白と黒の恋愛談話
それは、月明かりがきれいな、ある夏の晩のことでした。
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「それで、あなたにとって恋とはなんですか?」
チェスの駒を動かしながら、私は彼に問うてみた。
「恋かあ……。そうだねえ、僕にとって恋とは、異性を求める強い欲望……かなあ」
彼は、深い黒色の瞳を細めながら、気の抜けた調子で答えを発する。
「ふうん、そうですか…………。……ずいぶんとまあ、夢のない考え方をするんですね」
駒を動かし、今度は「チェック」と言う。
「あはは、そんなことはないよ! 欲望こそが人間の真髄! その欲望を強大にしてくれる恋は、なかなかにすばらしいものだと、僕は思っているよ!」
今度はその唇に無邪気な笑みを浮かべ、愉快そうに彼は答えた。
「……相変わらず、歪んだ考え方をしているのですね……。いい加減、その心根を正してやるべきでしょうか…………」
何も考えずに駒を動かす彼をにらみながら、私はそう喝を入れてみた。
「あはは、それは困るなあ………。女王様の気を逸らすために、新しい話題に移りたいと思うんだけど、どうだろうか?」
彼はまた大げさに感情を表現し、私に訊ねる。
「それはよい提案ですね。十秒以内に、私を満足させられる話題を提案してみてください。さあ、じゅー、きゅー、はち、ななー」
「あーわかったわかった! 話題思い付いたから! ……そうだね、うーん、『愛とは何か』、なんていうのはどうだろう?」
「『愛とは何か』、についてですか…………。うん、悪くはないテーマだと思います。及第点といったところですかね」
「だろだろ?」
「図に乗らないでください。…………チェック」
彼の陣営はもう崩壊寸前だが、まあそれも当然だろう。話すことにかまけて、頭をろくに働かせていないのだから。
「愛とは何か………………。愛とは、人と人とが支え合い、お互いを守り合ってゆこうとする、そんな心構えのことを言うのではないかと思います」
私は心の奥底に恥ずかしさを隠しながら、凛とした様子で言葉を貫いてみせた。
「おててとおてて、二つ合わせてこれが愛ってことかな? いや~さすが! 麗しき女王様は言うことが違うね! 人民の鏡! 正義の大原則! あとはー」
「そのようなくだらない挑発をするぐらいなら、あなたも自分の考えを話してみてはどうですか? …………チェックメイト」
チェスにおいて、最強のクイーンが彼のキングを押し倒した。
「うわー負けたー。もう一回やる?」
「やりません。はぐらかさないでください」
キングを押し倒したまま、私は彼をにらみつけてみる。
「はいはい、わかってますよー。……えーと、愛とは何か…………。そうだね……愛とは、相手の指も骨も、肉も肌も、瞳も内臓も、…………果てにはその魂まで……。相手のすべてを貪りたいという、この上ない究極の欲望……と言えるかな~?」
彼はふざけたように歪んだ笑みを浮かべた。
「はあ、また欲望ですか……。ずいぶんと、その単語を気に入っているようですが……それは、愛と恋を混同してしまっているのでは?」
「ん? なんで?」
彼は、目を丸くして私に問う。
「……先ほど、『恋とは、異性を求める強い欲望』、と、あなたは言いました。もしそうだとしたなら、恋にも愛にも、大した違いはない、と言えるのではないでしょうか?」
クイーンをキングから取り離して、私は彼に答えてみた。
「ほうほう、それはなかなかに鋭いしてきだねえ……。その通り! 愛とは、恋の延長線上にあるものなのだよ!」
彼は興奮した様子で立ち上がって答える。
「では、違いはなんですか?」
「それはもちろん! 欲望の強さ、質の度合いだよ! ……恋の時点では、相手に対する欲望は、控えめで、まだかわいいものだ! ……しかし! 愛は恐ろしいほどに相手を強く求める! …………それこそ、狂気と違わないのではないか、と思えてしまうほどにねえ…………」
「狂気……ですか……」
「そう! 狂気! 愛ゆえに、人は狂った行いをしてしまうものなのさ! ……愛ゆえに、人は、愛する相手を犯したり、監禁したり、殺したりする! それらの罪業は、相手を愛する思いの強さゆえに、行われてしまうものなのさ!」
「それは違います」
一切のためらいを見せずに、私はそう答えてみせた。
「む? どういうことだい?」
彼は冷静っぽい様子に戻り、椅子に座り直して聞いてきた。
「……確かに、そう言った罪を犯してしまった人々の心の中には、相手を愛する気持ちもあったのかもしれません。……ですが、その大切な愛情は、嫉妬や欲望によって、歪んだ形に変えられてしまった……。その結果、そのような悲しい結末に至ってしまったのではないかと、私は考えています」
私は、力強く、真っ直ぐに彼を見つめ、答えた。
「ん? 愛は欲望だよ? 欲望を否定するのかい?」
「愛は欲望ではありません。愛は、人と人の思いやり、調和です」
彼の眼差しと私の眼差しとの間に、何か火花のようなものが散った……気がする。
「ふーん。……まあ、いい子ちゃんぶるのは君の勝手だと思うよ。でもさあ、今のこの世界の現状を見て、君はそれをどう説明するつもり? ……この世界は、いつだって争いが絶えない。そのせいで、多くの命が奪われ、人々は傷つき苦しんでいる。そして、その争いで権力を得た者たちが、富を自分だけのものにしようとするから、民は飢えに苦しんでいるんだ…………。僕も君も、民から奪った食物と、民から奪った資源を、さも自分のものであるかのように使い、のうのうと生き延びている。……自らの欲望のために、他者の命を奪い取る、それが人間の……いや、生物という存在の本質なんだよ、アレクサン」
彼は、少し視線を落とし、心苦しそうに顔をしかめた後、顔を上げ、おちゃらけたような笑顔で言った。
「ま、この話をするのはもうやめにしよう。せっかくの君との時間が、台無しになっちゃったらやだからね」
「…………確かに私たちは、多くの人の命を奪って、今この場に存在しているのかもしれません」
「えー、ちょっと君、人の話聞いてましたー?」
「いいから聞きなさい。……ですが、その奪ってきた命のためにも、私たちには、なさねばならないことがある。きっと、私たちはそのために生まれて来たのです」
「…………そのなさねばならないことって言うのは、いったい何?」
彼は珍しく、私に真剣な表情をみせた。
「あなたもわかっているでしょう、ダミアン。私たちのなすべきこととは、まさしく、
人類の理想を成就することです。人と人が支え合い、互いを思い合えるような世界を作ること……それが、私たちに与えられた天命なのです。……だから、私たちは、その理想を成就するために、できる限りのことをすべてやらねばなりません。文字通り、この命を懸けてでも…………」
天井を見上げ、遥か遠く……あの空で輝く星たちに届くように、瞳に決意の力を込める。
そうだ……私はなんとしても、この思いを遂げなければならないのだ……。今まで、どれだけの悲しみが、どれだけの苦しみが、この世界で繰り返されてきただろうか……。きっとそれは、私の想像など及びもしないほどに、苛烈を極めたものであったに違いない。だからこそ、私のこの命を燃やして、人々のために戦わなければならない。私たちの力で、少しでも多くの人々を助けなければ…………。
私の話を聞き終えると、彼は、悲しそうにその深黒の瞳を細め、優しい声で私に語りかけてきた。
「君の言いたいこと……僕にはわかるよ。でも、でもね……人間が人間である限り、人間が生物である限り……そんな世界を築くことなんて、絶対にできないんだよ…………。知ってるかい? この世界の生物には、『弱肉強食』、という、絶対なる法則が存在しているんだ…………。だから、あまねく全ての生物は、己の生存のため、己の利益のために、他者を踏みにじる……。それは、異なる生物の間だけでなく、同種の生物の間でも、当然存在してしまっているんだ。僕たち人間もまた、この弱肉強食の法則の中で、苦しみながら生きていくしかないんだよ…………」
彼は目をつむり、苦しそうに顔を歪めた後、今度は悲しそうに笑った。
「だからさ、もうそんなことを考えるのはやめて、二人で一緒に楽になろう? 欲望に素直になれば、どんな悩みも抱える必要はなくなるんだ。さあ、こちらへおいで…………。僕が君に、この世で最高の快楽を教えてあげよう…………」
彼はゆっくりと腕を左右に広げ、誘うように妖艶な笑みを浮かべたが。
「いえ結構です」
「…………冷たいですな~」
彼は真顔になって、そうつぶやいた。
「あなたがなにを言おうとも、私の意志は決して変わりません。だから、あなたもあきらめて、これまで通り私の言うことに従いなさい」
彼はテーブルの上にある、コップに入ったワインを二、三口飲んだ。
「…………ふう。……自分は人の言うことを聞かないのに、他人には何でも言うことを聞いてもらいたいだなんて、わがままだね~。……でもいいよ、これまで通り、君の言うことは何でも聞いてあげる。なんてったって、僕は君のことを、心の底から“愛”しているからね」
「やめてください。あなたの愛は虫ずが走ります。……先ほどの話を聞いた後だと、なおさらに…………」
「え、ひどい」
彼の顔は凍ったようになってしまった。
「……………………」
自分でも、今のは言い過ぎだったと思っているが、虚栄心のため、なかなかそれを言い出すことができない。
…………ごめんなさい。
結局、心の中で謝罪の言葉をつぶやくことしかできなかった。
「…………まあいいや。愛ってゆう言い方が嫌なら、欲望にしよう。……はい! ぼくは、ぼくのよくぼうにしたがって、あなたのめいれいになんでもしたがいます! これでどうでしょーか!!」
彼は大げさに右手を振り上げ、子供みたいな声でそう宣誓した。
「……………あなたらしくて、いいんじゃないでしょうか」
「いいんだ!?」
よくない……のだが、彼にひどい言葉を投げつけてしまった手前、偉そうなことを言うわけにもいかなかった。
「あ! もう外が明るくなってきちゃってる! 早く帰って寝なきゃ!」
窓の方を見てみると、確かに、少しだけ陽の光が出てきているような気がする。
「そういえば、あなたって日が出ている間は起きてこないそうですね」
彼の召使いから聞いた話である。
「うん。なんでかわからないけど、おひさまが出ている間は、あんまり力が出ないんだよね~。ほんと不思議な話だよ~」
彼は立ち上がり、身支度をしながら言う。
「それにしても僕たち、気づいたら徹夜で遊んじゃってたんだね~」
「そうですね。あなたと話していると、うっかり時を忘れてしまいます」
私も立ち上がり、部屋の出入口へと向かう彼を見送る。
「それじゃまたね!」
「はい、ぜひまた」
扉を開き、彼は帰って行った。
「…………寂しいな」
元いた席に座り直し、チェス盤のコマを無造作に並べながら、考えてみる。
私は気づいていた。彼の考え方と私の考え方は、表と裏のように重なり合うものだということに。
自らの欲望のままに生きた結果、彼は私と共に戦う道を選んだ。私に気に入られるためにやっているだけだと彼は言うが、それは違う。彼の心が求めているものは、私が目指している理想郷と、きっと同じものなのだと思う。
闇を突き詰めた彼と、どこまでも光を追い求めた私。この二人が、共に手を取り合うことができるのならば、きっと、すべての人々が心の底で求めているような、そんな理想の風景へと、この世界を動かしてゆくことができるだろう。
この世界の運命に苦しむ、すべての人たちに伝えたい。私たちがみな手を取り合い、互いに愛情を持って接することができれば、この世界の形を変え、優しい風と温かい緑の大地のように、美しい調和の世界にたどり着くことができるのだと。
愚かなことかもしれませんが、私はそう信じています。
盤上には、先頭に立って前へ進もうとする二つの駒と、それに追従し、色の違いを超えて共に戦おうとする、白と黒の混合軍が並べ立てられていた。