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俺の最後の記憶。
眩しい――――――
それだけ。
目覚めたそこは病室だった。
俺の体は固定され、いくつもの管が繋がっていた。
状況がわからなかった。
あまりに周りが静かで、これが現実とはすぐにはわからなかった。
どこまでも不自然に音のない世界。
俺を跳ねたという男は、意識の戻った俺を前にして泣いていた。
夕暮れの坂道で車のブレーキが壊れたらしい。
嗚咽しているのだろう。
静寂の世界となって、初めて人の涙が匂う事を知った。
そんな世界、到底受け入れられるわけがなかった。
粉砕骨折しても今は治る。
鼓膜が破れたってもう一度張れる。
でも俺の音は戻らなかった。
早々に手話の本を渡された。
これからの生き方を押し付けられているようで反吐が出た。
俺はこれからどうなる。
俺の質問に相談員は答えた。
『聴覚障碍者のコミュニティを紹介します』
『勿論カウンセリングも。辛いのは貴方だけじゃない』
わかったような事を書き出す。
それらしい文字の羅列。
本当はなんにもわかってないくせに。
『推薦合格していて良かった』
親は慰めるつもりかそう書き込んだ。
『勿論フォローします』
学校側はそう書き込んだ。
タブレットでの授業メインなので案外音声は重要でない事。音楽の実技はどうにもならないが選択コースに入れば科目がなくなるから大学受験に障りがない事。
今は聴覚障害者もどんどん大学へ進学している。君なら大丈夫。
聞こえもしないのに耳障りの良い言葉がどんどん書き込まれていく。
腹が立った。
どうしようもなく腹が立った。
何故受け入れる前提で話が進む。
何故受け入れなくちゃいけない。
俺に音を返してくれ。
喧騒を、鳴き声を、雨の音、腹の虫、目覚ましのアラーム、俺の脳髄に響いていた俺自身の声。
全ての音を俺に返せ。
自分の嗚咽さえ聞こえない。
腹が立って腹が立って、俺が組み込まれるはずだった教室に殴り込みをかける。かけようとしたが、誰もいなかった。
ろくに消されていないまだらに白い黒板。
白い黒板て。黒板使ってるじゃないか。
何がタブレットさえあれば大丈夫だ。
予測がついただけにさらに腹が立って、ふとドーラヴィーラの看板に思い至る。
それは巨大なインダス文字の10の羅列。
そこにいるのにわからない。
皆が楽しそうに話しているのに一人だけ聞こえない。
何かを伝える為に誰かが書いた文字なのに、誰もわからない。
合わせ鏡のようだ。
思い知らせてやる。
それが思い知らせる行為でないとわかっているのに、手は止まらなかった。
わからないという事がどれだけ辛いか思い知らせてやる。
どーせ誰もわかるまい。
なんなら俺もわからない。
まるで無駄な行為。
黒板一杯に書き込んで振り返る。
その先に女がいた。
「え…」
女は俺でなく黒板を、文字を見ていた。
俺が振り返ったから驚いて俺に視線を向けたのだ。
文字を見ていた?わかるのか?
わかるわけないだろう。世界の誰も解き明かしてないのだから。
わかるわけが。
女が俺を見つめる。
俺も女を見つめる。
どうしたらいいのかわからない。
こんなに女子を見続けた事がない。
驚きに見開かれた彼女の瞳は穏やかな焦げ茶色、まるで黒檀のよう。
美しい光彩の奥の奥に吸い込まれていくような錯覚に何故か目が離せない。
「………」
彼女の唇が動いている?
ナニカヲハナシテイル?
それはどこか懐かしい――――
急に女の視線が揺らぐ。
と、同時に肩に触れられた感覚がくる。
振り向くと担当教員がいた。
担当教員は、彼女などいないかのように俺に対峙する。
『親から連絡あり。職員室へ』
メモを渡され教室から出ることを促される。
ふと彼女が幻でないか振り返る。
彼女は困惑顔のまま俺を見送る。
その瞳はやっぱり黒檀――――
幻じゃないんだ。
よかった。
―――――良かった?何が?
自分のの気持ちがわからないまま、わかったような叱咤激励を書き連ねる教員に聞く。
「さっきのは誰ですか?」
教員は鳩が豆鉄砲を食らったかのような顔をした。