9話
気分は悪いしお腹はすくしで、精神状態は最悪。
狭苦しい空間で、あたしは前足の上に頭を乗せてぐったりと寝転がっていた。
冷静になって考えていると、分かったことが一つだけある。
あたしが昼夜に関係なく猫になったり人間になったりしてしまうのは、秋山が関係してるんじゃないかってこと。
だってそうとしか思えない。最初に人間に戻れなくなったのは秋山んち。猫から人間に急に戻っちゃったはマンションの前でばったり会った時で、その逆はさっき公園のとこであいつに会った時だもん。
だけど、どうして?
……もしかして、どうやらあたしはあいつが、好……いや、き、気になってるらしいから?
とっさに思いっきりこっぱずかしい台詞が頭の中に浮かんで、あたしは思わず周りをきょろきょろ見回してしまった。頭の中で考えてるだけだから、誰も聞いてる人なんかいないのに。
でもさ、いくらあたしが、その……でもね……。
あたしは溜息をつく。
さっき見た秋山は、ほんの何日か前まで全然知らなかった──てかあたしが気付いてなかっただけなのかも──ような笑顔であの女の子と仲良さそうに話してた。あの子、美香ほどじゃないにしろ、あたしとは較べものにならないくらい可愛かったしな……。
自覚した瞬間に失恋確定ってことか。
せっかく真剣に考えをまとめようとしてるのに、またどんよりブルーな気分になってくる。
ああもう、こんなんじゃダメダメだ。
とりあえず、今あたしが考えなくちゃいけないのはどうしたら元に戻れるかってこと。余計なこととは言えないけど、他のことで落ち込んでる暇なんてない。
あたしは頭をぶんぶんと振った。
手掛かりは多分、あたしとあいつの関係。となると、現状であたしに出来ることといったら、と考えてあたしは思いっきり顔をしかめた。思いついた考え──もう一度だけ秋山の所に行って確かめてみようということ──は、あんまり歓迎できる種類のものじゃなかったからだ。
だってよ、またあの子と鉢合わせするかもしれないし。いくらあたしの神経がかなり太いと言っても、マゾでもなんでも無いわけだから自分で自分の傷口に塩を擦り込むような真似をしなくってもって思っちゃう。おまけに、自分じゃドアベルを鳴らすことも出来ないしさ。
とはいえ、それ以上いいアイデアも浮かばなかった。
仕方ない。腹をくくるしかないか。
あたしはいやいやながらも疲れ切った身体にむち打って重い腰を上げる。隙間から這い出て見えた夜空はどんよりと曇っていて、自分の精神状態をそのまま表してるみたいだった。
どうなるか分かんないけど取りあえず行ってみよう。明日の朝まで気付いて貰えなかったとしても、どっちみち他に行くあてもない。
うまく秋山に会えたとして、また人間に戻れそうだったらさっきとおんなじように逃げだしたらいい。
それほど遠くまで行ってなかったおかげで、あたしはじきに目指すマンションの前に辿り着いた。
そこまでは良かったんだけど、さっそく一番会いたくなかった人に会ってしまった。さっきあいつといっしょにいた例の女の子だ。
また会うってことは今まであいつと一緒にいたんだと、心のどこかがちくりとする。
「あ」
その子もすぐにあたしに気が付いた。目を丸くしながら、スマホをバッグから取りだす。
「もしもし。……あのね、さっきの猫がここに居るよ。うん……うん、分かった。かずくんが降りてくるまでここで見てるから」
ぴっと電話を切り、彼女はにっこりとこっちに笑いかけた。猫のあたしを驚かさないようにか、そっとしゃがみこんでまた指先を伸ばしてくる。
「ここまで迎えに来てくれるって。良かったね」
人の良さそうな笑顔を向けられると、なんだかすんごい複雑な気分。あたしはその場に立ち止まったまま、どう反応すべきかと迷ってしまった。
そんな思いが通じたのか、彼女はそれ以上あたしに触れようとせずに手を引っ込める。
「もしかして私、嫌われちゃったのかなあ」
うう、ごめんなさい。
親切にして貰ったくせに生意気な猫で。
嫌いとかじゃなくて、ただ単に、その……さ、なんていうか一応あたしもやっぱり女の子だからさ、いろいろと気になる訳じゃない。それにしても、あいつ何ぐずぐずしてんのよ、気まずいから早く来いってんの!
胸の中でごにょごにょと言い訳をしているうちに、秋山がようやくやって来た。
「連絡、ありがとな」
「うん、良かったね無事に見つかって。じゃあ私は帰るね。猫ちゃんもじゃあねー」
「ああ、じゃあな」
その子はびっくりするくらいあっさりと、手を振って帰ってしまった。目の前で仲のいいとこ見せられるのも困るけど、拍子抜けしたような、ちょっとホッとしたような、微妙な感じだ。
「ほら、お前も行くぞ」
そっと手のひらに掬い上げられるようにして――最初の頃の、首根っこを掴まれるような持ち方じゃなくなったのはありがたい――家まで連れて行ってくれたあいつは、玄関先にどっかり座り込んであたしを目線の高さまで持ち上げた。
いっちょまえに軽く溜息なんかついている。
「こら、なんで逃げ出したりするんだよ。ったく、お前といいあいつといい……。そんなとこまでそっくりだよな」
え? あいつって?
言葉の通じないあたしの疑問に答えてくれるはずもなく、あいつはぶつぶつと小言を続けている。
そういえば今はあの変な感覚はしないってことは、あたしまだ人間に戻れないのかなぁ。秋山に会ったら何か分かるはずと思ったんだけど……読みが外れたのかな。これじゃもしかして、また振り出しに戻ったってこと?
あたしはお小言を聞き流しながらぼんやりとそんな事を考えていた。
「ったく、人の気も知らずに、あのバカ成瀬のやつ」
そこでどうしてあたしの名前が?
つうか少なくとも成績じゃ万年超低空飛行のあんたに負けたことないし、あんたにバカって言われる筋合いない!
「大丈夫ったって、あんな真っ青な顔してさ。走ったら余計に具合悪くなるだろ……」
こつん、と軽くおでこを突かれる。秋山の声のトーンが少しだけ低くなった。
「お前もだ。車にでも轢かれたらどーすんだ。俺は止まれたけど、車は止まれねーからな? こら、間抜けな顔しやがって分かってんのか」
間抜け顔ってのは断固抗議したいけど、もしかして、秋山があたしを心配……してる? 猫の時のあたしだけじゃなくって?
うひゃー。
嬉しいけど恥ずかしい。なんだか、身体中がくすぐったい。くらくらしそう。
いや、しそうじゃなくって本当にくらくらしてる!!
やばい!
そう思った時は、もう遅かった。
またあの眩暈。
身体の中からちくちくする感じ。
今度のは完全に油断していたせいか、逃げ出す暇もなかった。
「…………」
「…………」
数瞬後、人間の姿に戻ったあたしと秋山は、呆然と顔を突き合わせて座っていた。それも、秋山はしっかりあたしを抱き締めたまんまの体勢で。
「ちょっ……離してよっ!」
秋山だって不可避だったってことは十分に分かってはいるのだけど、ついついそんな台詞が口から飛び出す。腕を慌てて振りほどいて、あたしは飛び退くように離れた。
あいつは身動きもしないで、ぽかんとしたまま。
いつもはきつい目つきなのに、可愛らしく見えて少しおかしい。
「……もしもーし。起きてますかー?」
手を目の前でひらひらさせたら、ようやく反応があった。
「成瀬……?」
今さら言い訳なんて出来ない。こうなりゃ、開き直るほかない。
あたしは、わざとらしく笑って見せる。
「……お前があの猫で、あの猫がお前?」
「ぴんぽーん。大正解!」
「……じゃ、何? 今までうちにいた猫って……」
秋山はまた黙ってあたしの顔を凝視していた。
そりゃあ、どう考えても変。人が猫になるなんてさ。お伽話じゃあるまいし、あたしだって自分の身に起こるまではそんなの考えたこともなかった。
……気持ち悪いとか言われたらどうしよう。いくらあたしでも、それはやっぱりダメージ大きい。
少しばかり長すぎる沈黙に、流石のあたしも心配になってきた頃。
「あはははははっ」
突然あいつは笑い出した。それも、おかしくてたまらないって感じの大爆笑で涙まで浮かべてるし。
あたしはホッとしたけど、あんたそれ笑いすぎ。
「道理で似てると思ってたんだよなー、あの猫とお前」
はい?
もしかして、あの時の『あたしを見てたら思い出す奴がいる』って台詞はあたしのことですか?
「つーと、何? 人間のあたしは猫と同じくぶっさいくってこと?」
「あの猫が不細工だって自覚はあるんだ」
腹いてー、とあいつはお腹を押さえながら笑っている。
「不細工で悪かったね!」
「ごめんごめん。外見はともかくとして性格がさ、似てるなって思ってたんだよ」
ともかくとしてって、それ否定じゃないし! ほんっとにいちいち引っかかるもの言いをする男。
「なぁ、一つ聞いてもいいか」
「……何よ」
「また突然に猫になったりするわけ?」
あたしはその問いにしばらく考えて、きっぱりと首を振った。
「ううん。多分……もうあんな風に猫になることはないんじゃないかな」
「へぇ、なんで?」
「何となく、ね」
「そんなもんか?」
「まあね」
「そっか」
こんな曖昧な答えで納得できるはずがない、ていうかそもそも訳が分からないと言われてもおかしくないけど、秋山はそれ以上は聞いてこなかった。
何となく、と答えたけれど、本当はあたしには理由が分かった気がしていた。親父が言ってた『見つけなくちゃいけないモノ』ってのも、この理由と同じものなんだと思う。
それは───人間でいたいっていうあたし自身の思い。
猫も捨てたもんじゃないと最初に思った次の日に人間に戻れなくなって、それからはどうやらその時々の感情に応じて猫になったり人間になったりを繰り返してたんじゃないかな。だから、さっきは秋山に会ったすぐは何にも変わらなくて、人間の姿の方を意識した途端に戻っちゃった。
それを自覚したあたしは、きっともう制御できない形では猫の姿にはならないんじゃないかな。
確信はないけどそんな気がした。
確かに猫の姿でも悪いことばかりじゃなかった。だってさ、今までと違った目でいろんなモノを見ることができたしね……あ、別に秋山のことだけを言ってるんじゃないよ。
片思いの失恋決定?とか何だかんだ言っても、やっぱりあたしは人間のがいい。
思いっきり言葉も喋りたいし、美香たちとも遊びたい。普段はちっとも頼りにならないあの親父だって、親は親だし悲しませるのも……ね。
「そういや、あの時は悪かった。お前が身長とか目の色のこととかを言われるの嫌いだって知らなかったんだよ」
「え?」
あたしは考え事に気を取られていたせいで、その言葉をしばらく理解できなかった。
やけに真剣な表情で秋山が言葉を続ける。
「ほら、あの時。新学期の日にさ、俺が言ったろ?」
「ああ……あれね」
昨日の言葉通り本当に謝ってくれたんだと思うと、今までそんなことでわだかまりを持っていたあたしが却って申し訳なくなる。
「うん、それまで喋ったこともなかったし、そんなこと知るわけないもんね。だからもうそれはいいよ」
秋山はほっとしたようにいつもの笑顔を取り戻した。
「それにしても、お前ってばけっこうめちゃくちゃだよな。学食でさ、ふつう、女があんな顔するかよ」
「う……」
それを言われると、あたしとしては非常に分が悪い。女っぽくないのは昔っからだ、性格なんだからどうしようもない。
「あの後、カレーの匂いが取れなくて大変だったんだけどな、俺」
「あんたがあそこに居るから悪いんでしょ!」
「それだけならまだしも、呆れるほど大食いだし、気は強いし無鉄砲だし」
むか。次から次へと、よくもまぁそんなことが言えたわね!
「それを言うならあんただって似たようなもんじゃない! 剣道だけは得意なのかもしれないけど、それ以外はいっつも赤点すれすれだし、授業中はしょっちゅう居眠りしてるし口は悪いし!」
あたしは秋山に指先を突きつけ――ようとしたのだけれど。
「……え?」
伸ばした手首をがっちり掴まれたうえに、そのまま、引っ張られた。
すぐ間近で、いつもは凶悪に目つきの悪いあいつの目が、それは可笑しそうに笑っている。とたんにうるさいくらいに心臓がとくとく鳴り始める。
うわ、こんなのちょっと反則。
「もう一つ言うことがあるんだけど。俺、おまえの髪の色も目の色も、嫌いじゃないよ。……むしろ好きなんだけど」
おまえ自身もね、とあっさり付け加えられた言葉に、ぼぼん、と音がしそうなくらいに顔が熱くなった。
「なっ、ななななに言ってんのよ! あんたにはあんなに可愛い彼女がいるでしょうが!」
「彼女?」
「しらばっくれないでよね! さっきいっしょに居た女の子! 性格の良さそうな可愛い子ちゃん!」
「ああ、あいつね」
秋山はようやく分かったという感じで頷いている。
「近くに住んでる従姉妹だよ。俺がうちに一人で残ってるから、心配してるうちの親にせがまれてたまに様子見に来てくれてるだけ。いつもは叔母さんが来るんだけど今日は用事があって来れないから代わりにってさ。わかった?」
あいつは堪えきれないように、くすくすと笑う。
分かった、分かりましたから、この手を放してください。さもないと、あたしの心臓が保ちません。
「なあ……それってさ、焼き餅やいてくれたってこと?」
「ちっ、違う! 絶対違う!」
「ふーん。じゃ、猫のときにあそこから逃げ出したのは何で?」
「う……」
言い訳に詰まったあたしの唇に、掠めるように柔らかいものがふれた。あたしは至近距離で、あいつの意外と長い睫毛をしっかりばっちり見てしまったのだった。
あたしは今度こそ秋山の手を振りほどいて、自分の唇を押さえた。
おっ女の子のファーストキスを許可なく奪うとは!!
「絶対に許さんっ! そこに居直れ、秋山一志! 成敗してくれるっ」
「せっかく両思いって分かったのに?」
あいつは締まりのない笑顔でうそぶいた。
「うるさいうるさいっ。にやにやするなあっ!」
「それは無理」
「ムードもへったくれもないなんてやだ! あたしのファーストキス返せ!」
「……じゃ、もう一回最初からする?」
それはそれは嬉しそうな笑顔を見せられると、どう反応すればいいのか。
あたしはもしかして、さらに大きな問題を抱えてしまったのかも。それが嫌なのかと言われると、それは……そのう……困っちゃうんだけど。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!
また次の作品でもお目にかかれることを願って……