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夕暮れが教室を包む。

 甲斐(かい)君は机越しに私を見つめる。


「―――事故にあった」

 甲斐君は言葉を選ぶようにゆっくり話し始めた。

高校(ココ)の推薦を取ってすぐ、車に跳ねられた…らしい」

『らしい』

「俺の記憶では、下校時ひどく(まぶ)しい思いをしたら病院のベッドにいた、となる。覚えてないんだ」

 酷い事故だったんだろうか。

「びっくりするほど周りが静かだった。そのうち自分の声も聞こえない事に気付いて…」

 甲斐君の言葉が詰まる。

「…手話はキライだ」

 (いぶか)しむ私に苦しそうに続ける。

「聴覚が戻らないとわかると機械的に手話の本を渡された。聴覚障碍者(しょうがいしゃ)にも会わされた」

 甲斐君の眉間にシワが寄る。

「当たり前のように…耳が聞こえなくなったのが当たり前のようにどんどんと前へ進まされる…好きで…音が…消えた訳じゃない…のに…」

 甲斐君が(うつむ)く。

「…昨日一日登校してみたが、音のない世界で普通高校はやっぱり難しいと感じた…」

 甲斐君の声が掠れる。

 辛い様子の甲斐君に、文字の私は案外ズケズケものを聞く。

『辞めてどうするの?』

 

 甲斐君は答えない。

 また静寂が訪れる。


 私は考える。

 私はなんて答えればいい?

 甲斐君はどんな答えを待っている?

 辛かったね?

 将来を考えるならココで踏ん張らなきゃ?

 私はノートに視線を落とす。


『メルッハって―――メソポタミアの神話にも出て』


 書きかけの文が中途半端のままになってる。

 書き足さねば。

 さっきなんて書こうとした?

『くる』

 だっけ?

『メルッハって―――メソポタミアの神話にも出て―――くる』


 なんかあやふやだ。私の気持ちそのものだ。もう少しなんとかならないもんか。

 そうだ。

『インダス』

 私はさらに書き込む。

『インダス――文明は』

 昨日一晩調べた付け焼き刃の知識がどこまで活かせるか。

『インダス――文明は―――20世紀に入って見つかった比較的新しい文明』

『アフガニスタン・イラン・イラク・オマーン・バーレーン 西アジアルート、甲斐君の言う東アジアルート、検証されれば四代文明ネットワークが見えてくる』

『私はそれが見たい』

『甲斐君のお陰でインダスを知った』

『今まで気に留めてなかった』

『インダス→熱い風 遠雷 雨 イメージ、謎が解き明かされるのを待ってる』

『この学校→甲斐君』

『インダス→甲斐君→出会えて嬉しい』

『ここで会えない→さ――――


 気持ちが入りすぎて文にならない。

 ノートが書き殴った字で埋まり1ページに収まらなくなってからハッと気付く。

『さ――――』って何?!

 サミシイ?

 何を書いてるんだ私は!

 甲斐君は今、苦しい胸の内を吐露(とろ)してくれてる。

 その返答がこれか?

 バカか私は。

 違う!私はメルッハの事を書こうと。

 急いで今まで書いたものに勢い全て二重線を引く。

 そう、全てはなかった事に。

 残ったのは

『メルッハって』

 スタート地点に戻ってしまった。

 ノートに残されたスペースは少しだけ。

 私はもう一度考えた。


 メルッハ。

 当時のインダスを指す言葉。

 本当はインダス文明の担い手達が自分の事をなんと呼んでいたかわからない。だが少なくともメソポタミア人が呼んだそれは「インダス」よりはソレに近い。

 それに――――――――


『美しい名前』

 甲斐君が教えてくれた―――


 束の間熱い風に包まれる。

 雨の匂い、遠くの人影。

 その人は何故か悲しそうな瞳を―――

 ボンヤリ書き足した字を見ている内に現実に戻る。

 そして気付く。

 余計悪化してる。

 なんなんだ私。どこまでバカなんだ。

 忘れていた消ゴムの存在にやっと気付き、慌てて消そうと構える。

 その手を甲斐君が握って―――止めた。


「…美しいよな」


 甲斐君の声がくぐもる。

 私はハッとする。

 私を握る手から甲斐君の顔へ、そっと視線を移した。


 甲斐君は 静かに 泣いていた。


 握られた手をそのままに、私はぼんやり甲斐君を見つめる。

 黒目がちの(あで)やかな瞳から涙が溢れ落ちていく。

 長い睫毛が涙に濡れ黒く(つや)めく。

 とても哀れで―――――美しい。


 なんで泣いてるの?

 それはわからない。

 もしかしたら甲斐君もわからないかもしれない。

 だけど、きっと心が揺さぶられたんだ。

 今まで張りつめていたような甲斐君の雰囲気が溢れる涙と共に柔らかくなる。

 だから、なんだかいいことのような気がして。


 音のない世界はどんなだろう。

 それは当事者にならない限り絶対わからないのだろうけど。


 ソバニイルヨ


 落ち着くまで、甲斐君の泣き止むまで。

 私はそのままぼんやりと握られ続けていた。


***


 その晩、私は夢を見た。


 空に火の粉が舞い、人々の叫ぶ声がこだまする。

 渦巻く煙で周りが認識できない。息ができず、それでも無理に呼吸すると、ひりつく熱気の中に血と焦げた肉の匂いが混じる。

 痛む目を擦り足元を見ると転がる沢山の柔らかい何か。

 (うごめ)くもの。事切れたもの。

 あまりの恐怖に私は叫ぶ。

 何かを叫ぶ。

 それは自分の声なのに聞こえない。

 川へ逃げようと這いつくばる私の前に、見たこともない鋭い武器を持った異国の男が立ち塞がる。

 その武器は血に黒く汚れている。

 私は絶望する。

 男は腕を振り上げて―――――――――


 事切れた先で目が覚めた。

 

 全身汗まみれだった。

 怖かった。

 いまだ夢だと安心できず、布団の中でしばらく震えた。

 まだ夜明け前。

 でもこのまま眠って続きを見るのが怖い。

 シャワーを浴びて服を着替える。


 今は4時半。

 家の誰も起きてない。

 今から出て駅まで歩けば、学校へ着く頃には早朝練習用に校門開いてるかな。

 あまりに早くて家族を心配させないよう「登校する」とメモを居間に残して家を出る。

 そうして朝の涼やかな空気を胸いっぱいに吸い込む。

 ほんの少し浄化された気分になる。

「怖かった…」

 独りごちてみる。

 一種の追いかけられる夢だろうか。

 心の奥底に不安があると、それが悪夢となって追いかけてくるという。

「不安なんて…」

 沢山ありすぎて数えられない。

 レベルの違う学校に3年間通いきれるのか。

 もしドロップしたら?

 もし通いきれたとしてその後どうする?

 私は何がしたいんだっけ。


 最寄り駅を降りてぼんやり歩いていく。

 並木道を曲がると校門が見えてくる。

 見慣れた景色に一点、人影を認める。

「え…」


 そこに何故か甲斐君がいた。

 甲斐君が驚いた顔をする。

 恐らく私も驚いた顔をしているだろう。

 でもまずは挨拶だ。

(おはよう)

 

 聞こえない甲斐君とスムーズなコミュニケーションを取ろうと即席で覚えた手話。

(枕から顔を上げて、こんにちは)

 それが手話の

(おはよう)

 動作してから思い出す。

 そうだ甲斐君手話嫌いだった。

 どこまでバカなんだ私は。

 ガックリする私に甲斐君は、おずおずと、ぎこちなく。

 同じ動作をした。


(おはよう)


 目を見開く私に甲斐君は頬を赤くする。

「いや…ちょっと…やってみようかなと…」

 ぷいと顔を背けると、やけに乱暴に鞄を開け、いつものノートを私に渡す。

「…えらく早いんだな。君も担当教員の呼び出し?」

 甲斐君は呼び出されたんだ。

 きっと退学の手続きとかそういう―――

「海野さん」

 甲斐君に改まって呼ばれる。

 夢の事を書き出しかけた私の手が止まる。


「俺、高校(ここ)辞めない事にした」

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