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早朝の職員室は混沌を極めた。
「ありがとう!ありがとう海野さん!」
何故か甲斐君の折衝に参加させられ、私は担任から理不尽に感謝される。
それもこれも、甲斐君が無いこと無いこと話して私を持ち上げたからだ。
「海野さんに叱咤激励され俺は目が覚めました」
叱咤も激励も覚えがないです。
「海野さんが涙ながらに『辞めないで』と言ったので高校しかないと決めました」
何処まで盛るんです甲斐君。
「海野さんが『あなたしかいない』と―――――」
『イイカゲンニシロ』
ノートに一言書きなぐる。
担任がウンウンと頷く。
「わかってるよ甲斐君!ちゃんと3年間海野さん付けてあげるからね!」
なに確約してるんだ!
担任は『海野さん3年間同じ組』とメモを甲斐君に渡す。
なんだろうこの人身売買された感。
泣いて喜ぶ担任を背に、釈然としないまま何故かご機嫌な甲斐君と職員室を出たのであった。
物凄く、物凄く二人に利用された感がしてならない。
私をダシに担任は甲斐君を懐柔し、私をダシに甲斐君は残留を担任に宣告する。
それって、私の気持ちガン無視過ぎないか?
「―――で、どんな夢を見たって?」
向かった教室は無人で、生徒が登校するにはまだ時間があった。
さっき書きかけたノートを見ながら向かいに腰掛けると、甲斐君は何事も無かったかのように尋ねる。
むくれる私を懐柔するつもりか、目の前には飴が1つ置いてある。
この流れで夢の話はしたくない。
いや、どんな流れでもあまり話したくない内容だけど。
そっぽを向き続ける私に、しばらくして机越しから声が掛かる。
「…ごめん」
思わず振り向き、予想外に近い甲斐君の顔にさらに驚く。
「色々…その…」
甲斐君が口ごもる。
黒目がちの瞳は伏せられ、睫毛の長さが憂いを帯びた顏に華を添える。
こんなに間近で見ても美しい人が、饒舌なのはインダスに限るのはギャップ萌え過ぎないだろうか。
『部活続けられて嬉しい』
遠回しに学校残留を祝福してみる。
甲斐君は一瞬固まって、それからゆっくり答えた。
「…そうだな」
?、何か含んでいる?
私の疑問をよそに甲斐君は続ける。
「それで、どんな夢を見て早朝登校したんだ?」
話を戻されてしまった。
私は抵抗するのを諦め、渋々ノートに夢の内容を書き出してみる。
『川の畔』
『周りが燃えている』
『何か恐ろしい事が起こっている』
『私も誰かに鋭い武器で―――』
――――――手が止まってしまった。
悲鳴の聞こえる気がする。
冷や汗が出る。気持ち悪い。
目を閉じるとまたあの光景が見えそうで、シャーペンを握ったまま震えだしてしまった。
そうだ飴。飴を舐めよう。
飴を掴み、小袋から出そうとする。
でも手が震えてうまくいかない。
焼けた肉の匂い。血の匂い。
飴を固く握り締めガタガタ震える。
鋭い武器は鈍く光って。
どうしてしまったんだ私。
私の頭に振り下ろされて。
怖い―――――
ふわりと手が温まる。
甲斐君が、私の手をやんわりと包んだ。
「大丈夫」
ゆっくりと、震える指を開かれる。甲斐君は私の掌から飴を取り出すと小袋を剥がし、指で摘まんで私の唇にそっと付ける。
「口、開けて」
なんとか口を動かすと、甲斐君は少し強めに飴を押し入れる。
甲斐君の指が唇に触れる。
甘酸っぱい味が心と口内に広がる。
その味わいと共に震えも収まっていった。
「…ありがとう」
やっと甲斐君に顔を向けられた。
甲斐君が軽く息を吐く。
そして片手で私の手を握ったまま、甲斐君は語り掛けた。
「最初に会った時から思ってたんだけど、海野さんは共感能力が凄いな」
…共感能力?何?
「巫女みたいなんだと思う。悪く言えば妄想力なんだろうけど、物事の事情を読み取ろうとする力が凄い。有り体に言えば想像力なのかな」
甲斐君の言わんとする事がわからない。
きっと今、私は困惑した顔をしているだろう。
甲斐君は続ける。
「今朝、君が見たのは、メルッハにアーリア人が侵入した情景な気がする」
アーリア人。いわゆる白人。インド―ヨーロッパ語族。仏様もアーリア人だけど、インダス文明の担い手は我々と同じ黄色人種ドラヴィダ人だと言われている。
アーリア人の侵入?
私は空いた右手でノートに急ぎ書き込む。
『メルッハ人はドラヴィダ人と言われているが、西方からインドにアーリア人が来た時、既にインダスは衰退していたと』
「そう。インダスの衰退は気候の変動による。アーリア人の『侵攻』でインダスが滅びた事は否定されている。でも」
でも?
私は身を乗り出す。
「ドラヴィダ人の地にアーリア人がやってきて平和な交流があったなら、今に至るカーストは生まれない。何かがあった結果、種姓で棲み分け始めたと考えた方が筋が通る」
カースト。
身分と出自を乱暴に一括りにしたポルトガル起源の言葉。
それはアーリア人の南下でインドに生まれたとされる制度だ。
属するものに生まれた者は、属する待遇を約束され、属する職業に尽き、属するものの内に婚姻し子孫を残し一生を終える。
現世での一生は固定されている。
見方によっては究極の安全な一生かもしれない。
古代から今に至る日本の一部でも、一族の職業世襲と固定があるのだから、それ自体は不思議ではないかもしれない。でも―――――
「何があったか正確にわかる日は来ないだろう。ただ力関係を見極める何かしらはあった。でなければ上下関係のある棲み分けは生まれない」
甲斐君が私を見据えた。
「君はインダスに入り込んで、無意識にその終焉のキナ臭さを感じ取った。結果、悪夢として情景を見てしまったんだと思う」