ゴキブリになった彼女
※ゴキブリが出るのでご注意ください
彼女が出来た。
出来たのだ。彼女が。
35にもなって、初めて彼女が出来たのだ。
彼女が、出来た。
出来たのだ。彼女が。
僕に彼女が出来たのだ。
それも、唯の女性では無い。
途方も無く美しい肉体にどこまでも高潔な魂を宿した、僕にはもったいないほどの最高の女性。
虚飾抜きで三千世界一のスーパーウーマンである。
だから、先輩に電話して自慢した。
「マジで!? 良かったじゃん!」
「ありあざーッス!!」
「で、どんな子?」
「カナエちゃんっていうんスけど、滅茶苦茶可愛くて最高なんスよ! 年齢はちょうど20上の55歳で、額のシミと口元のシワがとってもキュートで……」
「――いや、ちょっと待って」
「はい?」
「年齢20上で……55歳?」
「はい! 女が一番輝く時期っすよ!」
「……まあ、お前がいいんなら別にいいけど」
「いいも悪いも無いですよ。最高の彼女ッスもん。ちょっと口は悪いッスけど、失敗してもちゃんと叱ってくれるし、包容力ありますもんね。おっぱいもFカップはありますよ! 羨ましいでしょ先輩! Fカップッスよ!?」
「いや、Fカップっていってもなあ……めっちゃ垂れてそうだし」
「そこがいいんじゃないスか! 零れ落ちようとする水滴のような儚さ……守ってあげたくなりますもん!」
「……まあ、お前がいいんなら別にいいけど」
「いや、ほんといいッスよー! 幸せ過ぎて怖いくらいッスもん!」
「じゃあ、俺用事あるから」
「はい! 今度飲み行きましょうね! 改めて紹介しますから!」
「あ……ああ……」
電話を切って、暫く瞑想していると、浴槽の方からボジャバアと音がした。
カナエちゃんがもうすぐ出て来る。
僕はドキドキしていた。ドキドキしながらカナエちゃんのバスローブ姿を思い浮かべた。
今日、僕はついに童貞を卒業する。
卒業するのだ。童貞を。
最愛の女性、カナエちゃんとセックスをする事によって、童貞を卒業するのだ。ニヤニヤ笑いをしていると、
「見るな!」
カナエちゃんがお風呂の中から低く唸った。僕は「うん!」と元気に答えてすぐさまベッドに仰向けに伏せ、目を閉じて何も見ないようにした。
そうしていても無数の粒子みたいなのがパラパラと見えてしまっていたけど、流石にそれは仕方ないだろう。多分カナエちゃんも許してくれる。
「見てなかよね?」
「見てないよ」
カッシュキュと浴槽の扉が開く音がした。
シュイシュイと体を拭く音。
瞼の闇を見ながら僕は興奮していた。僕は耳になっていた。耳になってシュイシュイを聴いていた。
「アンタ、本当にウチの事好いとーと?」
「好きだよ! 愛してる! 大好きだ!」
考えるより先に声が出ていた。その事が堪らなく嬉しかった。口もベッドに押し付けていたのでくぐもった声になってしまったけど、それでも僕は嬉しくなった。
やっぱり僕はカナエちゃんが好きなんだ。
しかし……
「どうにも怪しかねー」
僕は悲しかった。カナエちゃんが信じてくれない事以上に、想いを伝えられない自分のふがいなさが惨めで仕方なかった。
それでも僕は諦めなかった。ベッドに押し付けた口を離す。
「カナエちゃん信じてよ! 本当に愛してるんだ! 僕はカナエちゃんが世界でいちばん好きなんだ!」
「そげなこつ言っとるばってん、ウチの体が目的じゃなかと?」
「違うよ! もちろん体も好きだけど、それ以上にカナエちゃんの高潔な魂を僕は愛しているんだ! 僕が真に求めているのは、カナエちゃんとの魂の交感なんだ! カナエちゃんそのものが好きなんだ! 信じてくれ!」
「口でならなんとでも言えるばってんくさ……」
カナエちゃんは冷笑するような口調を崩してくれなかった。
どうすればいいんだ。僕はこんなにカナエちゃんを愛しているのに、どうして伝えることが出来ないんだ!
「じゃあアンタ、ウチが気持ち悪かオッサンになっても、同じことば言えるとかじゃん?」
「もちろん言えるよ! オッサンになっても愛してる! カナエちゃんが望むなら、どんなプレイでも喜んでやるよ!」
「ならばってんくさ……ウチが虫になっても同じ事言えるとかじゃん?」
「もちろん言えるよ! 虫になっても愛してる! オスの虫でも、メスの虫でも、毒があっても無くても、関係ない! 僕はカナエちゃんの全てを愛しきるよ!」
「だから口でならなんとでも言えるったいやん! ……偉そうにペラペラ言いよるばってん」
「カナエちゃん!」
「もうお前せからしかじゃん。黙っとけ。ウチ今日は家さん帰るけんが、ホテル代ばちゃんと払ろうとけよ」
「…………」
◇
僕は泣いていた。涙でベッドを濡らしていた。
そこまでは憶えている。
気付いたら気怠さの中で目が覚めていた。
僕はどうやら、泣き疲れて眠ってしまっていたようだ。
広いラブホテルの部屋には誰も居ない。
カナエちゃんはもう帰ってしまった。
僕は一人だった。
クソ……
……言葉は、どうしてこんなに無力なんだろう。
僕の中で燃え盛るこの愛を三分の一、いや百分の一でもカナエちゃんに伝える事ができたら……
どうして僕はそれくらいの事ができないんだ。
どうして僕は、僕の言葉はこんなに弱いんだ。
クソ……クソ……クソ……
僕はまた泣いて、暫くしてやっと落ち着いた。
……喉が渇いた。
お腹もすいた。
スマホを確認すると、もう朝の7時だった。
とりあえず、水を飲もう。
ベッドから立ち上がってウォーターサーバーに向かった時だった。
「――うわっ!」
テレビ棚にゴキブリがいた。それも大きい。
三国志の呂布みたいな触覚がピクピク動いていて気持ち悪い。
退治する気力もなかったので、叩くふりだけして脅かそうとした……けど思いとどまった。
本当に、カナエちゃんは帰ってしまったのだろうか。
いやもしかしたら、カナエちゃんは帰っていないのかもしれない。
実はカナエちゃんはゴキブリになって僕の愛を試そうとしているのかもしれない。つまり、このゴキブリはカナエちゃんなのかもしれない。
そう考えると、急にゴキブリが美しく見えて来た。
艶めいた黒いボディはしんにょうのように美しい流線形だし、トゲトゲの突いた脚も孤高の力強さを体現したかのようだ。小ぶりな頭もキュートだし、触覚も呂布みたいでカッコいい。
やっぱり、僕はカナエちゃんだったらゴキブリでも愛せるなあ。肝心なのは、魂がカナエちゃんであるかどうかなんだ。それだけが肝心な事なんだ。
「カナエちゃん? カナエちゃんなの?」
ゴキブリは答えず、足をワシャワシャと舐めて綺麗にしていた。
……ううむ。気持ち悪い。
人間の時のカナエちゃんはあまり綺麗好きじゃなかったし、やっぱりこのゴキブリはカナエちゃんではない気がして来た。そう考えると、やっぱり気持ち悪い。高級なクセにゴキブリが出るこのホテルにもイライラしてきた。
……いや、でも……まだ判断するのは早い。ゴキブリになったので本能的に体の掃除をしているだけかも知れないし。
そう考えたら……魂がカナエちゃんだと思ったら、ワシャワシャと脚を掃除するゴキブリの仕草が一気に可愛らしく思えて来るのだから不思議なものだ。
愛せるな。うん。愛せるよ。
いや、愛せるというか……愛さざるを得ない。
僕は、カナエちゃんを愛するように出来ているんだ。
カナエちゃんを愛していない僕は、僕じゃないんだ。
それくらい愛している。
そういう訳で愛せるは愛せるが……
だが……それとは別に問題がある。
まだこのゴキブリがカナエちゃんであるという確証が取れていない。
確証が取れないうちからただのゴキブリを愛してしまっては、それはカナエちゃんに対する最大の冒涜ではないか。
そもそも僕は、カナエちゃんと魂の交感をやりたいのだ。
このゴキブリがカナエちゃんだったとしたら、どうやってカナエちゃんと魂の交感をすればいいのだろう。
……性交? 交尾性交渉? セックス?
いや、無論の事だが。僕がカナエちゃんを愛する僕に不可能はない。
不可能はないのだが、だが現実問題としてあまりにサイズが違いすぎる。僕がいかに小ぶりであろうともだ。種族も違いすぎる。
もちろん愛の力で無敵となった僕に不可能は無い。不可能は無いが、カナエちゃんを傷付けてしまう恐れがある。
それだけは嫌だ。絶対にダメだ。
……あるいは、死後の世界での交感があるのやも知れぬ。
だが、今僕は生きている。
生きているうちにカナエちゃんを愛し、愛し抜き、愛し通す。肉体を伴った魂の交感。それこそが……。あるいは……あるいは! 目線の交錯。認識の交わり! そこに魂の交感が。そうだ、想うだけで、セックスを超えた究極のセックスが。あるいは……!
「カナエちゃん! カナエちゃんなの? カナエちゃんだよね!?」
ゴキブリは知らんぷりのまま脚の掃除を続けた。脚の掃除が終わると、今度は触覚の掃除を始めた。
手をぺろぺろ舐める猫のような甲斐甲斐しい姿に見惚れながら、僕は得心しつつあった。
そうか。つまり、そう言う事か。
つまり……このゴキブリはシュレーディンガーのゴキブリだ。
カナエちゃんである可能性と、カナエちゃんでない可能性を、同時に併せ持っているのだ。
だからこそ、こんなにも愛おしい。
だが……もしあのゴキブリがカナエちゃんでなかったとしたら……僕はただのゴキブリと魂の交感をしてしまう事になる。それは単純に意味不明で気持ち悪いし、何よりカナエちゃんに対する裏切りだ。
うう! 僕はどうすればいいんだ!
……あ、電話だ。
「もしもし」
「ああ、ウチばってん」
「カナエちゃん!」
「昨日はウチも悪かったけんが、ごめん」
「いや、僕が悪いんだ! ちゃんとカナエちゃんへの愛を伝えられなかった僕のせいなんだ! ごめん! 今度こそちゃんと伝えるから! 伝えるから聞いてくれ! 僕の愛の囁きを!」
「あーもう、よかち。しゃーしかじゃん」
「カナエちゃん! 例えゴキブリになっても、見つけ出すよ! そして君を愛すよ!」
「しろしか!」
電話を切られてしまった。
でもカナエちゃんの最後の「しろしか!」はちょっと照れ臭そうだったので、僕は嬉しくなった。嬉しくなったけど、浮かれてばかりもいられない。
さっきは危ない所だった。あろうことか、僕はあんな気持ち悪いゴキブリをカナエちゃんと間違えて愛しそうになってしまった。何てことだ。最悪だ……。
どうやら僕には大きな課題が出来てしまったようだ。
もしカナエちゃんがカミリキムシ……あるいはビニール袋、あるいはタンポポ、あるいはボールペン、あるいはゾウリムシ……何でもいいけど、カナエちゃんが何か別の存在になってしまったとして……
僕はその事にすぐにでも気付かなければならない。
カナエちゃんの魂を探知し、見出さなければならない。
そして彼女をカナエちゃん自体として、確信をもって愛さなければならない。
そうだ。そうでなければ、僕は真にカナエちゃんを愛しているとは言えないのだ。
難しい問題ではあるが、愛に不可能はないので何とかして見せよう。
僕はベッドに座禅を組んだ。
精神を集中させてああでもないこうでもないと考えに耽り続けた。
ゴキブリはいつの間にか消えていた。