ぼんぼり姫
結衣の家は古くてとても大きい。
おじいちゃんとおばあちゃん、お父さんとお母さん、お兄ちゃんと弟と七人家族なのに、使っていない部屋がいっぱいある。
離れには小さな蔵まであって、夜は少し怖い。
蔵には古いものがたくさんあって、虫干しとか蔵の整理とか、他にも季節ごとにやることがたくさんある。
そして今日は、おばあちゃんとお母さんと一緒に、床の間で雛祭りのお飾りをする日だ。
三人でお雛様の歌を歌いながら、結衣は雛人形の飾り付けをするのをちょっとだけ手伝っていた。
まだ小さいからと、お雛様や道具を箱から取り出すくらいしかさせてもらえないけれど、でも結衣はそれでも充分満足だった。
内裏雛。
三人官女。
高坏とお餅。
五人囃子。
随身……。
お母さんはひとつひとつ、結衣に名前を教えながら丁寧に飾っていく。
おばあちゃんが、東向きに床の間に飾るのよ、でも最近のおうちでは難しいから……と、去年と同じことを繰り返した。
でも結衣はあまりよく覚えていなかったので、おばあちゃんの隣で神妙な様子でそれを聞く。
七段分、天気の良い晴れた日の午前中、ぽかぽかと暖かい中で雛人形を床の間に飾る。
それは毎年、わくわくと心躍る楽しい作業だ。
そして何より。
結衣はあるひとつの箱から、いっそう大事に大切に、そっとそれを取り出した。
花模様の、ピンクの雪洞。
全ての飾り付けが終わったあと、結衣は自分がやるのだと言い張って、雪洞をコンセントに差し込んだ。
ぽうっ、と桃色のあかりがついて、午前中の日差しで明るい畳の部屋の中に少しだけ色が差した。
結衣はこの雪洞が好きだった。
お雛様はどれも綺麗でかわいくて大好きだが、手に取って遊んだりはできない。だがこのピンクの花柄の雪洞だけは、結衣が毎年灯りをつけることができるのだ。
可愛らしい花の絵も、きれいなピンク色も何もかも、結衣は1番大好きだった。
夜中トイレに行った帰り、結衣はすぐに部屋には戻らずに、お雛様を飾ってある床の間へ向かった。
廊下はところどころ照明を落として電気がついている。
何も音のない廊下を、結衣はぬいぐるみのウサギのもこちゃんを抱きしめて歩いていった。
お雛様の雪洞は一晩中ついているので、少しだけのぞいてから眠ろうと思ったのだ。
結衣は廊下にもれる桃色のあかりを目にしてにっこりした。
あれは、結衣がつけたあかり。
少し早足になって部屋に着くと、お雛様たちが迎えてくれる。
部屋の中はなぜかうっすらと明るくて、お雛様たちの顔もはっきり見えた。
幼馴染のるんちゃんはむかし、お人形が怖いと言って泣いたけれど結衣はぜんぜん怖くない。
おばあちゃんが「お雛様は結衣を守ってくれるのよ」と教えてくれたからだ。
それにこんなにきれいなのに、と結衣はもこちゃんを抱きしめたまま、お雛様の前にぺたりと座りこんだ。
お雛様は、結衣にやさしく笑いかけてくれている気がする。
きれいなきれいな、お雛様。
そしてきれいでかわいい、結衣の雪洞。
桃色の柔らかいあかりを見つめていると、ふわりと花の香りを嗅いだ気がした。
飾ったばかりの桃の枝は、夕方にはまだつぼみだった。
つぼみだったはず、と目をやると、桃のつぼみが不思議な光をまとい、ゆっくりと開いていくところだった。
そしてそれにしたがい桃の香も強くなっていく。
静かに、静かに、けれど確実に花開いてゆく桃の花。
枝のつぼみが全て開き切ったそのとき、結衣の隣に誰かが座った。
誰だろうとそちらを見ると、知らないきれいな女の人が、お雛様の官女と同じ着物を着て微笑みながら結衣をのぞき込んでいた。
「こんにちは、結衣」
「こんにちは……?」
思わず挨拶を返して、結衣は変だな、と首をかしげる。
だって今は夜なのに。
「もうすぐ外でお祝いが始まるのよ」
「お祝い?」
女の人はとても優しそうな笑みを浮かべてうなずいた。
「お菓子や甘酒でお祝いするの。春のお祝い。結衣も来ない?」
「行ってもいいの?」
うん、と女の人はまたうなずいて結衣の手を取って立たせる。
でも、知らない人についていってはいけないのだ。
結衣は立ち上がってもこちゃんをぎゅっと片手で抱きしめた。
だけどこの人は、ずっと知っている誰かのような気がする。
結衣が迷っていると、雪洞の光が強くなったり弱くなったりして輝いた。
「いつもわたしに灯りをつけてくれて、ありがとう、結衣。お礼にわたし達のお祝いに招待したいの。一緒にいきましょう?」
「灯り? もしかしてあのピンクの雪洞?」
「そう、わたしは結衣のピンクの雪洞。よかったら結衣が名前をつけてくれる?」
結衣は嬉しくなって女の人の着物の袖をつかんでひっぱる。
「いいの!? じゃあね、じゃあ……」
うん、と女の人は嬉しそうに微笑んだ。
「じゃあ、ぼんぼり姫!」
「わたし姫なの?」
「ピンクはお姫様の色なの! だからぼんぼり姫!」
「ぼんぼり姫。わたしはぼんぼり姫」
歌うように言って、ぼんぼり姫は結衣をふわりと高く抱き上げた。
細い腕で高く持ち上げられて結衣は驚いた。
結衣のお母さんだって、最近ではもう結衣をこんなふうに抱き上げられたりはしない。
「ぼんぼり姫は力持ちなんだね」
「そうよ。わたし達は人ではないから。さあ、行きましょう、結衣。朝までには戻ってこないと」
そう言ってぼんぼり姫は結衣を抱きかかえて庭に出たが、そこはまるで昼間のように明るかった。
「もう朝なの?」
これではお祭りに行けない、としょんぼりした結衣に、ぼんぼり姫は笑って答える。
「いいえ。結衣の世界は夜だけど、わたし達の世界はまだ昼間なのよ」
そこは結衣の家の庭のはずなのに、結衣の家の庭よりもずっと広い場所だった。
そして聞こえる、大勢の人が楽しく話す声、笑い声、歌う声。
ぼんぼり
白酒
ひなあられ
茶道具出して
桜餅
飲んで祝えや
食べて祝え
禍こと祓って春祝え
広い庭は結衣の知っている庭とは違っていて、たくさんの桃の木に、桃の花が満開になって庭中にいい匂いをさせている。
「ここはどこ?」
「わたし達のおうちのお庭。さあ、結衣、みんなに紹介させてね」
明るい日が降り注ぐ庭には、緋色の毛氈が敷かれていて、お雛様たちと同じ衣装を着たたくさんの人が座っていた。そして毛氈の周りを、走り回っている小さなもの。
「犬筥!」
思わず結衣が声を上げると、ぼんぼり姫は結衣を地面に下ろした。
「宿直犬、とも言うのよ。結衣は赤ちゃんの頃よく熱を出したから、枕元にあの子達を置いてね、早く良くなってね、ってみんなでお祈りしていたの」
「そうなんだ……」
結衣の足元に駆け寄ってきてくるくる回る犬たちを、結衣はしゃがんで撫でてやる。
「こちらへおいで、結衣」
「ひなあられはどうだ?」
「桜餅もあるわよ」
次々声をかけられて、結衣はとまどった。みんな知らない人なのに、みんな結衣を知っている。
「まずは親王様のところへ行きましょう」
ぼんぼり姫に手を引かれて、結衣は毛氈の上にあがる。人の間を抜けて、特別に立派な衣装を着た2人の前に出た。
「失礼いたします、親王様。結衣を連れて参りました」
「うむ、ご苦労。こちらへおいで、結衣。我と姫の間にな。そなたは我ら夫婦の子も同然ゆえ」
「いらっしゃい、結衣。顔をよく見せて。ああ、本当におおきくなったわねえ」
2人に歓迎を受けて、結衣は真っ赤になった。
なんとなく、もじもじしてしまう。
お腹は空いていないか、喉は乾いていないかと、膝の上であやされながらあれこれと世話を焼かれて、もう赤ちゃんじゃないのに、と恥ずかしくなったり、くすぐったさに嬉しくなったり。
もらった甘酒をこくりこくりと口にしていると、お雛様の姫はぼんぼり姫にそういえば、と問いかけた。
「迎えに行った雪洞は名前をもらえたのかしら」
「はい、おかげさまで」
嬉しそうにぼんぼり姫がにっこりする。
「それで、なんというの?」
「はい。姫さまには申し訳ないのですが、『ぼんぼり姫』と名付けてもらいました」
「ぼんぼり姫」
「ぼんぼり姫ですって」
「まあ、かわいらしい」
「うらやましいわ、名前があるなんて」
「ああ、いい名だなあ」
周囲からざわざわと声が上がって、あちこちからため息がもれる。
「本当にうちの女の子たちはお姫様が好きなのねえ」
ふふふ、と扇で口元を隠してお雛様の姫さまが笑う。
「わたしはね、春姫というのよ。あなたのおばあさまのお母様がつけてくださったの」
「わたくしは顔が従姉の雪子ちゃんに似ているから、と雪姫。結衣のおばあさまがつけてくれました」
官女の1人が言えば、
「わたしは結衣のお母様が桜が好きだったので桜姫と」
と、桜色の着物を着た女の人が言う。
「彼女は左近の桜です。1人の女の子が1番気に入ったお人形やお道具に名前をつけるのですよ」
そう言ってぼんぼり姫はやさしく笑った。
それから結衣はお人形やお道具の1人1人に挨拶をして、一緒にお菓子を食べて、甘酒をもらって、そうしてついにうとうとし始めた。
ぼんぼり姫が結衣の背中をやさしく撫でる。
「結衣、大切な結衣。きっと明日の朝、目が覚めたらわたしたちのことはもう忘れてしまっているのでしょうね。ただの夢だと思って、もう思い出すことはないのでしょうね。でもわたしたちはいつもあなたのことを思っていますよ。いつも応援しているの。大好きよ。大切な、大切な結衣。いつかあなたが大きくなってお嫁に行くその日まで。また小さな女の子が生まれて、その子に引き継がれるその日まで、わたしたちはずっとあなたのもの。ずっとあなたを守るもの。あなたの幸せを守っているわ。あなたが幸せであり続けるよう、幸いを引き寄せていてあげる」
宿直犬の2匹が結衣の手をなめる。
雛人形や道具たちが1人1人、そっと結衣の頭を撫でていく。
「だけどどうか知っていて、結衣。わたしだけは、あなたが名付けたわたしだけは、ずっとあなたを守り続ける。あなたの行先を、あなたの足元を照らし続ける。わたしはぼんぼり姫。あなたが名付けてくれたぼんぼり姫。わたしはこの名前を、ずっとずっと忘れない……」
ゆらゆらと揺れるぬくもりは、春の陽差しのものか、雪洞の灯か。
誰かの歌を聞いているような気がしつつ、結衣はとろとろとまどろみ、やがてゆっくりと深い眠りに入っていった。
今日は1日晴れるから、午前中はお雛様の支度をしましょうね、とお母さんに言われて、あかりは朝から張り切っていた。
お雛様は床の間に飾るのよ。
晴れた日の午前中に東向きにね……。
お母さんが言うのをうんうんと聞きながら、あかりの意識はお道具が入った箱の中に向いている。
人形や道具の名前を1つ1つ言いながら、お母さんは取り出していく。
そして金色の屏風を取り出そうとしたとき、あかりは待ちきれずに手を伸ばして声をあげる。
「これ!」
お母さんは驚いたようにあかりを見た。
「あかり、これが1番大好き!」
「金屏風ね。お内裏様の後ろに飾るのよ」
「あかりが飾る!」
「そうなの? じゃあ、そっと。大切に持ってね」
「だいじょうぶ!」
そう言ってあかりは大事に、大事に金屏風を持って、1番上に1番最初に飾った。
息をつめて、そうっとそうっと。
そして手を離した後、大きく満足げに息をはきだした。
「ぷはあ〜〜〜っ!!」
「よくできました」
お母さんが笑う。あかりも笑ってお母さんを見上げた。
「あのね、あのね! 名前もあるの!」
「名前?」
うん、とあかりはうなずく。
「お日さまにあたってきらきらしてるから、お日さま姫!」
部屋の中にふわり、と花の香りのする風が吹き込み、小さくやわらかい、くすくす笑う声がした。
どこかから歌のようなものが聞こえる。
今日はお祭りの日なのだ。
飲んで祝えや
食べて祝え
禍こと祓って春祝え
縮緬
正絹
帯
髪飾り
被布も忘れず
かわいや女の子
飾って祝えや
纏って祝え
福を招いて春祝え……
お母さんはあかりの頭をやさしく撫でた。
「ひな祭りの日には、きれいなお着物を着ましょうね」
あかりは「うん!」と大きくうなずいた。
今日は雛祭りの支度の日。
あかりは雛祭りの歌をお母さんと一緒に歌いながら、人形と道具を飾っていった。