第三話 魔導士(ソーサラー)の襲来
派手男と別れたケイトは、そのまま自身の船室に戻って一度小学生の頃からつけている日記を書くと、メモ帳と鉛筆を手にして船内を当てども無く歩き回りながら、目につく人々にインタビューをしたり、船内の様子を事細かにメモに書き込んでいく。
目的地が見え始めた船内では、昨日までのどこか間延びした生活感とは打って変わってあわただしく動き始めており、或いは新天地への夢と希望に満ち溢れた表情を、或いは故郷への帰省に心配とも喜びともつかぬ表情を、或いは自分の様に望まぬ渡航に不安に満ち満ちた表情をと、百人が百通りの感情を持ってロンディオンへの到着を待っていた。
ケイトは、乗員や乗客のそんな様子をつぶさに観察しながらメモ帳にそれらの情報を書き込んでいくと、ややあってメモ帳を閉じ、溜息をついた。
別にこれが何かしらの役に立つとは思わないが、それでも世にも珍しい女性の海外赴任なのだから、この際、自分が知り得るあらゆる情報を記録しておけば、それで何かしらの記事を書くことはできる筈だ。
少なくとも、ただ船の中にいてぼんやりと海の中を眺めるよりも、ずっとずっと意味はある。
そう自分に言い聞かせてはいても、それでも余りに芽の出ない努力を繰り返していると、自分のやっていることに虚しさが募って、段々と自分自身に自信が無くなっていく。
やっぱり、あの時に会社を辞めた方が楽だったかな……。
そんな弱い声が胸の内から湧き上がり、そんな思いがそのまま口から零れ落ちてしまう。
「本当に、これからどうしようかな……」
思わずそう小さく呟きながらも、その足はいつの間にか条件反射の様にこの船の操舵室へと向かっていた。
操舵室に行ったところで、中に入れる訳ではないのだが、此処に張り込んでいると偶にちょっとした噂話から、貴重な情報を手に入れることができる。
例えば、この船には古代遺跡の貴重な美術品が積まれているらしいとか、それを取引する政財界の大物がこの船に乗っているらしいとか、時には港での補給と同時に、国際情報についてのあれこれを新聞よりも早く手に入れたこともあった。
そう言った噂話を手に入れる為に船員に詳しく話を聞いて行ったのだが、その都度にやたらと口説いて来たり、酒の席に半ば無理矢理つき合わされたり、女だからとバカにするような言葉を投げかけられたりと、まともなインタビューや取材は出来なかったが、それでも、其れ等の情報を逐一記録し続けた甲斐もあり、持って来たノートやメモ帳はその殆どがこの航海で仕入れた情報で埋まってしまっている。
そうしているうちに、何となく操舵室への探訪がこの船で過ごす際の日課になってしまい、ケイトはそのことに気付いて苦笑すると、最後の張り込みに歩み出した。
後から思えば、この瞬間がケイトの、キャサリン・グレイスの運命の分かれ道だったのだろう。
☆★☆★☆★☆★
操舵室の近くに訪れたケイトは、そこで出会い頭に珍しい人物に遭遇した。
「あれ?どうしました、チャールズさん?確か、今日は船の操縦は担当では無くて、上流階級の皆様への案内だとお伺いしましたが?」
「……あ、ああケイトさん。相変わらず耳の早い様で。そろそろ目的地に到着すると思いますが、荷造りなどは大丈夫でしょうか?」
ケイトと顔を突き合わせたのは、この船の副船長であるチャールズ・ハドソン・スミス。
平均より背の高い、茶髪が特徴的な優男で、その整った顔立ちと物腰の穏やかな態度から乗員乗客共々から人気を集めるこの船のアイドルである。
そんなチャールズは、今日はどことなく青い顔をして一人の男を背後に連れており、その挙動もどこか怪しげで、いかにも何かを隠している様である。
そんなチャールズの様子に、ケイトは怪訝に首を傾げながらもチャールズからの質問に軽く首肯した。
「ええ……。お蔭さまで。それよりも、チャールズさんの方こそ今日の仕事を放りだして大丈夫なんですか?確か、今回のクルーズに乗り合わせた一等客室の方々は、この船のオーナーにとって重要人物ばかりだったとお聞きしておりますが?」
「あ……。ああ……いえ、何、こちらのボルドー伯爵が、どうしても下船前にこの船の操舵室の様子を知りたいとおっしゃられまして。何度断っても頼むものだから、根負けしてしまったんです」
どことなくチャールズが紹介したのは、成程、身なりだけはその紹介の通りに立派な男だった。
恐らくはどこかの貴族なのだろう。仕立てのいい白いインバネスコートの下にはライトグレーのベストを着込み、スラックスもベストに合わせたように白でまとめており、革靴は磨き抜かれたブラウンをしている。
しかし、その恰好に合わせたように見るからに紳士然として笑顔を浮かべてこそいるが、実際にはその笑顔はどこか見下すような嘲りの感情が浮かんでおり、無遠慮にケイトを上から下まで眺めては、舌なめずりを隠す様に右手を口元に当ている。その眼に浮かんでいるのは欲望とも怒りともつかない負の感情であり、その笑顔はどことなく下品な感覚がして、ケイトの背筋に一瞬おぞけが走った。
(……なんだろう。言葉にしにくいけど、何だか、………………下品な感じがする)
何というか、下卑ている。とでも言うのか、どちらも品の無い事には変わりないのだが、同じ下品でも、船乗り達の荒っぽくて遠慮の無い明け透けな品の無さとは違い、この男は、何処か陰湿で粘り吐くような意地の汚い品の無さを感じさせている。
この男に比べれば、多少女好きであっても先ほど甲板で出会った派手男の方が、まだ人間的にも男性的にも好感が持てるというものだ。
「…………えっと、分りました。副長。ですが、操舵室は余人立ち入り禁止では?上級船員以外の立ち入りは何人であっても禁ずると。確か、そう言われている筈では?」
「ええ、そうなんですが……。此方のボルドー伯爵様はこの船のオーナーと懇意にされている間柄でして、オーナーに訴え出ても操舵室の中を拝見したい。と、そうおっしゃられまして……。それで、仕方なく」
そんなチャールズの反論に、ケイトは強い違和感を感じた。
「……成程。では最後に聞きたいのですが、ボルドー伯爵とは何者ですか?私の知る限り、およそこの船のオーナー関係者に、そんな名前の人がいるというのは聞いたことが無いのですが?少なくとも、この船に居る間中に、そんな名前の人がいると言うのは初耳なんですが?」
「……それ、は、……その、ですね」
何処か詰問するような口調になってしまったケイトの言葉に、チャールズは冷や汗を流しながら黙り込み、何を見ているのか視線を右往左往させて、見るからに焦り出していた。
すると、
「何だ。あっさり見破られやがって、役に立たないじゃねえか。クズ野郎」
チャールズにボルドー伯爵と言われた男は、何処からともなく取り出した短杖を持って軽く振るい、チャールズの背中に何かしらの呪文による光線を浴びせかけてその身体を爆裂させた。
「はあーあ。せっかく、人質まで取って脅したっつーのに、こんなところで正体ばれやがって、全く使えねえなあ。まあ、こいつの女なんざ、とうの昔に強姦して、凌辱して、ヤリまくった後に殺してるっつーのによおおお!!!ハハハハハ」
下劣で下卑た低俗な本性を露わにした言葉を口にしながら、手にした短杖を振り回して高笑いを上げるボルドー伯爵、いや、そう名乗っていた謎の男の凶行に、ケイトは腰が抜けて床にへたり込んでしまうと、唐突に起こった状況を理解しようと頭が回転して、勝手に一つの単語が零れ出る。
「魔、魔術士……!」
それも、ただの魔術師ではなく、紛れもなく魔術によるテロリズムを生業としている、『闇の魔法使い』である。
だが、そんなケイトの言葉を聞いたボルドーは、喉の奥を鳴らすようにくつくつと笑い声をあげると、見せびらかすようにケイトの目の前で杖を振りながら、へたり込むケイトの胸を揉みしだいて厭らし気に笑みを深めて見せた。
「魔術士おおお?それは少し違うなあああ?お嬢さん?」
ケイトは羞恥と苦痛に喘ぐと、ボルドーの浮かべた下劣な表情に耐えられずに思わず目を背けるが、そんなケイトを見ながらボルドーはますます興奮した様に下卑た笑みを深めて、ケイトの喉首を掴み、そのままケイトの身体を持ち上げる。
「俺たちは、あの方に認められ、闇の力を与えられた魔術士の中の魔術士。魔導士だああああああ!」
そう言って狂ったように高笑いを浮かべる男の手の中で、ケイトは男の左手が喉首に深く食い込むの感じながら、同時に、迫りくる死の恐怖に目尻に涙を浮かべてしまう。
(ダメだ……。死ぬ……。)
脳裏に思い浮かぶのは自分の夢や、今まで世話になった人や愛する家族の事ではなく、昨日食べられなかったレモンのマフィンだったことには、我ながら情けないなと思うが、目の前の男はそんなこと等知った事かとばかりに、右手に握った杖を振り上げた。
ああ、これが死の瞬間なのか。と思わず目をつぶった。その時だった。
「余り、そう言う口説き方は好きじゃないなあ」