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狂気のユーチューバーⅠ:一年後、僕は、愛犬を食べます!

作者: 立花 優

【前編 狂気のユーチューバー】

 

 この話は、コロナが流行る2年前の時の話である。


 時間を持て余している私立W大学3年生の後藤明は、アパートで、暇な時は液晶テレビでユーチューブを見ていた。ある日、少しと言うか、いいや、随分変わったユーチューブの画面を見て、もの凄く気分を悪くした。


 それは『チワワのチーちゃん週間物語』との題名のユーチューブの投稿画面であって、てっきり可愛いい子犬のチワワの映像が続くと思って見ていたら、最後のほうで、ホッケーマスクを被って、地声を音声変換器で変換した学生風の男が、次のようにユックリと語りだしたからだ。


『僕はこれから心理実験を行います。それは一年後、僕は、精一杯可愛がったこの愛犬を食べれるかどうかの実験を行うのです!』


 このホッケーマスクの男は、投稿名もホッケーマスクとしていた。最初、この投稿画面を見た時の後藤明は、これは単なる炎上狙いの与太話だろうと思った。

 ユーチューバーの世界も競争が激しいらしいからなあ…。人と同じ事をしていて誰も見てはくれないだろうなあ…。だから、あんな変な事を言っているのだろう。


 それにしても、このホッケーマスクの男が飼っているチワワのチーちゃんが、また、何とも言えない程可愛いのだ。ロングーコートチワワの犬種だからまず毛が長いし、全身が白い毛並みであって、背中部分に若干、薄茶色の模様が入っている。瞳は全部、漆黒の黒色で、また行動も雌犬で年齢も生後数ケ月のせいか大変に大人しい。無駄吠えもしない。

 雌犬故に、真っ赤な犬用の服も着せて貰っている。チワワファンなら、自分でも飼いたくなるほどの、まるで人形のように愛くるしい姿で、テレビに映っている。


 しかし、翌週の同じ時間帯に投稿されたホッケーマスクの男の話を聞いて、後藤明はおや!と思った。もしかしたら、この男は、単なる伊達や酔狂で言っているのではなく、本気でそのような残酷な実験を行う危険性があるのではないか?と感じたからだ。


 後藤明がそう感じたのには、理由があった。


 ホッケーマスクの男は、今回の画面の最後の場面で、

「僕が、これから行おうと言う心理実験は、1961年にアメリカのイェール大学で行われたスタンンレー・ミルグラムが指導主催したあのアイヒマンテストや、1971年に同じくアメリカのスタンフォード大学で行われたフィリップ・ジンバルドーが指導主催したスタンフォード監獄実験を超える、人間の心理の根幹に触れる一大実験なのです」と、そう言い切ったからだ。


 アイヒマンテストやスタンフォード監獄実験の事など、知っている人間はそうそういない。

即、ネットで検索して、それらの心理実験等がいかに悲惨なものかを感じ身震いした。

そして、ホラー映画好きの彼が、かってレンタルDVDで借りて見た映画にそのような映画があった事も思い出した。確か『エクスペリメント』だったか?ドイツ映画の『エス』だったか?


 更に、動画を再生してよく注視してみると、ホッケーマスクの男の本棚には心理学の本が沢山並んでいた。しかも、これは故意か偶然かは分からないが、大学の学生帽がチラと写っており、その帽子の紋章は日本一難関と言われる国立T大のものであった。


 これに対しても、後藤明は露骨な嫌悪感を感じた。なぜなら、後藤明はもともとはT大志望だったが、二浪してもなかなか合格せず、結局私立のW大に進学したからだ。そのような恨みもあったから、なおの事、このホッケーマスクの男に、悪意とそれと共存する特別な興味を抱いたのだ。


 次の翌週、つまり3週目に入って、更にホッケーマスクの男は、

「僕は、今18歳であり、仮に一年後、この実験が成功して、僕が現実に愛犬を食べる事ができたとしてもまだ19歳です。つまり少年法の適用範囲内にあります。

 何と言っても自分の犬ですからどうしようと器物損壊罪には当たりません。また、動物の愛護及び管理に関する法律に抵触するかもしれませんが、それは、僕が、自分の感情に打ち勝って正に意思の力で愛犬を食べた場合だけです。食べれなければ実験は失敗しますが、動物の愛護及び管理に関する法律には違反しません。ねえ、極簡単な話でしょう…」と語り始めるではないか。

 

おや、こいつは、本当に精神的におかしいのではないか?あの神戸連続児童殺傷事件の少年Aに近い性格なのではないか?


 ところで、後藤明のオジサンは、世間でも有名な週刊誌『週刊文芸四季』の記者であった。この『週刊文芸四季』は、いわゆる不倫ネタで一世を風靡している有名な週刊誌であった。ついたあだ名が「文芸砲」といい、数々の芸能人や国会議員の不倫ネタを暴露してきた事で有名な雑誌である。

 ただ、最近は不倫ネタもややマンネリ化してきた事から、同社雑誌に勤務しているオジサンからは、自分の周りや世間で何か面白く変わった事があったら、メールでも何でもいいから送ってくれと言われていたのだ。無論、只では無い。それなりに面白い情報なら、それなりの報酬は貰えると言う話になっていたから、尚更、熱が入ったのであった。


 後藤明は、3週間続けて見たこのユーチューブの異様さを、その理由も添えて書き出して早速メールを送った。


 この甥に当たる後藤明のメールを見て、『週刊文芸四季』の記者であったオジサンの後藤雄一は、ハテこれは何なんだ?と、自問自答を繰り返した。

 何故なら、これは非常に微妙な内容を、特に、法律的な面と心理的な面において、難しい問題を内包していたからである。法律的な問題点とすれば、このユーチューバーがまだ大学1年生らしいから、少年法や動物の愛護及び管理に関する法律が関係するものの、その適用云々の問題が絡んでくるし、心理的な面からすれば、そもそもこの投稿動画で言っている事が本物なのか?それとも、単なる炎上狙いなのか?の判断は、この投稿動画を見ただけでは、何とも判断ができかねたからだ。


しかし、一旦、SNSで拡散されれば、このニュースバリューはあっと言うまに無くなってしまう。即、編集長に掛け合って、このユーチューバーの事を記事にしなければならない。それには、まず、このユーチューバーを特定しなければならないのだ。


警視庁生活安全部にサイバー犯罪対策課がある。そこには自分の卒業した国立H大学法学部卒の大学の同級生の上原浩二が勤務している。役職は警部だった筈だ。無論、彼に頼んだところで、この謎のユーチューバーを特定し教えてくれるかどうかは、公務員法上の守秘義務の関係もあり難しい事は百も承知だ。


 しかし、万が一である。


 万が一、この奇妙な実験が本当に行われた場合、類似犯も続々出現するのではないのか?この一点で、その日が非番の上原警部を猛烈に説得したのだ。


 この大学の同級生は、時間を作ってくれ、警視庁近くの薄暗い喫茶店で出会ってくれた。

「ほら、この投稿動画だ」と後藤雄一は言った。そして3週間分の動画を見てもらった。

「うーん、単なる炎上狙いじゃないのか?」警視庁警部の肩書きを持つ上原はそっけない。

「いや、そんな事はない。見ろよ、この再生回数。既に3万回を超えているし、いいねも百件を超えている。このまま拡散していけば、同じような模倣犯が続々出てくる危険性があるんじゃないのか?」

 その時である。スマホを触っていた後藤雄一は、

「ほら、これを見ろよ!既にこの動画の趣旨を真似た投稿動画や、書き込みが急増しているじゃねえか。特に、このユーチューバーなんかは、言うに事欠いて、

『私は、1年後、我が子を食べるかも?』と投稿しているじゃねえか。これでは警察としてもほっておけない状況だろうが…。確か、アドレスやIP番号、そしてサーバーの記録を逆から辿れば、この投稿動画が、何処の誰が投稿したかは、警視庁ご自慢のサイバー犯罪対策課なら極簡単に割り出せるだろうが…」


「分かった!」

 

上原警部は、即、この謎のユーチューバーを部下に命じて探し出し、翌日には、同じ喫茶店で後藤雄一に会ってくれた。

「あれ、メモ用紙何処にいったかな?」と言って、テーブルの上に丸めたメモ用紙を、後藤の目の付く場所においた。目で、それに書いてあると合図を送って、まだ熱い入れ立てのコーヒーをゴクゴク飲み干して、直ぐに職場に帰って行った。


 持つべきものは親友である。この時ほど親友に感謝した事はない。


 感激に浸る間もなくメモ用紙に書いてあったマンションを訪ねた。管理人に、そのホッケーマスクの男とされる本田秀一が最近、犬、特に小型犬を飼ったかを訪ねると、その通りだと言う。この前からの投稿動画を見せると、確かにこのマンションに持ち込んできた子犬にそっくりだと言うのだ。


 よし、ここまで確認が取れれば、後は本人を直撃するのが一番だ。


 つまり、大学にも確認に行ったほうが良かろう。そこで文京区本郷にあるT大文学部心理学科に行って、学舎から出てきたばかりの女子学生2名に本田秀一の事を聞いてみる事にした。彼女らが、本田秀一を知っていなければ別の学生にアタックしよう、と。


 うーん、最初は、何なのこのオジサン?と変な目で見られたものの、『文芸四季社』の名刺と社員証を見せ、その社の週刊誌部門の編集主任だと名乗ったら、女子大生らのほうから食いついてきた。しかも、何と言う偶然か!二人とも本田秀一と文学部心理学科の同級生だと言うのだ。即、話に話に乗ってくれると言う。

 後藤雄一は、この2人の女子大生を誘って近くの喫茶店で話を聞く事にした。お互いに名前を名乗り、自己紹介をした。


 後藤雄一は、例のユーチューブの話をいきなりせず、まずは、本田秀一とはどういう人物かを聞いてみたのである。この2人の女子大生のうち、1人は高校時代も本田秀一と同級生だったと言った。彼女の名は東優子と言い、後々、この怪事件に大いに関係してくる事になるのだが、それはまた後の話。


 また、この2人の女子学生ともに際だっていたのは共にT大生とは思えない容姿だった事だ。東優子は、伊達色眼鏡をかけてはいるが、身長は165センチ程度はありそうで、その細面の顔立ちはきっと美人を想像させたし、もう一人の中野涼子は、身長は160センチ前後、Vネックのセーターとミニスカートと言う出で立ち。顔は東優子よりは若干落ちるものの、その代わり中野涼子の胸は大きく露出され、まるで風俗嬢のようなイメージであった。それが、T大生と言う知性のオーラの放出で何とか学生ぽく見えたのだ。


 ともかく2人とも、かの有名な『週刊文芸四季』の記者が、一体、何のネタで本田秀一に探りを入れているのか興味津々であった。

「本田君、誰か芸能人とでも不倫しているの?」と、女子大生の中野涼子が聞く。

「んな事、絶対ある訳がある筈が無いでしょ。あの能面上の顔立ちの本田君が、芸能人と何の接点があると思うの?そんな案件じゃないと私は思うは…」

「じゃ、何なの?後藤さんだっけ、一体どういう理由で本田君の事をリサーチしている訳?」と、中野涼子が更にしつこく質問をしてくる。


「いずれ世間も分かると思うが、ともかく、ここだけの話にしてほしい。それはお互い誓えるかい」


「勿論よ、で、一体どんな話なの?」と、東優子は身を乗り出して聞く。


 ここで後藤雄一は、自分のスマホで、3週間分の『チワワのチーちゃん週間物語』のユーチューブの画像を見せた。


 この画像の中で語られている、アイヒマンテストやスタンフォード監獄実験の話に東優子は即反応した。彼女によると、今、大学では一般教養の授業がメインで個々の心理学の話までは授業が進んでいないのだが、もともとT大の心理学科に入ってくるような学生は、既に高校生時代から、独自に、自分なりの心理学的研究目標を有して大学に入学してきていると言うのである。


 東優子の心理学上の大きなテーマは、犯罪心理学上における「大量殺人鬼」や「猟奇殺人鬼」の心理的な機序の構築の解明であって、だから、このような猟奇的とも言えるアイヒマンテストやスタンフォード監獄実験についても、ある程度の知識を高校生時代から持っていたと言うのだ。


「そっか、我が大学文学部歴代トップ合格の本田秀一君は、やっぱりサイコ系の人だったのか。それで、彼女と別れた理由も何となく分かるような気がするな」

 この東優子の言葉に、


「本田君には彼女がいたのですか?」後藤雄一が聞き返す。


「さっきも言ったように、私と本田君は高校の同級生でした。本田君には彼には不釣り合いの美人の彼女がいたのです。でも、その彼女とは高校2年の夏頃既に別れています」

「理由は?」

「よくわ分からないけど、こんなサイコな投稿動画を流すような性格なら、彼女から別れたのではないのかしら。でも、彼女の新しい恋人は1学年上の上級生の当時ユーチューバーだったと聞いているから、この本田君の投稿動画は、案外、彼女の新しい恋人になったユーチューバーへの当てつけの、そのためのメッセージかもしれないけどねぇ…」


「そのユーチューバーとは?」


 今度は、東優子がスマホのユーチューブの画面から、『ピラニアテレビ』と言う投稿名の画面を見せてくれた。

「この、ユーチューブ上に自分専用の投稿画面の『ピラニアテレビ』を持っている、ほら、この人が、本田君の彼女を奪った人です。背も高いしハンサムだしね。だから、彼女を寝取ったと言う噂話もあった程です。本田君より1学年上で、現在、私立のK大に通ってます。彼の本名は井坂豊と言います。高校生時代からユーチューバーだったし、また昨年は、人気ユーチューバーランキングで、日本で10位以内に入ってます」


「つまり、東さんの考えでは、恋人を寝取られた腹いせに、こんな訳の分からない動画を当てつけに投稿していると言う事になりますね」

「勿論、そういう可能性もありますし、本田君て頭はもの凄く良いんだけど、どこか常人とは変わったところが高校時代から見受けられたから、あるいは、本気でこのような残酷な実験を、1年後実際に行うかもしれないわね」


「その確率は一体どれ程だと思われますか?」


「私の見立では、1/3、つまり33%です」

「それほど、本田秀一君は、変わっているのですか?」

「私はまだ心理学の専門課程の勉強はしていませんから何とも断言できませんが、あの、時折見せる目付きは、サイコパスかパラノイアの傾向が感じられます」と、東優子。

「私は、むしろアスペルガー症候群、いや、彼の頭のもの凄い良さから推理すればサヴァン症候群に近いと思うけど…」と、今度は中野涼子が補足的に言う。


 サヴァン症候群など聞いた事もなかったが、どちらにしても危険で危ない人間に違いがなさそうだ。後藤雄一は確信を持った。少なくともT大の同級生のしかも心理学専攻の女子大生らが二人口を揃えて言うのだ。あの動画の宣言が実施される可能性が、1/3とは…。これは危ない。即、記事にしなければ!


 その前に、最後には本人に直撃取材しかない。これは、数々の芸能人の不倫ネタを取ってきた自信から、そう抵抗はなかった。無論、人によっては取材したでけで怒り出す人間もいるが、それももう十分に慣れている。


 東優子がスマホに、本田秀一の写メを取っていた。高校3年時のものだから、今から1年ほどしか経ってないが、それほど印象は大きく変わっていないだろう。後藤雄一はその顔を自分のスマホに転送してもらい、再びT大に戻った。もしかしたら、既に、先のマンションに帰っているかもしれないが…。


 しかし、偶然、彼らしき人物が向こうから歩いてくる。身長は、175センチ弱、顔付きは能面のような感じで、東優子が言ったとおり確かにサイコ系の目付きをしているが、逆の見方をすれば、それが秀才や天才の持つ独特の感性を発揮しているようでもあり、女性にとってみればその独特の秀才感が、逆に憧れの的となるかもしれない。この男が、高校生の時に美人の彼女がいたとすれば、この秀才感、あるいは天才感に、その女性は惚れたのかもしれない、とそう直感した。


 ともかく、これは絶好のチャンスだ!逃がす手はない。


「あの、もしかして、本田秀一君ではないですか?」

「はあ?」

「私は、『週刊文芸四季』の記者で、後藤雄一と言うものです。時間が無いのでハッキリ聞きますが、今、ユーチューブで流れている『チワワのチーちゃん週間物語』に出てくるホッケーマスクの男とは、君ではないのですか?」

「僕は、ユーチューブなんかしてません。失礼します」と、本田秀一はニベも無い言い方で、その場を離れようとしていた。

「君は、本気であの可愛いチワワを食べるつもりですか?」

「愚問には、お答え出来ません」そう言って、本田秀一は足早に帰っていった。


 その後をこっそりと着けていったら、案の定、例のマンションに戻った。これで、本田秀一がホッケーマスクの男に間違いが無い事が証明された。社に戻って、急いで原稿を書いた。運が良い事に、見開き2ページ分の原稿が、今週号の発行に間に合いそうだ。


 雑誌の見出しは、

『狂気のユーチューバー、自分の愛犬を食べるのか!』と、扇情的なものにし、本田秀一の名前は勿論出さす、都内の超一流大学の心理学専攻の学生が動画の投稿主であって、これは単なる炎上狙いの投稿動画なのか、あるいは本気で愛犬を食べるのかは、これからじっくりと同投稿動画を注視する必要があると書いた。


 しかも、問題はそれだけではなく、既に、彼の投稿動画を真似るユーチューバーが多数出現してきている事だとも書いた。


 特に、

『私は、1年後、我が子を食べるかも?』などと言う、とんでもない人間も出現してきて、この投稿動画の危険性を週刊誌の記事で訴えたのである。


 しかし、一つだけ不思議な事実があった。


 このホッケーマスクの男の真似をして、似たような投稿画面がどんどん増加していったものの、誰もこのホッケーカスクの男より先の時期に、愛猫を食べるとか、愛犬を食べるとか、誰一人も言っていないのだ。


 つまり、皆、この『チワワのチーちゃん週間物語』の結末や結果をみてからの、行動予定となっている事だった。視聴者も、真似て投稿している者も、やはりどこか半信半疑なのだろう。


 この後藤雄一の書いた記事が、『週刊文芸四季』に載ると同時に、『チワワのチーちゃん週間物語』の再生回数は激増。それに比例して、SNSの世界では、いよいよ過激な内容の投稿が増えてきていた。


 それとともに、民放のテレビ局も直ぐに動いた。某テレビ局はどんな手段を使ったかは知らぬが、ホッケーマスクの男の単独インタビューに成功したとして、独自の特番を放送するまでになった。まさか、と後藤雄一は疑ったが、もともとホッケーマスクの男は、大学の紋章をワザとか偶然とかは分からぬが、チラと投稿画面に載せているのだ。つまり、これはつまり確信犯でないのか?


 テレビ局の独占インタービューの中で、本田秀一と思われる男は、いつものホッケーマスクをかぶり、声を変えて、自分の今回の実験は、人間の心理の心底を検証する世界でも珍しい実験なのだと力説した。そして、最後にこう言った。


「いわゆる、自分の決心どおりに精一杯可愛がった愛犬のチーちゃんを本当に食べる事ができるのか、それとも僕の良心や愛情が、自分の決心に負けてしまうのか?また、本当に愛犬を自分の愛情や良心を超えて、万一僕が愛犬を食べた場合、自分の心が人格崩壊を起こさないのか?この実験は、古来からの疑問、人間の性善説・性悪説の問いに対しても、明白な回答を出せるものと、僕は考えています」


「ただ、今現在の段階で、僕の投稿動画のみで、この僕を動物の愛護及び管理に関する法律違反に問う事はできない筈です。それは、僕がいかに大切に愛犬を可愛がって育てているか、僕の動画を見て頂ければ簡単に分かる筈ですので、では、僕はこれで…」


 このような簡単なインタビューだった。


 本田秀一の心理学用語を駆使しての番組の特番は終わったが、その特番では、約10週間分の『チワワのチーちゃん週間物語』のダイジェスト番を流していた。確かに、その各々の場面は、本田秀一の言うとおり、まるで「猫可愛がり」のような接し方でチワワのチーちゃんを育てている場面ばかりであって、その場面のみを見て、動物虐待を疑う事は、絶対にできなかったのである。


 …最後の、意味不明で不可解な独白を除けばの話ではあったが。


 半年後、この投稿動画の中身は、更に急激に変化してきた。

 まず、最初のほうの「猫可愛がり」の場面は、いつもの通りなのだが、今までと違うところは、

「今日は、チーちゃんを煮るための大きめの鍋を買ってきました」

「今日は、チーちゃんを解体するための良く切れる肉包丁を買ってきました」

「今日は、チーちゃんを味付けするための、すき焼きのタレを買ってきました」

 などと、少しづつ本田秀一が、愛犬を食べるための準備を始めた事を投稿し始めた事だった。何しろ、この半年間は本田秀一からの一方的な話、それも心理学に特化した話ばかりで、具体的な行動は何も無かったから、余計、視聴者の目を引いたのである。


 そのためか、気の早い者達は、SNS上で、

「やっぱ、ホッケーマスクの男は、どうも本気らしいぜ」

「後、半年後、あの可愛いチーちゃんを煮て食べるつもりなんやろうか?」等々の、過激な意見が駆け回ったのである。


 既に、後藤雄一と東優子とは、メールもラインも交換していた。この半年間、後藤は彼女に本田秀一の見張り役を頼んでおいたのである。ある意味、それだけ仲良くなったと言う事でもあった。


 T大内でも、この不可解な投稿動画を繰り返している人物が、本田秀一である事は、皆、承知の事実となっていた。しかし、誰も手を出せないのである。文学部長は、法的な面を法学部長に相談してみたものの、殺人を示唆しているのなら殺人未遂罪で何とか対処できるかもしれないが、今のままでは、いかなる法律にも該当する可能性は無いと聞いて、手をこまねいていたのである。


 そして仮にである、現実に、本田秀一が愛犬を食べたとしても、その時の心理的葛藤や良心との格闘を、現在までに存在しない斬新な学術論文として発表された場合、新たな心理学的な挑戦を有した今までに存在しない論文となる可能性や期待感もある。

 T大内の学部長らの大方の意見は、世間に与える影響は決して芳しいものでは無いとしつつも、今しばらく様子を見ようと言う結論に落ち着いたのである。…もっと言えば、この投稿動画を削除しないよう、ユーチューブ社に顔の利くOB連中に手を回したのである。


いよいよ、本田秀一が最終期限とする、チワワを買い始めてから1年目に近づこうとしてきた。


 最初の登校日は、昨年7月の第一週の日曜日であった。つまり万一、その実験が行われるとすれば、今年の6月末の週の日曜日か、7月の最初の日曜日と言う事になる。


 本田秀一のマンション内には、大きな鍋、肉切り包丁、その他の調理器具の他、すき焼き用のタレ、盛りつけ用の大皿等が既に準備されており、後は、本田秀一の決断一つだと言う事は、視聴者にもハッキリと理解できるようになっていたのである。


 それでいて、本田秀一の愛犬のチワワの可愛がり方は、それはそれは人並み以上で、高級な犬缶を与え、また雌犬なので可愛いリボンや真っ赤な服を着せてもらうなど、その扱いは動物虐待からは、ほど遠いものであった事もまた否定できない事実であった。


 さて、1年目近くに到達したとして、ホッケーマスクの男つまり本田秀一は果たして如何なる行動に出るのであろうか?


 皆が、興味津々で、1週間毎に更新される『チワワのチーちゃん週間物語』を食い入るように見ていたのである。


しかし世間のこのような異常な盛り上がり方に、警察(警視庁)も黙っていなかった。


『私は、1年後、我が子を食べるかも?』を投稿した男が、実際に30歳の成人男性で、満2歳児を養育し、近所から児童虐待の通報もあった事も判明した事から、一罰百戒の意味もあったろうが、殺人未遂及び児童虐待の罪で、検察に書類送検を行ったのだ。


 無論、この投稿画面自体が、既にユーチューブ社から強制削除されていたのにも関わらずにである。

 この逮捕の一件で、本田秀一を真似たユーチューバーは、投稿画面上で自分の投稿は注目を浴びたいだけの軽い冗談だったと、臆面も無く謝罪する者が続出。昔の学生運動家の言葉を借りれば、「転向宣言」を次々に行っていったのである。この警察の行動は、確かにインパクトは大きく、新規の似たような投稿動画はピタリと止んだ。


 しかしながら、『チワワのチーちゃん週間物語』だけは中止にはならなかったのだ。ネット上の噂では、T大自体がこの心理実験の推移とその最終的な結末を見てみたいがため、ユーチューブ社に圧力を掛けたのではないか?と、多数の意見が書き込まれていた。


 ホッケーマスクの男は、更に、過激な言動を投稿していく。

「今日は、チワワの人形で首を切断する練習をします」と、そう断言したあと、玩具店で売っているような子犬の人形の首を、肉切り包丁でバッサリと切断してみせた。

「今日は、人形の腹を割きます」

「今日は、人形を鍋で煮ます」

 徐々に、その内容は過激になっていったのである。


そして、運命のその日、つまり6月の最終日曜日の投稿時間になった。


 日本中の多数の視聴者が、その動画の中身を虎視眈々と注視していた。

 そしていよいよ、その時がきた!

 大多数の視聴者は、毎回、変な投稿動画を投稿しているこのホッケーマスクの男は、その自分の宣言通りの実験をやり遂げると思っていただろう…。子犬の一瞬の絶叫と、血生臭い子犬の殺害現場、肉をさばく場面、そしてぶつ切れにした肉をすき焼き風に料理してきっと食べるでのであろう…。


 しかし、現実の投稿画面は、視聴者らの想像とは全く違っていたのである。


 何と、ホッケーマスクの男は、右手に大きな肉切り包丁を持ちながら、テレビカメラの前で、大声で泣いていたのだ。

「ぼ、僕には、出来ません!今まで、精一杯可愛がったこの可愛い愛犬を殺して食べる事など、僕にはどうしても出来ません。

 この心理実験は、完全に失敗しました。でも、人間には、良心や愛情の力が、意思の力に勝る事が証明されました。つまり、性悪説は負け、性善説が勝ったのです。

 僕は、この体験を、理論的な心理学の学術論文にして、今後、世に問うつもりです。

 そして、この『チワワのチーちゃん週間物語』の投稿動画は、本日をもって完全終了いたします。皆さん長い間、ご試聴ありがとうございました」

 

えっ!これだけ!


 実にあっけない終了だったではないか。

 この場面をじっとみていた、後藤雄一は、早速、

『狂気のユーチューバー、良心が勝って悪魔の実験は終了!』の見開き2ページの記事を書き上げ、最新号の『週刊文芸四季』に載せる事になった。

 日本中の話題をさらった『狂気のユーチューバー事件』は、ホッケーマスクの男の1年間の暗中模索の後、こうして、あっと驚く終わりを遂げたのである。


【中編 後藤雄一の執念】


 さて、あの『狂気のユーチューバー事件』があっけない結末を迎えてから約10日を過ぎた頃、女子学生の東優子から、渋谷にある、隠れ家的な存在ながら食材の豪華さ新鮮さで食通の間では有名な、瀟洒なフレンチレストラン「Sレストラン」で会ってくれないか?と誘いを受けた。


 この東優子には、ホッケーマスクの男の男、つまり本田秀一の見張りを頼んでおり、今まで常にメールやライン、時には電話でも連絡を取り合っていたので、いつしか単なる情報元から、ほのかな愛情へと気持ちが変わっていた事を、後藤雄一本人も自覚してきていたのである。


 ウキウキした気分で、待ち合わせの時間の当該レストランへと出かけた。


 当の東優子は、綺麗に化粧をし清楚なスーツを着ている。…あまりに美人に変身していたので、呆気にとられたくらいだ。後で聞くと、ミスT大の準グランプリにもなっていたのだ。…成る程、美人な訳である。


 しかし、後藤雄一は東優子の隣に一人の男性がいる事に即気付いた。しかも雰囲気が東優子にどことなく似ているではないか?まさか、彼女の父親もここに同席しているのか?しかし、一体、何の理由で、東優子の父親まで、この席にいるのだろうか?いつもは頭の切れる後藤雄一にも、サッパリ理解できない。


 席に座ると、東優子はまず父親を簡単に紹介し、食事から食べましょう、と食事を勧め、またワインも頼んだ。後藤雄一は、今日は車で来ているのでは無いので酒も飲めるのである。


 何か狐に包まれたような気分のまま、食事やワインを飲んでいると、東優子は、急に、

「あ、あの、私をお嫁に貰って下さい」と、突然の逆プロポーズを受けたのである。

「えつ!」

「大丈夫です。既に父親の了解も取ってあります」そこまで東優子が言うと、東優子の父親と思われる二人も、深々と頭を下げた。


「ちょっと、待って下さい。東さんは、まだ未成年でしょう」


「だから、既に父親の了解もとってあり、今日、この席にも同席してもらっているのです」 ここで、東の父親は次のように頼んだのだ。

「後藤さん、後藤さんのお話は、娘からいつも聞いていおります。

 ちなみに、私は、浅草で代々、海産物、特に乾物の卸問屋を経営している者です。ですので、高度な学問的な話は全く分かりません。

 そもそも私は娘のT大進学は反対でしたが、娘がどうしてもT大へ行って心理学を勉強したい、臨床心理士とやらになりたいと言うので行かせたんですが、何分、女性でT大卒となれば、嫁の貰い手があるかどうか常に心配していたのです。

 特に、この優子の弟が生まれた後、母親は急死してしまいました。その頃、まだ小さかった優子が、母親代わりによく弟の面倒をそれはそれは良くみてくれました。小学生の頃からは、我が家の料理も作ってくれました。

 父親としては、その恩に報いるためにも、誰かいい人がいれば、優子を早めにお嫁に貰ってもらい、幸せな家庭を築いてもらいたいと、常々、思っておりました。

 そこに後藤さんが現れたのです。後藤さんは一流の出版社に勤務されていますし、また大学もH大卒で、T大もH大も共に国立の一流大学です。

 きっと、二人はうまく行くと思います。どうか娘を貰ってもえないでしょうか?」


 後藤雄一は、脇の下に汗をかきながら、この話を聞いていた。

 確かに、東優子とは1回り以上も年は違うものの、自分も30歳半ばを過ぎており、仕事が忙しく、なかなか女性と知り合うチャンスが、あるようで無いのが実情である。


 無論、自分は、雑誌記者をしているストレスから、たまに高級風俗店にも通っている。別に相手が美人だからといって、気後れする事も全く無い。

 また、自分の両親からは、早く結婚しろといつも言ってくるのだ。誰と結婚しようと一切文句は言わないと留守電に、毎日、伝言が毎回入っている程だ。


 だから、ここで返事をすれば、即、結婚できる事になる。東優子は、今のようにキチンと化粧すれば目の覚めるような美人である事は間違いがないのだ。こんなチャンスは、人生でもそうそうは無いであろう。


 迷って返事をしかねていると、東優子の父親は、更に衝撃的な言葉を言った。

「後藤さん、何なら、今晩から後藤さんのマンションに娘を連れて行ってもらっても構いません。これも二人の運命だと私は思っています。式はその後で、後藤さんの都合の良い時で結構ですから」


「学生結婚になりますが、それでもいいんですか?」と、後藤雄一。


「それに関しては、一つだけ私からお願いがあります。私が、臨床心理士の資格を取るまでは、子供はできないようにして下さい。でも、私、料理も目茶苦茶得意なんですよ。

 あっと、安心して下さい履いてますよ。でも、もし今日、雄一さんのマンションへ連れて行って貰ったら直ぐに脱ぐかもしれないけど…」と、東優子が例のパンツ芸人の一発ギャグを交えて言った。


 この天下のT大生が絶対に言う筈も無いような面白いギャグに、後藤雄一は笑い出すとととに、東優子の本気度を感じた。ついに後藤雄一も決心がついた。


 後藤雄一の住んでいるマンションは賃貸物件だったが、うまい具合に1LDKではなく2LDKだったし、ベッドもダブルでは無いがセミダブルだから、何とか二人で寝る事は不可能では無い。


「じゃ、今日から、俺と一緒に住んでみるか?」


「よろしく、お願い致します」と、東優子はテーブルに両手の指をついた。

 こうして、後藤雄一と東優子は、急遽、同棲生活を始める事になったのだ。


 あっと言う間に、後藤雄一の夢のような2週間は過ぎた。この2週間は、自分の全身が男性器のみになったように感じた。

 また、上司にもそれとなく伝えてある。晩婚を心配してくれていた上司の編集長は、事の他、喜んでくれた。

「結婚式には、必ず呼んでくれよ。一世一大のスピーチをしてやるからな」と、編集長は言ってくれた。


 だが、同棲を開始してから2週間目の事、学校からその日は遅く帰ってきた優子が、急に変な事を口走ったのだ。

「ねえねえ、雄一さん。今日学校で変な場面を見たの」

「それは、例の本田秀一がらみの話で?」

「そうよ、あの本田秀一が、窓の外を見て、甲高い奇声を上げてケラケラ笑っていたのよ。

 でも、あれは、まともな人間の笑い方では決して無かった。正に、私が最初感じたサイコパスかパラノイアのような目付きで笑っていたわ。

 …雄一さん、今は、『チワワのチーちゃん週間物語』の投稿動画は完全に終わっているけれど、もしかしたら、本田秀一は、その後本当に愛犬のチワワのチーちゃんを食べたのではないかしら?」


「うーん、それはまた物騒な話だが、確かにこの数週間、全く何の投稿動画も無いのは話が少し旨すぎるかもしれないなあ。少し不気味な気もする。

 よし、明日、本田秀一のマンションに直接乗り込んで、チワワのチーちゃんの生存を確認してみるよ。あのマンションは、タワーマンションのような高級マンションじゃ無いから、簡単に本田秀一の部屋にまで行ける筈だ」


 今まで新婚気分に浸っていた彼に、再び、週刊誌記者の心に火が付いたのだ。


 考えてみれば、あれほど世間を騒がせた『狂気のユーチューバー事件』がこのまま、簡単に幕を下ろすとは、とても思えなかったのである。


 本田秀一のマンションの場所は知っている。何回か訪ね、マンションの管理人とも既に顔見知りとなっていた。

 そのマンションを訪ねると、いつもの管理人が顔を出して簡単に挨拶してくれた。

「まだ、例のユーチューブの件を追っているのですか?」と、管理人が言う。

「ええ、あまりにあっけない終わり方なので、どうにも納得できないので、実際に本人に会いに来たのです。今日は、日曜日ですし、まだ朝なので本田秀一君は外出していないと思いますが」


「私は、外出したところを見てませんから、多分、まだ部屋にいるんでしょう」


「ありがとうございます。直ぐに見に行ってみます」


 後藤雄一は、エレベータで、本田秀一の住んでいる4階の一部屋を訪ねた。

 ドアホンを押す。

「何ですか?」と素っ気ない返事だ。

「『週刊文芸四季』の記者の後藤雄一です」

「ああ、例のユーチューバーをボロクソに書いた週刊誌ですね。それが僕に何の要です?」


「あなたが、例のユーチューバー、ホッケーマスクの男だと言う事は、知っている人は知っているのですよ。ただ、あの可愛いチワワのチーちゃんがどうなったのか、我が社に問い合わせが殺到しているので、その後の様子を見に来たのですが…」


 ここまで言うと、ドアが開いた。

 整った顔付きではあるが、表情がまるで能面のような本田秀一が顔を出した。

「一体、何を確かめたいのです?」


「チワワのチーちゃん。その後、どうなっているのですか?食べたのではないのですか?」

「分かった。分かった。今から呼びますよ。チーちゃん、チーちゃん、こっちへおいで」と本田秀一が呼ぶと、あの可愛いチワワのチーちゃんが、トコトコ玄関まで出てきた。


 いつもの真っ赤な子犬用の洋服を着て、首をチョコンとかしげて後藤雄一を見ている。


 まぎれも無い、本物のチワワのチーちゃんであった。しかも、綺麗にトリミングもして貰ってあり、大切に大切に扱われている事は間違いが無い。


「では、あの、例の心理学の論文はどうされるんですか?」

「卒論にしますよ。まあ、世界中の心理学者があっと言うような論文に仕立てるつもりです。その後は、その論文をひっさげて、アメリカのH大学大学院に進学予定です。これだけ聞かれればもう十分でしょう。お帰り下さい」


 このような状況下で、本田修一が窓の外を見て何故ニタニタ笑っていた事など、質問できる筈が無い。それに、そんな事を聞けば、同級生でもある妻の優子が疑われる。入籍はまだなので、東の姓は変わっていないから分からないでいるが、その内に式を挙げて籍を入れれば、東優子は後藤優子となって、自分との関係が疑われるのは目に見えている。

 それは、妻の優子を危険にさらす事にもなるのだ。妻に言わせれば、本田秀一には、どこか常人とは違った面が感じられたからだ。


さて、これだけの情報を持って、自分のマンションに帰宅した。ついでに会社に寄って仕事もしてきたので、帰宅は午後6時過ぎとなった。

 優子が、見た事もないような料理を作って待っていた。何でも、エスニック料理だと言うが、こんな情報をどこから入手するのだろう。これもやはりSNSの力なのだろうか?


「雄一さん、で、どうだった?」

「それが、確かに本人に会って確かめて見たんだがね。あのチワワのチーちゃんは、元気で無事だったんだよ」

「じゃ、本当に食べて無かったのね」

「まあ、そういう事になるわなあ」

「でも、私には納得いかないわ。あんな奇妙な甲高い笑い声や奇妙な目付きを、私は未だかって見た事が無いの。じゃ、あの奇妙な声や顔は、一体何に対して、どういう理由で笑っていたのかしら…」


「うーん、僕は心理学者じゃ無いから、何とも返答ができないが」


「私は、何か嫌な事が今後、起きるような気がしてならないのよ」

「まあまあ、そんなに気にするなって。それより、この豪華なエスニック料理を食べようよ」と、それだけ言って、後藤雄一は料理に手を付けた。


 ただ、一人、優子だけは、どこか釈然としない表情だった。


 次の日の朝のニュースを、朝食を作りながら見ていた優子は、雄一を叩き起こした。

「雄一さん、起きて!とんでも無い事件が起きたのよ」

 まだ、時間は朝の6時丁度である。一体、どんなニュースなのか?テレビでは、極、ありふれた殺人事件のニュースを流していただけだった。

 現役の私立のK大生が、同居中の女性:19歳を殺害したと言う、いつもの聞き慣れたニュースだ。


「一体、このニュースの何処が、とんでも無い事件なんだ?」

「ほら、このK大生の犯人の名はあの井坂豊なのよ。そして殺された女性は、高校生時代の本田秀一の同級生で元恋人だった女の子:小林奈々なのよ。

 この井坂豊って、高校3年生の時に、その時まで本田秀一の恋人だった1年年下の小林奈々を寝取ったと噂されているし、当時から既にユチューバーでも結構有名だった人なのよ。これって、偶然にしちゃ、あまりに出来過ぎた話じゃない?

 それに、この前の本田秀一の気味悪い笑いと言い…」


「ユーチューバー繋がりなのかな?」と、雄一が言った時、テレビのニュースでは、殺人犯人とされる井坂豊が、

「俺の意思じゃない、誰かが、俺に命令したのだ!」と、精神障害を伺わせるような言葉を吐いているため、警察のほうでは、今後、慎重に取り調べるとアナウンサーが話していた。


「うーん、このニュースを聞いていたら、井坂豊は、まるで統合失調症にでも罹患しているような言動だなあ…」

「雄一さん、私の同級生にK大生がいるから、もしかしたら大学進学後の井坂豊の様子が分かるかもしれない。今日、聞いてみます」

「俺も、会社へ行って、もう少しユチューバーとしての井坂豊について調べてみるよ」


 その日、後藤雄一が、会社で井坂豊について調べてみると、一昨年、全国ユーチューバー人気ランキングで10位に入っていた井坂も、現在は、全国人気100位以内にも入っていず、ユーチューバーとして既にその旬を過ぎていた事だけはハッキリ分かった。


 再び、警視庁にいるサイバー犯罪対策課の上原警部に連絡を取って井坂豊の取り調べ状況を聞いてみた。しかし、殺人事件そのものは刑事部捜査一課の取り扱いで、上原はほとんどその状況は知らされていなかった。

 ただ、井坂豊が、あまりに支離滅裂な供述を続けたため、本当に精神障害が疑われ、某有名大学の精神科の教授に、簡易精神鑑定を行って貰ったと言う話までは確認できた。これは捜査一課の刑事がしていた話をこっそりと上原が耳にした情報による。


 しかし某教授は、精神障害では無いとハッキリと明言したらしい。すると、これはワザと精神障害を装っているのだろうか?、いわゆる「詐病」なのだろうか?


 井坂豊は曲がりなりにも私立K大経済学部在学中である。だとすれば、心身喪失状態にあれば、罪は問われない事ぐらいは常識として知っている筈だ。これを狙っての行動なのだろうか?

 しかし、仮に刑法上の罪は免れたとしても、代わりに医療刑務所に入所させられ事になる。どちらにしても井坂豊の今後のこの世間における状態は、そうそう代わりがあるものでもない。

 それにしても、自分の意思で無くて、それでいて殺人事件を起こす事など、果たして現実問題としてはあるのであろうか?


 これについては、妻の優子のほうが詳しいかもしれない。


 夜、会社から帰宅した雄一は、妻の優子に、今日、警視庁の大学の同級生に聞いてきた事を話した。優子は優子で、K大に進学した高校時代の同級生に、最近の井坂豊の動静を聞いてきていた。


 ただ、優子の話によると、この1年で井坂豊の性格は激変していた事が分かった。何かに取り憑かれたようにフラフラと学校に来ている事もあったらしい。

「やはり、統合失調症か何かの精神的な病に罹っていたのかなあ…」

「でも、井坂豊の陳述内容が、どうにも気になるわ?

 自分の意思ではなく、誰かが、自分の心を支配しているとは、本来なら雄一さんの言うとおり統合失調症の典型的な症例なのだけど、簡易精神鑑定したN大学の博士は、精神医学界では日本でも5本の指に入るほどの先生なのよ。その先生が、精神病でないと言っているとすると、これ、どのように解釈したらいいんだろう?」

 

「まあ、あまり深く考えなくていいんじゃないか?井坂が同居中の恋人を殺害した事実だけは動かせないからな」


「うーん、私には、もっと深い何かがあるように思うんだけど…」、と妻の優子は何処か納得できない様子だった。


 しかし、同じような悩みは、実は、警視庁刑事部捜査一課も抱えていたのである。

 犯人の井坂豊は、

「確かに、この俺が、包丁で恋人の小林奈々を殺害した事は間違いがない。しかし、最大の問題は、この俺の意思で殺したのでは無い事だ。つまりこの俺には故意が存在しないのだ。誰かが、この俺に命令したのだ」との主張を繰り返す。


 ついに、別の高名な学者3人にも、精神鑑定を依頼する事になった。しかし、驚くべき事に、3人が3人とも、井坂豊は精神障害ではないと断言したのである。


 結局、この3人プラス最初の簡易鑑定の結論を踏まえ、井坂豊は罪を逃れるために「詐病」を使っているとして、東京地検に書類送検されてしまった。後は、検察の仕事だと言わんばかりの仕事ぶりであった。

 東京地検では、この「詐病」説を元に公判を戦うべく、被害者の血の付いた包丁、その包丁に井坂豊の指紋がついている等々の、直接証拠を山程揃え、裁判員裁判に持ち込むと言う筋書きで話を進めていったのである。


 それから、数ヶ月間、何の進展も無かった。


 しかし、嫌な話を、後藤雄一は耳にしたのである。同じ社内の同僚の記者が、妻の優子らしき女性が、最近、例の本田秀一と喫茶店で会っていたのを見たと言うのである。

 これは、彼女の話からすれば、大変に矛盾する行動であった。何故なら、本田秀一が危険人物だと言っていたのは他ならぬ優子自身だったから、なおの事、奇妙な感じに襲われたのである。

 

 この話に疑問を感じた雄一は、仕事が休みの日に、さりげなく本田秀一との逢い引きの件を聞いてみたのである。しかし、妻の優子は、待ってましたと言わんばかりの笑顔で、雄一にその理由を説明し始めたのである。


「あのね、雄一さん。私は、井坂豊の自白内容から、もしかしたら、井坂豊は何らかの心理的誘導を受けていたのでは無いのか?との仮説を立てて、この数ヶ月、色々研究していたの。

 そして、遂に、ある秘密を発見したのよ。それが、この動画、つまり『チワワのチーちゃん週間物語』の投稿動画の中に、あったのよ、見てみる?この画面を発見してくれたのは、同じ大学の、凶悪犯罪研究会の上級生で、パソコンや電子機器に凄く詳しい人なのよ」


「一体、どんな画面なのだ?」


「それは、そのユーチューブの最後の一画面、つまり動画の中の最後の一画面、1秒間に24コマ~30コマあるビデオの最終画面のたった一画面に、全ての謎の鍵があったのよ」


 しかも、その画面は、正にあっと驚く画像であった。

 小林奈々の首元に包丁が突き刺さり、鮮血が飛び散っている、明らかにCGで作成された画像だったのだ。


「何なのだ、この画像は?」

「サブリミナル効果よ!」

「サブリミナル効果とは、あの、映画館でコーラを飲ませたと言うあの話なのか?」


 ここで、サブリミナル効果の話を極簡単にすると、1957年9月頃、アメリカのある映画館で、撮影中の映画の中の一コマ、一コマに、コカ・コーラの写真を挟んで上映したところ、観客がいつも以上に、コカ・コーラを注文したとされる心理実験の事である。ウイキペディアには、意識と潜在意識の境界領域より下に刺激を与える事で表れるとされている効果の事で、サブリミナルとは「潜在意識の」という意味の言葉と書いてある。


「そう。私は、この画面を見て、初めて井坂豊の殺害動機が理解できたのよ。『チワワのチーちゃん週間物語』を投稿動画は、敢えて、現役のT大生と分かるような画面になっていた。井坂豊も元々は第一志望はT大だった。ユーチューバーで人気が出てきたので、T大は受からなかったらしいけどね。だから、当然、ユーチューバーでもあった井坂豊もその画面を見る事を想定して、あの動画投稿は行われたのよ」


「うーん、簡単には信じられない話だがなあ…」


 すると、優子は鞄の中から、デジタルボイスレコーダーを取り出した。 

「この中に、本田秀一との会話が入っているのよ。雄一さんが私が本田秀一と会っていたと言う日の話を録音してあるの」

「大丈夫だったのか。もしこの話が本当なら、いわば殺人犯と直接会うようなものじゃないのか。はじめに言ってくれれば、僕は、心配で絶対に止めたのだがなあ」


「大丈夫よ、この画面を発見してくれた凶悪犯罪研究会の先輩らに、近くの席で待機してもらっていたからね」あの優子に、そんな度胸や勇気があったとは驚きだったが、考えてみればこのマンションにたった1回の見合いで、その日のうちに、押しかけ女房同然で転がり込んできた女性でもある。それぐらいの事はやりかねないかもしれない。


「じゃ、その時の話を聞かせてみてくれ」


 その話の内容は、優子が、サブリミナル効果で殺人は行えるか、どう思う?と、ゆっくりと、T大の同級生でもある本田秀一に聞いている会話だった。


 しかし、本田秀一、あのホッケーマスクの男は、この優子の質問に、極めて冷静に学問的に回答していた。

「サブリミナル効果で、殺人事件を起こしたと言う殺人事件例は、かってない。

 心理学的には、多少の効果はあるらしいが、人を殺すまでの強烈な殺意を持たせる事は、不可能であると言うのが通説だ。

 その質問をするところをみると、東優子さんは、『チワワのチーちゃん週間物語』の投稿画面の中に、そのような画面をあった事を発見したのかもしれないが、残念ながら心理学的には不可能な話なのだ。当然、不可能である以上、この僕を刑事告発しても、井坂豊の殺人事件との相当因果関係が無いため、この僕は書類送検すらされないよ。まあ、結構いいところまで追求した努力は認めてあげるがね。

 この話は、例えばだよ、「丑の刻参り」をした人物が、殺人罪や殺人未遂罪で刑事告発されないのと同じ理屈だよ。刑法的には『不能犯』と言うらしいが。

 じゃ、僕には時間が無いので、今日はこれで…」


 デジタルボイスレコーダーの録音は、これで終わっていた。


「随分、突っ込んだ話をしたものだな。本当に危なくはないのか?」


「大丈夫よ、本田秀一は、例の論文の作成に現在ようやく取りかかっているみたいだし、彼の言うとおり、例えこの話を警察にしても、多分、全く相手にされないでしょうねえ。


 井坂豊の殺害動機は、やはり何らかのいざこざが小林奈々との間にあったのが原因なんでしょう。それに高名な精神科医らが彼は精神障害では無いと言ってはいるけれど、もしかしたら、何らかの違う精神的な病気なのかもしれないし…」

「うーん、何ともスッキリしない話だなあ…」


 ここで、後藤雄一は、再度、この問題を考え直してみる事にした。

 確かに、妻の優子が発見したというサブリミナル効果の面は、新しい発見ではあったものの、この効果だけで井坂豊が殺人事件を起こせるとは、自分も到底思えなかった。


 何かが、まだ、あるのだ。この俺の知らない何かが、この井坂豊の殺人事件の裏にある筈だ。それは一体何なのだ!まず、この点を追求しないと、どうしても、自分の心が心底納得できない。


 しかし、心理学的の知識の無い自分にしてみれば、この問題の解決とは、警察や検察も巻き込んでの、正に「群盲象を評す」状態に陥っている状況なのだ。


後藤雄一は、別の観点から、再度、この一連の事件を再検証してみる事にしてみた。


まずは、優子の友人で、本田秀一の同級生の中野涼子に会って話を聞いてみよう。何故なら、これまでの本田秀一の正体についてのホトンドの話は、妻の優子からしか聞いていないのだ。

 無論、自分もそれなりに調査はしてきたが、妻の優子が言っていた本田秀一が、窓の外を見て、甲高い奇声を上げてケラケラ笑っていたかどうかは、妻の優子からの一方的な話だけであって、その話の裏付けが取れていない。


それに、母校のH大学へ行って、社会学部の社会心理学の教授に、サブリミナル効果等の効力の有無についても、専門的な意見を聞いてみようと思った。


 まずは、中野涼子にうまく連絡を取って会う事になった。勿論、妻の優子には秘密にしてくれと頼んでおいた。本当は二人は同級生で友人なため、あまり突っ込んだ話はできないので、あなたの目から見ての本田秀一感を聞きたいと言う事にした。


 しかし、中野涼子は、本田秀一の異常性は以前と同じように確かに指摘はしたものの、妻の優子が言っていたような奇声を上げて笑っていた様子は、自分は見ていないと言った。これに関しては、若干、妻の言う事と違う。ただし、中野涼子はその場面に出くわさなかっただけかもしれないので、何とも断言はしかねる。


 しかし、後藤雄一は、自分の本田秀一の異常性の強い強い刷り込みが、妻の優子から大きくもたらされているのではないか?との疑念を抱くようになったのである。


 2日後、母校のH大学へ赴き、社会心理学の教授に面会した。


 後藤雄一が最初に聞いてみた事は、果たしてサブリミナル効果で、殺人の故意を持たせられるかと言う一点であった。しかし、母校の大学教授は、

「サブリミナル効果のみで、相手に殺人の故意を持たせる事は不可能です。大体が、サブリミナル効果自体、正統的な心理学界では公には認められていません。かって、そのような実験が映画館であったと、都市伝説のように一部の人間が言っているだけです。

 丁度、ブアメードの血実験のようにね」


「ブアメードの血実験とは、どんな実験なのですか?」


「これも、都市伝説の一つのようなもので、実験国・場所・年代もハッキリしないのですが、要は囚人に人間の血液を何リットルかを抜いたら死んでしまうと暗示を掛け、実際は囚人の血を抜く事はせずに、近くに用意した洗面器に浸した布地から水滴がポタリポタリと落ちる音を聞かせ続けたところ、実際に囚人が死んでしまったと言う実験です。

 ホントの話かどうかは分かりませんが。

 まあ、プラシーボ効果の反対のノンシーボ効果と言う現象でしょうか…」


「そうですか…やはりサブリミナル効果のみでは、殺意は起こせないのですね」


「しかし、私の考えですが、一つだけ可能性があると思います」

「それは?」

「サブリミナル効果+強力な催眠術で、もしかしたら、可能かもしれません」


「本当ですか?」


「あくまで可能性だけです。これまでにも、そのような心理学的実験はありません。ただ、かって、ハイデルベルク事件と言う事件が、戦前のドイツであったと聞きます」


「ハイデルベルク事件とは?」


「これも本当にあった話だと言う説と作り話だと言う説の二つがあるのですが、1930年頃、ある精神的に弱っていたご婦人を、治療と称して催眠療法士が催眠を掛けて、その夫を殺害させると言う話です。

 結局、殺害は未遂に終わり、後に精神科医が調べたところ、そのご婦人は催眠術で夫を殺すように催眠術を掛けられていたとか。まあ、これも都市伝説に近い話と私自信は思っていますが…」


「私の妻は、現役のT大文学部心理学科の学生なのですが、怖い話ですね」と、雄一が相づちをうった時である。


「そうですか。ところでT大の文学部心理学科には、エリクソニアン催眠法の大家がいます。現在は、同大学の名誉教授になっている筈です」


「エリクソニアン催眠法とは?」


「アメリカのミルトン・エリクソンが開発した催眠法で、要は言葉だけで催眠術を掛ける事ができると言う、ある意味究極の催眠術でもあるのです」


 だが、この話を聞いて、そういえば優子はその催眠術の大家でもある名誉教授に、特別に目をかけらてもらっていると言っていた事があった事を思い出した。何か、ここに謎を解く鍵があるのだろうか?


 そもそもである。よく考えてみれば、東優子の父親は、どうしてあれ程の美人で現役のT大生でもある自分の娘を、まるで邪魔者でも追い出すようにこの私に押しつけたのだろう。言い換えれば、やっかい者を押しつけるようにだ。

 …確かに変だ。会ったその日から実の娘をマンションに持ち帰ってくれという父親など、よく考えてみれば、この世に果たして存在するものだろうか?


 優子に、もしかしたら何か隠された過去や事実があるのでは無いのだろうか?


 急に、心配になってきた。

 無論、妻としての優子は、テキパキと家事をこなしながら、勉強のほうも真面目に頑張っているのは感心できる。どこにも不思議な点は無い。しかし、何かがおかしいのではないかろうか?一度、妻の過去を探ってみようではないか?


 後藤雄一の雑誌記者の本能に再び火がついていた。もう、鬼が出るか蛇が出るかが分からないが、後戻り出来ないのだ。しかし、この点に目をつむる事はできないように思えた。

 そして、その原点は、妻の優子の過去に何かがあるのではなかろうか?


 取材と称して、会社を出た後藤雄一は、妻の優子の実家のある浅草の問屋街に足を運んだ。誰か、彼女の小さい頃を知っている人はいないものだろうか?

 足を棒にして歩き廻ってもなかなか、妻の小さい時の頃を知っている人には出会えない。

 ふと、優子の自宅近くの私立保育所に目が向いた。彼女は、小さい時に母親を亡くしている筈だから、きっとこの保育所に通っていた筈だ。その中で、彼女の小さい頃の事を知っている保育士がまだいるかもしれない。


 ダメ元で、その保育所長に面会を申し込んだ。無論、自分の社員証や名刺を見せての取材申し込みであった。取材理由は、彼女が、ミスT大の準グランプリになった事であった。確かに自分との同居前、彼女は、ミスT大のグランプリで準グランプリを勝ち取っている。


運が良い事に、保育所長は、東優子の事をしっかりと覚えていた。


 そして、彼女がミスT大の準グランプリになった事も知っていた。しかし、彼女の話をする時の表情がどことなく暗いのだ。その点を突っ込んで聞いてみると、

「ここだけの話なんですけどねぇ…」と保育所長は、衝撃的な話をし始めた。もし、後藤雄一が優子の事実上の夫だと知っていれば決して言わなかっただろうぐらいの非道い話だった。


「彼女は、小さい時から凄く頭のいい子でした。ただ、時折、考えられないような事件を起こした事もあるのです」

「その事件とは?」

「近くの野良猫を、生きたまま砂場に埋めて、何匹も殺してしまった事です」

「えっ、その話は本当なのですか!」

「私が、彼女にどうしてそんな事をしたのって聞いたら、お母さんが亡くなったので自分でも何が何だか分からないままにカッとなって砂場に埋めた、と言うような返事でした」

「先生は、その時どうされたのですか?」

「まだ小さい子供のした事です。もう少し様子を見守ろうと考えました。で、誰にも言いませんでした。けれど、この判断は正しかったようで、やがて彼女はいつの間にか普通の子供のように育っていきました。事を荒立てなくて正解だったようです」


「そうでしたか…」と、ここで、後藤雄一は妻の隠された深層心理の奥底に横たわる闇を見たような気がした。彼女のライフワークが、犯罪心理学の心理的機序の解明にあると言うのも何となく首肯できるではないか。


 そう考えると、このような心の闇の部分を、妻の優子の父親が漠然と察知していて、この私に彼女のお守りを任せたのではなかろうか?そう考えれば、あの日の父親の社会常識を逸脱したような行動がよく理解できるではないか。


 そうとすれば、井坂豊の殺人事件に彼女が一枚かんでいるのだろうか?あるいは、ホッケーマスクの男の本田秀一の投稿動画に、何か絡んでいるのであろうか?


もし、もしもである。深層心理に闇の部分を抱えている妻の優子が、そのエリクソニアン催眠法とやらを、大学の名誉教授から習っていたとしたらどうであろう。


 いやしかし、こう言う推理もありうる。あのホッケーマスクの男の本田秀一が、同じ大学のその名誉教授からエリクソニアン催眠法を習い、ここで、サブリミナル効果+強力な催眠術を使って、井坂豊を例の殺人事件に導いたのかもしれないではないか?


 ここにきて、今まで解けなかった謎が、急激に解けてきたように感じた。井坂豊をあの殺人事件に導いたのは、もしかしたら妻の優子なのか、本田秀一のどちらかではないのか?それとも共犯なのか?


 自分としては、今回の事件に妻の優子が絡んでいる事だけは決してあってはならない事を祈るばかりだ。


 ただ、ハッキリしてきた事もある。井坂豊の言っている事は、今まで「詐病」とされてきたが、以外に、真実な告白なのかもしれないと言う事であった。


 よし、最後の決め手として、例のT大の心理学の名誉教授に会ってみよう。そして、井坂豊の殺人事件についての名誉教授の意見を聞いてみよう。善は急げだ!


【後編 そして誰もいなくなった】


 後藤雄一は、妻の優子の無罪を信じるためにも、最後に辿りついたのは催眠術の大家とされるT大名誉教授の森田真一郎博士であった。彼に会って、数々の疑問点をぶつければ、きっと、その謎は解けるだろう。


 そして、今日、会社に出社する途中、フト、全ての黒幕は、その森田名誉教授ではなかろうか?という疑念が沸いてきたのだった。


 この考えは、一見荒唐無稽に思えるが、心理学に卓越し、また、催眠術の権威である事からも、この森田名誉教授が全ての粗筋を書いたのであれば、それはそれで十分に理屈が通るのではないか。この仮説によれば、本田秀一や、もしかしたら妻の優子も何処かで井坂豊の事件に関連しているかもしれないとしても、そもそも主犯でないので、少しは気が楽になるのだ。


 もっと言えば、妻の優子は、単に、偶然に本田秀一のサブリミナル効果の画面を発見しただけの事だけかもしれないし…。


 しかし、相手は、T大の名誉教授でもある。そう簡単には会えないだろう。そこで、母校の社会学部長に紹介状を書いてもらい、やっとの事で会える事になった。


 そう、これで、これまでの一連の事件のすべての謎が解けるかもしれないのだ。

 事前に、森田名誉教授の研究室の場所は調べてある。本郷キャンパス内の総合研究棟の校舎の3階に、森田名誉教授の研究室はある筈だ。


 しかし、その森田名誉教授に会う前に、驚愕の事件が連続して起きたのだ!

 これも、この前のように朝のニュースで妻の優子から知らされたのだが、何と、裁判中であったあの井坂豊が、拘置所内で首吊り自殺をして死んでしまったと言うのだ。


 拘置所の壁には、自分の右手の人差し指を食いちぎって、血文字で次のように書き残しての自殺だったと言う。


「真犯人は別にいる!」と。


 これは、うかうかしておれない。


 しかし、夕方のニュースでは、更に衝撃的な事件があった。

 あの、ホッケーマスクの男である本田秀一が、動物保護団体に充てて、

『チワワのチーちゃんをよろしく』と書いた遺書を残して、自分のマンション近くの児童公園で、灯油を被り焼身自殺をしてしまったと言うのである。救急車で病院に運ばれたものの、既に死亡していた、との事だった。


 相次ぐ関係者の連続的な死亡に、後藤雄一は、異様な焦りを感じた。しかし、T大の名誉教授に会えるのは、明日の午後である。


 約束の日、後藤雄一は、急いでT大へと向かった。面会約束時間は午後2時である。


 何とも言えない焦りや焦燥感を感じながらも、遂に、T大名誉教授の研究室にまでやってきた。事前にアポは取ってある。後は、面と向かって自分の疑問をぶつけるだけだ。


 後藤雄一は、森田名誉教授の部屋は、もっと綺麗に整頓されているものと予想していたが、ノックをしてドアを開けると、そのあまりの乱雑ぶりに目を回した。

 前日、焼身自殺した本田秀一は、ユーチューブで自分の部屋を公開していたが、本棚に心理学の本は並んではいたがそれなりに片付いていた。


 が、森田名誉教授の部屋は、足の踏み場もない程の、大量の本が床から積んであった。本棚は勿論全部埋まっている。そこに、体格は太り気味、ただ、目付きがどことなく好色そうな70歳過ぎの学者が椅子に座って、自分を待ってくれていた。最初はあっけに取られていたものの、直ぐに気を取り直し簡単な挨拶をした後、本題に入った。


 なお、後藤雄一は、相手が催眠術の大家である事から、万一、自分自身が質問中に催眠術に掛けられる事も想定して、ペン型の録画もできるデジタルボイスレコーダーと、高精度のデジタルボイスレコーダーと、2種類の録音機器を懐に忍ばせていた。これだけの用心をして、この会談に臨んだのだ。


 後藤雄一は、まず井坂豊の事件の件についてどう思うか?と聞いた。


 しかし、即座に森田名誉教授は誰かは知らぬ、と言い切った。

「先生。それはおかしいでしょう?現に、裁判前に、彼の精神鑑定を行ったのは、先生の大学の同期のJ大学の精神科医ですし、先生の教え子で、昨日、焼身自殺をした本田秀一が、最も憎んでいた相手ですよ。

 それを全く知らないとは、これはこれは、おかしな事を言われる」


「ふ、ふーん、さすが週刊誌の記者だけあって、よく調べてあるな」


「では時間が無いので、先生には失礼ですが、ここで、ハッキリ私の推論を申し上げます。 この事件、特に、井坂豊が同居中の恋人を刺殺したのは、先生が本田秀一にまずサブリミナル効果の入った投稿動画を作成させ、そして先生ご自身か、本田秀一か、誰かは分かりませんが、強烈な催眠術で、かってドイツで起きたとされるハイデルベルク事件のように、催眠誘導により殺人事件を起こしたのではないのですか?」


「…ハハハ、面白い推理だな、この私が真犯人だとは」


 森田名誉教授は、背広のポケットからタバコを取り出して、美味しそうに一服した。


「こうでも考えないと、あの井坂豊の一連の意味不明の言動の説明ができないのです」


「しかし、君の推理には重大な欠陥があるよ、それに気がつかないのかい?」


「重大な欠陥とは?」


「それは動機だよ。何故、T大の名誉教授にもなり、それなりの勲章も貰っている私が、そのような危険と言うか、反社会的行為をする必要があるのかね」と、森田名誉教授は冷静に答えるのだ。


「それは、サブリミナル効果+強烈な催眠術で、現実に他人に殺人事件を起こさせる心理実験をしたかったからじゃないのですか?」


 すると森田名誉教授は、猛烈に笑い出した。

「後藤君と言ったっけ。現代は、そのような殺人をテーマとする心理実験を行える訳もなく、また、仮に百歩譲ってその実験がうまくいったとして、その結果を学術論文にして発表できるとでも考えているのかね。それは、まず不可能な事だよ」


 ここで、後藤雄一は、ウッとつまずいてしまった。…確かに、森田名誉教授の言う事にも一理あるのだ。

 あっと言う間にタバコ1本を吸い終わった森田名誉教授は、更に、もう1本のタバコに火をつけた。


「そこまで調べているのなら、では、私のほうから述べよう。まあ、君が信じるかどうかは別の話だがね」と、こう言って、森田名誉教授は、一連の驚くべき事件の概要を話始めたのである。

 

 それは、確かに、理路整然としており話に一切の矛盾は無かったのである。

「まず、事の発端は、本田秀一君の入試成績からスタートしているのだ。本田君の入試成績は、私の記憶の中では、文学部始まって以来の成績だった。T大の法学部でも医学部でも楽に合格できる成績だったのだよ。この事を不思議に思った私は、入学して1ケ月目の彼に声をかけて、何故、この学部学科を選んだのか、それとなく聞いてみたのだ。


 すると、最初は、渋っていたものの、彼は、

「僕は、復讐のために心理学を専攻したのです」と、こう言うのだ。


 一体、誰に復讐するのかと聞いたら、高校時代の恋人と、その恋人を寝取った1学年上の先輩だと言う。この話を淡々とする顔付きを見て、私は、彼をサイコパスだなと感じた。


 さて、問題はこれからであって、この2人をいかにして、自分が直接に関わらずに、つまり心理学的方法を駆使して死に追いやる事ができるかを研究するために、この学部学科に進学したと言うのだ。


 それのみならず、この私に、何らかのうまい方法が無いか質問してきたのだ。


 無論、私は、即座に拒否したのだが、本田秀一は、世田谷の私の家のスマホの写真を見せて、

「先生の家には、奥さん、実の娘さん、その夫、そして目に入れても痛く無いほどの可愛い2人のお孫さんがおられますね…夜、寝ている内に、一家全員焼死と言う事態も起こりえますよ。勿論、僕に協力して下されば、その危険性は亡くなりますがね…」と、こう私を脅迫したのだ。


 私1人の問題なら、老い先短い命だし、断固、拒否したのだろうが、家族の命まで狙うと脅されては、協力しない訳にはいかない。


 しかも、本田秀一曰く、自分は将来のある身だから、毒殺や刺殺のような直接証拠の残るやり方ではなく、徐々に心理的に追い込んで殺していく方法を教えろと言うのだ。そんなものは、心理学という学問が成立してから、まともに研究された事は無い。


 しかし、彼は、カルト教団の団員が命じられるままに殺人を起こした事例をあげ、何かそのような方法を、現代的な手法で行えないか?と提案してきたのだ。


 そこで、彼の恋人を寝取ったと言う井坂豊が、今流行のユーチューバーだったと言う話を聞き、このユーチューブを使って何か出来ないか?と、私は考え、かって都市伝説のように流行ったサブリミナル効果を使っての、殺人の実行を彼に伝授したのだ。


 こうしてできあがったのが、あの『チワワのチーちゃん週間物語』の投稿動画だったのだよ」


 森田名誉教授は、既に3本目のタバコに火を付けていた。スティール製の机の上だけが妙に綺麗に整理されていたため、机の上のタバコの灰皿には、既に30本程度の吸い殻があった。結構なヘビースモーカーである。


「では、何でも聞いてみますが、東優子はこの事件に何か関係しているのですか?」


「君は、東優子さんをどうして知っているのだ?」


「実は、彼女は僕の妻で、同居しているのです。結婚式もまだですし、籍もまだ入れてませんが」


 ここで、森田名誉教授の顔色が、少し暗くなった。

「君の奥さんだったのか?どおりで、この井坂豊の事件について、君が興味がある理由が理解出来たよ。ただ、残念な事だが、優子さん自信は全く記憶していない筈だが、この井坂豊の心理誘導に大きく関わっていた事は事実だ。


 勿論、後催眠効果により、彼女の記憶には何も残っていない筈だがね」


「優子は、一体、今回の事件でどんな役割を果たしたのです?」


「それを今から説明しよう。さっきも言ったように、サイコパスの性格を持つ本田秀一は、実際に一匹のチワワを飼い、その最終画面に例のサブリミナル効果のあるCG画面を載せて、ユーチューブに投稿した。彼の殺害目的の一人でもある井坂豊もユーチューブの世界では、結構有名だったらしいから、この画面をきっと見る事を想定してだ。

 そのうちに、君の社の週刊誌が『狂気のユーチューバー、自分の愛犬を食べるのか!』を掲載後、視聴者数は飛躍的に増加した。私の計画はうまくいくように自分でも思ったものだ」


「あの記事を書いたのは、この私です」


「多分そうだろうと思ったよ。

 だが問題は、半年たっても、肝心の井坂豊が同居人の小松奈々を殺そうともしない。そこで、本田秀一は、更なる心理的攻撃を仕掛けるように私に迫ってきたのだ。

 しかし、私自身は催眠術には自信を持っているものの、これを仮に本田秀一に教えたところで、本田秀一は井坂豊には直接にはまずは会えまい。そこで、私が目を付けたのは、本田秀一の同級生の東優子さんだ。しかも、私なりの直感で、彼女には何か独特の犯罪者的心理が潜んでいるように感じたから尚更だ。しかもよく聞いてみると、東優子さんの高校時代の1学年上の先輩が、あの井坂豊ではないか。

 こんな絶好のチャンスはない。彼女は、ミスT大で準グランプリも取っている。美人の彼女が誘えば、井坂豊は、女好きそうだからホイホイと出てくるであろう。彼女に、強烈な催眠術を教えて、井坂豊を心理誘導する。…そして、井坂豊をして同居人で恋人の小松奈々を殺害させる。最後は、その井坂自身も自殺するように心理誘導する。


 そして、その心理実験は、思いの通りにいったのではないかな。


 しかし、これにしても学問的には実に難しい問題があるのだ。


 つまり、果たして、サブリミナル効果+強力な催眠術が効いて、井坂豊が同居人の小松奈々さんを殺害したのかの検証が完全にできていないのだ。


 井坂豊の言動を聞く限りは、うまく行ったとは思ってはいるがね…。


 しかし、これにしたところで、もしかしたら、井坂豊は何らかの人格的障害を有していて、ただ、その障害により、あのような支離滅裂な発言を繰り返したのではないか?この疑問は、心理学者としての私の脳裏からは消えていないのだよ」


「しかし、日本中でも数本の指に入るような高名な学者3人が、全員、井坂豊は精神障害では無いと言っているじゃありませんか?」


「そんなものは全く当てにならないよ。あの連続幼女殺人事件の主犯:宮崎勤の精神鑑定書自体が、3人の学者の意見はバラバラであったではないか。私から言わせれば、精神鑑定とは鑑定する人の主観で勝手に決めていると言うのが実態だ。

 もっと言わさせてもらえれば、井坂豊が恋人で同居人の小松奈々さんを殺害したのも、ミス準T大の東優子さんと井坂豊がこっそりと会っていた事を、何かの事情で小松奈々さんがそれを知って、嫉妬のあまり井坂豊を責め続けて、その結果、井坂豊が口うるさい小松奈々さんを殺害した事も十分考えられるからなぁ。

 だから、私自身が、サブリミナル効果+強烈な催眠術で、井坂豊が本当に小松奈々さんを殺したかについても、実は大いなる疑問を持っているのだ」


「なるほど、素晴らしい説明です。で、その後、本田秀一が焼身自殺するようにしたのは、森田名誉教授が催眠術を使って、本田秀一の持っていた全ての証拠隠滅を計ったからではないのですか?」


「ははは、それも絶対に無いね。それに君は、催眠術を何か万能の技術のように考えているらしいが、長い催眠術の研究の歴史で催眠術をかけて人を自殺に追い込んだ事例は、一切、報告されていない。人間には、やはり生きる本能が異常に強く、簡単に催眠術でその本能を壊す事は出来ないと言うのが心理学上の通説だよ。


 唯一、催眠術で自殺させようとするならば、例えばの話だが、高層ビルの屋上に誘い出して、

『あなたの目の前に綺麗なお花畑があります。さあ、その前に行ってその綺麗なお花を摘んでみましょう』と誘導して、本当にうまく行けば、本人が勘違いして高層ビルから落下して殺す事ぐらいだろう

 とにもかくにも、まあ、君が信用するかどうかは疑問だが、本田秀一の焼身自殺の件は私の推理では、本田秀一にも若干の良心が残っていて、その呵責に耐えかねたのではないのかなぁ。 


 ただ、これらの一連の事件の真相は、全ての筋書きを書いた真犯人とされる本田秀一も死に、被害者兼加害者の井坂豊も死んでしまった以上、実は、全てが只の推理と空想の世界の出来事になってしまったと言う事だよ」


 と、ここまで話した後、急激に、森田名誉教授が頭が猛烈に痛いと言って、バーンと、のけぞり返った。バットで殴られたとかと思うような激しい痙攣動作をした後、急激に意識を失ったのだ。


 異常に大きないびきをかいてイスに座っているが、既に、首をイスの後方に垂らし、両腕もだらんと垂れ下がっている。


「森田先生、森田先生!」と、後藤雄一が何度読んでも返事が無い。


 これは異常事態だ。直ぐに救急車を呼んだ。救急隊員に救急車の中で色々聞かれるが、自分でも何の事かよく分からなかった。即座にT大医学部付属病院に緊急搬送され、救急医らが出迎えて森田名誉教授の治療に当たったが午後7時15分には死亡が確認された。


 くも膜下出血であった。


 しかし、ああ、何と言う事だ!この数日で、殺人犯の井坂豊は縊死、本田秀一は焼身自殺、一番事件の鍵を握ると思われた森田名誉教授までくも膜下出血で死亡と、連続して亡くなるとは、一体、どういう事なのか。


 俺は本当についてない。この件から手を引けと言う暗示なのか?


さんざん、疲れた体で、夜の11時過ぎに、妻の優子のいるマンションに帰った。しかし、いつものような明るい返事が無い。急に不安になった後藤雄一は、マンションの奥に急いで入った。


 しかし、そこで見たのは、マンションの壁に大きなS字フックを取りつけて、ロープで縊死していた妻の優子の姿であった。


 テーブルの上には、妻の優子の自筆と思われる遺書が残されていた。

 しばらく呆然として、その遺書も読む気もしなかったが、数分後、気を取り直して妻の遺書を読んだ。


『雄一さん、大変に短い間だけど幸せな時間を頂いてありがとうございます。私は、何か、取り返しの付かない事をしてしまったようです。勿論、よく思い出せないのですが。でも大変な何かを行った事は覚えています。ですので、責任を取って死にます。ごめんなさい』とあった。


 しかし、何故だ?何故、最愛の優子が自殺しなければならないのだ?


 今日の、森田名誉教授の話では、優子が井坂豊と何らかの接点はあった事は容易に想像できる。しかし、森田名誉教授が言ったように、優子に催眠術を教えて井坂豊を心理的に追い込んだなどと簡単に言うが、エリクソニアン催眠法は究極の催眠術とも言われ、そう簡単に覚えられるものでは無い。この事は、優子自身も常々私に言っていた事だ。


 だとしたら、今回の事件で、優子は一体どんな役割をしたと言うのだ?自ら、死ななければならない程の悪事を働いたとでも言うのか?あるいは、こんな不思議な心理事件に顔を突っ込んでいる内に、自分の保育所時代の記憶が蘇り、かって野良猫、数匹を生きたまま砂場に埋めて殺した事を急に思いだし、急激な後悔の念に襲われたのだろうか?


 だが、この一連の事件の関係者は、もう誰もいないのだ。調べようが無いのだ。


 遺書の横に、何かの薬品の入ったプラスチックのケースが置いてあった。そのケースには何の張り紙も貼ってない。遺書には続きの文があった。


『それで、私が死んで、雄一さんガックリして気力も無くなると思うから、テーブルの上に置いてあるのは、私が個人輸入で買った米国製の精神安定剤です。本当に、ガックリされたのなら飲んで下さい』


 馬鹿を言うな!激烈な週刊誌記者同士の取材合戦を乗り切ってきたこの俺が精神的に弱る筈が無い事を、妻の優子が一番よく知っている筈ではないか!だが、後藤雄一は、妻の思いを即理解した。そのプラスチックのケースの中に入っているのは、単なる精神安定剤では絶対無い筈だ。

 

 後藤雄一は、妻の優子が本田秀一との会話を録音したデジタルボイスレコーダー、そして今日、T大の大学院で会話した森田名誉教授の録音が残っている2台のデジタルボイスレコーダーをハンマーで粉々に粉砕し、マンションの金属ゴミ入れに捨ててきた。愛用のパソコンのハードディスクも壊した。それだけの準備を終えて、後藤雄一は得体の知れない薬剤のカプセル数個をコップの水で飲み込んだ。


 次いで、大学の同級生の警視庁警部の上原浩二に、スマホから電話した。


「愛する妻の優子が何故だか自殺してしまったよ。俺も、妻の後を追うよ。色々とありがとう」


「まて、早まるな、例の井坂豊事件の本当の黒幕が分かったんだよ!」


「知ってるよ、本当の犯人は本田秀一、それに脅迫されて荷担したのがT大の森田名誉教授なんだろぅ…」


「それが、ついさっき、井坂豊の殺人事件と自殺、本田秀一の焼身自殺これも結局は他殺だったのだが、T大の森田名誉教授をも巻き込んだ真犯人が自首してきたのだ!」


「い、いったい、だれだ、そいつは…」段々、眠気が後藤雄一を襲ってくる。


「それらの全てに共通の関係を持っていた人間、中野涼子だったんだ」


「な、なんんだって、なぜ、かのじょが…り、りかいできない」


「本人の弁によれば、入学早々、森田名誉教授に非道いセクハラ行為をされたとかで、同級生の本田秀一と組んで、森田名誉教授を脅迫したらしい。ところで、後藤、大丈夫なのか?」


「うーん、だんだん、ねむけが…」


「今、自宅のマンションだな、直ぐに救急車を呼ぶから頑張れ!」


 だが、後藤雄一の耳は、徐々に聞こえなくなっていった。               了


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奇妙な企画のユーチューバーを偶然見つけた明が、受験の件や雄一の勤め先などの偶然が重なり、企画に大きく関係していく経緯に運命的な出逢いを感じましたが、同時に足を踏み入れてはいけない悪の道にのめり込んでし…
[一言] まだ読めていなかったのでこの機会に読ませて頂きました。 さすが立花さん……といった様相の本格ミステリですね。 猟奇的なアイテムをフックに、次はどうなるんだろうと引き込まれて一気に読みました。…
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