……ゴル、ゴーン?」
「そうそう。ギリシャ神話で有名なアレ。ほら見て、私の髪の毛ぜーんぶ蛇になってるでしょ」
「ドレッドヘアーかと思ってた」
「ドレッドヘアーは自発的に動かないから」
なるほど、よくよく目を凝らせば暗がりでうにょうにょと四方八方へ蠢く太い髪が確認できる。てっきり束ねているのかと思いきや、元からあの太さだったという訳だ。
話す側と固まる側、先程までとは完全に入れ替わったポジションで、ゴルゴーンを名乗る少女はそっと受話器を置くと続ける。
「電話のたびに近付いてきてて遂に背後に立ったって事は、たぶんこの後襲いかかってくるのよね。そのまま後ろからくるのか、それとも怖くて振り向けずにいると『今あなたの前にいるの!』と正面に回り込んでくるのか、どっち? 後ろからなら蛇たちが迎撃するし、前に来たらそれこそ一発で石化して終わりよ」
「わ、わたしだって怪異だもん、そんなの……」
「あのね、よっぽど強い怪異ならともかく『3階です、ドアが開きます』ってエレベーターみたいに現在位置を逐一報告しながら接近してくるだけのガラクタが、神話の流れを汲む一族の末裔に力で勝てる訳ないでしょ」
「そこまでこき下ろさなくても良くない?」
「ちなみに私の家系って出血毒の蛇毒持ちだから、噛まれたら死ぬほど痛いわよ。その毒の強さたるや、沖縄を中心に恐れられる有鱗目クサリヘビ科ハブ属ホンハブのおよそ数百倍に相当すると言われているわ」
「そこはギリシャじゃないんだ」
どういった経緯でギリシャ神話に謳われる怪物の一族が極東の島国まで流れ着いたのかは定かではないが、今掘り下げて聞くべき事でもない。
一方で、メリーさんを名乗る怪異は捨てられた人形をルーツとしている。ならば毒など恐るるに足らず――とはいくまい。あの数の蛇に噛まれまくったら物理的に壊れる。
相変わらず振り向かないまま、ゴルゴーンを名乗る少女が困りきった声で尋ねた。
「で、どっちなの?」
「……前に回り込むほう……」
「そう……より状況は絶望的ね。悪い事は言わないからおとなしく帰りなさい」
「無理、このままじゃ帰れないの」
「なんで? 必ず首級をあげてこいって命じられてるとか?」
「戦国時代じゃないんだから。そうじゃなくって、今どこそこにいるの……からだんだん近付いていって、ラストは今あなたの後ろにいるので襲いかかるまでが一区切り。わたしはそういうシステムに縛られた怪異なの。まだ締めが終わってないのに帰れないよ!」
「そんな鍋の最後にやる雑炊待ちみたいな事言われても」
自由に活動する怪異もいるが、出現から消失まで一定の決まった手順を必要とする怪異もいる。メリーさんは後者に該当するという事なのだろう。
「つまり、私に対して何らかの攻撃的なアクションを起こさないと帰れないのね?」
「そう! どうしよう?」
「襲う側が襲われる側にどう襲えばいいか質問してるサイコっぷりに気付いてお願い。といっても詰んでるのは確かだし……背後はダメ、正面なんてもってのほかとなると、もう打つ手がないじゃない。背後霊に転職して一生エレベーター音声やってる?」
「エレベーター音声言うな。――あっ、そうだ! 下はどう?」
「下?」
「そうそう。わたしがこう、床に寝そべる感じであなたの真下に潜り込むの。いま後ろにいる……声を聞いたあなたは反射的に振り返るが誰もいない、慌てて視線を前に戻すがそこにも何もいない。一体どこへ!?と震えるあなたは、次に思いもよらない方向からの声を聞くのよ。わたしメリーさん、今あなたの下にいるの! ガッ!」
「そのガッは何」
「アキレス腱に噛み付いた音」
「無理にギリシャ要素出してこなくていいから」
いい解決策を思い付いたとばかりに浮かれる怪異に、ゴルゴーンは浮かない顔でかぶりを振った。
「残念だけど、そのアイディアは却下よ」
「どうして? 足を噛まれるから?」
「いやまあ攻撃すると宣言されてハイどうぞって答える奴もいないだろうけど、問題の本質はそこじゃなくて。下から、って事はあなた、私の足の間に入るつもりなのよね? こんな感じに、私があなたが入れるぐらいに両足を広げてあげて」
「うん」
「それはまずいわ。私、スカート履いてるけど男だもの」
「待って」
「加えてノーパン派だから、いま足の間に入って上を見上げられるとだいぶまずいの」
「これ以上情報量を増やさないで」
「わかった? そんな事したらパンツ見られちゃうじゃない!いいじゃない女の子同士なんだから!で済む話じゃないのよ。背後からくれば無数の蛇が、正面へ回れば見敵必殺の石化が、そして下に潜れば密林に潜む最強の大蛇があなたを出迎える事になるわ」
「やかましいわ」
「それともクローゼットからパンツ取ってくる? パンツさえあれば何とかなるかも」
「パンツがあっても何とかならないからね。それにあいにく『わたしメリーさん、今あなたのパンツを探してるの』というコマンドは存在しないのよ……」
よしんばあったとてゴルゴーンの少女もとい一般男性がスカートを捲りあげておそらく女物のパンツをいそいそと履く姿を背後から見守るのは、たとえこの場を凌ぎ切れたとしても後々まで尾を引く致命的なダメージを受けそうな気がした。
困ったわね、とゴルゴーンが野太い溜息をつく。
力の差を考えれば一方的にケリをつける事も可能なのだろうに、それをせずこうして穏便に済む方法を探してくれているのだから、思いやりのある優しい人ではあるのだろう。平日の薄暗い部屋で女装しているノーパンゴルゴーンという点さえ考えなければ。
「本当に他の方法はないの? 方法というか逃げ道というか」
「……一応、怪異は夜中に活動するって決まり文句に従うなら、ターゲットが朝まで逃げ切ればオッケーみたいなのはあるかもしれない……」
「なんだ、希望はあるんじゃない。だったらこのまま朝まで待ってみましょうよ。駄目なら駄目でその時また考えればいいし……そうだ、一緒に映画でも見る? ちょうどレンタルしたアナコンダがあるわ」
「悪意のあるチョイスやめろ。そもそもあなたが私を捨てたりしなければこんな事には――!」
「えっ? 捨ててないわよ?」
本日二度目の沈黙。
怪異はきょとんとしていた。ゴルゴーンもきょとんとしていた。互いに頭上に疑問符を浮かべたまま、今の言葉の意味を繰り返し考える。
捨てた。いいや捨ててない。
「……………………」
「……………………」
「……あの、わたしは捨てた人のところへ復讐っぽく訪ねていく怪異で……」
「だから捨ててないってば。ここへ引っ越してきたのつい最近だから、それこそ捨てたのなんてダンボール箱とか包装紙くらい。――あ! もしかしてあなたが狙ってたのって、前にこの部屋に住んでた人なんじゃないの?」
「ちょっ、ちょっと待ってね!」
怪異の小さな手が、どこかから取り出したメリーさん復讐帳を忙しくめくっていく。相手を見誤ったのは、捨てられた瞬間に自我を持つタイプの怪異だったからか。
やがてページをめくる手を止めると、怪異は動揺と羞恥が半々に混ざった消え入りそうな声で呟いた。
「…………違ってた、ました」
「もー、このドジっ子!」
「握り拳をほっぺたに当てながら首傾げて言うな、後ろ姿でも精神的ダメージがでかい。で、でもこれならいけそう! ターゲットが違ってたんだから最後までやらなくてよくなるし! やったあ!」
「良かったわね。でも」
「オッケー、いけるっぽい! ありがとう、騒がせてごめんね! それじゃ!」
「あっねえ、ちょっと!」
止める間もなく別れの挨拶も待たず、ゴルゴーンの背後にあった気配が消えた。一刻も早く本来の目的を果たしたい、こっ恥ずかしいからさっさと立ち去りたい、純粋にノーパン男と一緒にいたくないなどいろいろ理由は考えられるが、やって来た時と同じく人の話を聞こうともしない一方的な退散である。
おかげで肝心な事を伝える暇さえなかった。
「ここに住んでたのって確か真っ昼間でも外うろつけるようなやべえ吸血鬼の親子だって不動産屋さんが言ってたけど……いきなり家に侵入したりして大丈夫なのかな?」
大丈夫ではない、たぶん。
どうしたもんだろうとゴルゴーンは少し考えて、どうにもならないので投げた。