思い出は缶コーヒーの苦味と共に
何これ、にがっ。
翔太は渋い顔をして流し台に近付いた。
ペッと口に含んだ黒い液体を吐き出す。
「ハハハッ、お前には、まだ早かったか」
そう言って、父さんが笑った。
翔太は楽し気に笑う父の様子を見て、ムスッとする。
そんな翔太を宥めるように父は言う。
「そう怒るなって。まあ、苦いよな。苦いけど、この苦味がいいんだ。お前もその内、分かるようになるさ」
翔太が口に含んだのは、ブラックの缶コーヒー。
父が余りにも美味しそうに飲んでいるのを見て、翔太も飲んでみたくなったのだ。
父にせがんで一口飲んでみたは良いが、まるで泥水の味がした。
これを美味しいと思う人の気が知れない。
父さんは、その内分かると言うが、翔太には信じられなかった。
こんな物、一生飲んでやるものか。
小学五年生の冬、翔太はひっそりと胸にそう誓った。
それから時が流れた。
翔太は電子メーカーに就職し、自分のデスクでパソコンのキーボードを弾く。
目の疲れを感じ、指で目頭を揉み解す。
おもむろに、デスクの上に置かれた缶コーヒーに手を伸ばした。
缶のラベルには、微糖と書かれている。
ブラックは未だに苦手だ。
子供の頃の苦い思い出のせいか、未だに苦手意識がある。
父は言った。お前もその内、分かるようになるさ。
どうやら、まだその時は訪れていないようだ。
それから更に時が流れた。
父が亡くなった。
長い闘病生活の末、最後は穏やかに旅立った。
翔太は病院のソファに腰を下ろし、溜息を吐いた。
涙は流れない。哀しみ以上に安堵感の方が大きかった。
もう、父の苦しんでいる姿を見なくて済む。
病気と闘い抜いた父を労う気持ちと、ほんの少しばかりの解放感。
真っ先に浮かんだのは、そんな気持ち。
自分は冷徹な人間なんだろうか。
そうなのかもしれないが、それが本心だった。
ふと、自動販売機が目に入った。
体が勝手に動いた。
いつの間にか、手に缶飲料を握っている。
蓋を開けて一口飲む。
「苦い……」
やっぱり、ブラックは苦かった。
その苦さは、子供の頃に飲んだ記憶を凌駕していた。
それでも、翔太は飲んだ。飲み続けた。
その先、何年も何十年も飲み続けた。
その度に、苦いと呟き、その度に、思い出した。
父との思い出を。
自然と、涙が流れた。
「やっぱり、苦いよ、父さん……」