8話
意気揚々と学校を後にしたまでは良かったのだけど、あたしは途中で泣きたくなってしまった。
だってさ、いつもは自転車で通えるくらいの近い距離と思ってたんだけど、これがまたやけに遠く感じる……。歩いても歩いても、ちっとも進まない。おまけにせっかく飲ませてもらった牛乳を吐き出しちゃってたもんだから、お腹はぺこぺこ。
おばあちゃんが歩くみたいに少し歩いては休み、を繰り返してようやく家の門扉が見えてきた時には、もう太陽もかなり高くなってしまっていた。
やっと着いた!!と喜んだのも束の間。
もう身体中から力が抜けてしまって、あたしは玄関の前にへたりこむ。
そう、そこには最大の難関があったことをすっかり忘れていたのだった。
猫の姿のあたしに、どうやってドアを開けろって言うのよ。
ドアベルだって鳴らせない。
八つ当たりだって分かっちゃいるけど、こんな時にちっとも役に立たないんだから、親父ったら!
それにしても、本当にどうしよう……。
「あら?」
甲高い声とともにひょっこりと道路の方から覗き込んだ顔を見て、あたしはますますげんなりした。
近所のおばちゃんの一人だ。
どういうつもりかは知りたくもないけど、ことあるごとに親父に近づこうとしているのが見え見えで、娘のあたしとしては出来るなら敬遠したい人。
「成瀬さん、いつの間に猫なんか飼ったのかしらねえ。それとも……捨て猫?」
おばちゃんはちっちっと舌を鳴らして、あたしの気を引こうとしている。
誰があんたなんかに!とそっぽを向こうかと思ったんけど……。くう、今日だけはおばちゃんの誘いに乗ってやるか。
なんとかしてこの人に親父を呼んでもらおう。
あたしはしぶしぶながらもおばちゃんの方へ行って愛想をふってみた。
「あら。見かけは良くないけど……案外可愛いところもあるのね」
って、あんたにゃ言われたくない!
こっちに伸ばしてくるころころと丸い指に思いっきり噛みつきたい気分をぐっと堪えて、あたしは精一杯可愛らしく鳴いてみせた。
背に腹は変えられないとはいえ、あたし、なんだか今すごく大事なモノをなくしたような気がする……。
おばちゃんもチャンスと思ったのか、インターホンのボタンを押す。
『……はい』
「あ、成瀬さん? はす向かいの佐藤です」
おばちゃんったら、ころっと声の調子が変わってんの。これがホントの猫なで声ってやつだ。
「お宅の猫ですか? 玄関の前にいるの」
『えっ、猫?』
とたんにインターホンの向こうでガタッと大きな音がした。
『ちょっと待ってくださいね!』
おばちゃんは嬉しそうに笑ってあたしを見下ろす。
「良かったわねー、家に入れて」
そりゃ良かったけどさ、おばちゃんのおかげだけどさ。あたしがどうこうってよりも自分が親父と喋れるってことが嬉しいんじゃないの?
「こんにちはー」
髪を手櫛でかきあげながら出てきた親父は、ちょっぴり乱れているとはいえやっぱりいつものナルシスト親父だった。きっと大慌てでその辺りの洋服に着替えたんだろうけど……ここまでして良い顔していたい気持ちって分かんないや。
しばらくおばちゃんのお喋りに付き合わされた後にようやく解放された親父は、あたしを抱きあげて玄関のドアを閉めた。
「志穂ちゃん……僕、今朝からずっと心配してたんだからね! もしかして、昨日の夜からずっとこのまんま?」
ちょっぴり赤い目をして恨めしそうな表情の親父に、あたしは頷くしかなかった。
「そっか……」
上がりがまちに腰をおろして、親父は大きな溜息をつく。
「猫でも人間でも、志穂ちゃんは僕の大事な娘だし、志穂ちゃんのこと大好きだけど……忘れないでね、志穂ちゃんは人間の姿も持ってるって」
ぐりぐりと荒っぽく頬ずりすると、また、ぽい、とあたしを玄関から放り出した。
うそ……またこのままあたしを問答無用でつまみ出すつもり? せめてなんか食べ物でもちょうだいよ!
思わず哀れっぽい鳴き方で訴えるあたしを見下ろして、親父はちょっとだけドアを閉じる手を止めた。
「僕だって好きでやってる訳じゃないんだよ……本当なら別にこのままでも構わないくらい。でもさ、やっぱり志穂ちゃんには人間の姿に戻る方法を見つけて欲しいし、それが出来ると思ってるから」
その言葉が胸に突き刺さった。
……しょうがないじゃん。あたしの意志じゃどうにもなんないんだから。
親父のバカ。鬼悪魔。
佐藤のおばちゃんにはいい顔しといて、あたしにはそれ!? ふん。いつかストーキングでもされて困ればいい!
腹立ち半分拗ね半分で、あたしは苛々しながら街をひたすらうろついていた。
やみくもに歩き回って、ただでさえ残り少なくなっていた体力を殆ど使い果たしてしまった頃に、ようやく気分も収まってくる。ていうか怒るエネルギーも無くなっただけなんだけどね。
いい加減にこの事態をなんとかしなきゃ。
溜息をついて見上げた空は、そろそろ青みが強くなってきていた。
なんで今朝だけ、あたしは猫のままだったんだろ。それさえ分かったら、きっと例の見つけなきゃいけない『何か』とやらのヒントも分かると思うんだけど……。
あたしは昨日の行動をゆっくりと反芻してみる。
夕方に猫になっちゃった後は、ここ数日と同じようにあいつの家に行って。お腹は空いてなかったけど牛乳貰って。んでそのまま気持ちよく寝ちゃって。気が付いたらとっくに朝だった。
って、あたしってば考えれば考えるほど、本能の赴くままに行動してるって感じだよね……。
自分の怠けぶりとか、現実逃避ぶりが情けなくなる。それでも、どんなに頭を捻って思い出そうとしても、別に昨日だけ何か特別なことがあったわけじゃない。
他に何か見落としてることはないかな……。絶対に何かあるはずだよね。じゃないと、戻れなくなるわけないし。
人間の頃より格段に小さくなってる筈の脳みそでつらつら考えながら歩いているうちに、いつの間にかあたしはそこにいた。
そこ――猫のあたしを受け入れてくれる、たった一つの場所に。
でも、人に頼ってばかりじゃきっと何にも進展がない。あたしはそう思い直して秋山のマンションの前でくるりと回れ右をした。
……あ。
あたしは踏み出した足を宙に持ち上げたまま、思わず固まってしまう。石化した身体の中で、心臓だけがばくばくと無秩序に波打つのが分かる。
間が悪いというか何というか。
振り返った先にはよく見知った人影があったのだ。そして、その横にあいつよりもかなり小柄な人影がもう一つ。
秋山は近くの女子校の制服を着た、あたしの知らない綺麗な女の子と一緒にいた。
しかも、屈託のない笑顔を浮かべて。
「あれ……」
あいつもすぐにあたしに気付いたようだった。
「お前、どこ行ってたんだよ」
「え、かずくんあのネコ知ってるの?」
「んー、最近うちに来るネコでさ」
「へえ」
その子は、しゃがんであたしの方に手を伸ばした。
「おいで」
綺麗に手入れした薄桃色の爪が見える。さっきの佐藤さんちのおばちゃんとは違う、白くて細い手だ。
それを見た瞬間に、思考停止していたあたしの時間が、唐突にまた流れ出す。
気が付いたら、あたしは差し伸べられた手を無視して来た道を走って戻っていた。
……かずくんだってさ。
あいつには勿体ないくらい可愛い子だったじゃない。これは誰がどう見たってアレでしょ。お付き合いしてるってやつ? あいつも随分と締まりのない顔しちゃってさ。
心臓がきりきりと痛かった。
痛いのは単に走ったから?
それとも……。
疲れ切っていた筈なのに、あたしはただ走り続けた。走っているとこれ以上余計なことを考えずにいられそうだったし、少しでも早くあの場所から遠くに逃げ出したかったから。
でも、どんなに走っても、結局は自分からは逃げることは出来なかった。
訳が分からないなんてのは嘘。
あんまり認めたくはないけど……あたしはあいつの横に女の子がいたのが、すごくショックだったんだ。誰がどう見ても、ただの友達とか知り合いとかいう表現以上に親しげだったし。
あたしは自分の居場所を失くしてしまったような気分だった。
ばっかみたいだよね、あたし。猫の姿の時にちょっとよくしてもらえたからってさ。なんか勘違いしてたんじゃないの?
頭の中でいろんな思考の切れっ端がぐるぐるして、なんとなく気分が悪い。身体の内側からちくちくするような、視界が定まらないような、そんな変な感じ。
あたしはハッとする。
この感覚には覚えがありすぎる。もしかして───そう、姿が変わっちゃう時の感覚と同じ!?
やばい。
うだうだ悩んでる場合じゃない。ここでそんな事になったら、やばいどころの話じゃない。
あたしは走りながら、焦って周囲を見回した。
近くの小さな公園の木立の影が目に留まる。あそこなら周りから見えない。
その間にも、だんだん身体に力が入らなくなるし、気分は悪いし。
もうだめだと思ったとき、ようやくあたしはそこに辿り着いた。よろめきながら茂みの奥に頭から突っ込む。
途端に、視界がぐにゃりと曲がった。
「……はー、なんとかぎりぎりセーフ……かな?」
あたしはしばらく隠れたままで周りをきょろきょろ見回した。
「ほんっとに洋服着たまんまとか便利で助かる……」
ゆっくり身体を伸ばして立ち上がると、足元がふらつく。
今までとは違ってなんだか身体が怠い。
とりあえず人間に戻れたことだし、家まで帰って少し休もう。親父も今だったら入れてくれる。
あたしは重い心を抱えてのろのろと歩き出した。
「成瀬?」
ぎょっとした。
秋山が驚いたような顔で目の前に突っ立っていたのだ。バカみたいに口をぽかんと開けてこっちを見てる。
なんでここに? もしかして猫の方のあたしを心配して追いかけてきた?
まさか……まさか、猫から戻るところを見られちゃったとか?
緊張で身体がすうっと冷たくなる。
「お前……風邪か何かじゃなかったのか?」
「…………え? あ、うん」
ああ、そっか。あたし学校休んでたことになってるしね。
ホッとしたのと気分悪いのとで、あたしはそのまま秋山の横を通り抜けようとした。
「大丈夫……だけど、帰るよ」
とたんに身体がぐらつく。
「ちょっ……ふらふらしてんじゃねえかよ。すっげぇ顔色悪いし。だいたい、病人なら病人らしく大人しく寝てろよ、ったく」
なんだか急に腹が立ってきて、手を貸そうとしてくれたらしいその手をあたしは思いっきり振り払ってしまった。
「あたしは大丈夫だったら! あんたこそ、さっさと家に帰ったらどうよ。待たせてる人がいるんでしょ」
「へ?」
しまった。
あたしってば何言ってるんだろ。これじゃまるで……。
ここには居たくない。
そう思った瞬間、またあの眩暈が猛烈に襲ってきた。
うそ、また? なんでよ……。
どうしよう。こいつにこんな所を見られるのだけは、絶対にヤだ。
あたしはまたも、力を振り絞って走り出した。なんであたしが逃げなきゃなんないのよと思ったりもしたけど、この際そんなことは言ってられない。
「あ、ちょっとお前、待てよ! だから走るなって!」
あいつの声が追いかけてくる。でも、足の速さなら負けない自信はあるもんね。
あたしは猛ダッシュで幾つか角を曲がって、狭い建物の隙間に走り込む。
そこでまた不細工な猫の姿に逆戻りしてしまったあたしは、疲れきってその場にへたりこんだ。絶対に見つからないよう、小さな隙間になんとか身体をねじこむ。ぜえぜえ息を吐きながら耳をすませても、追っかけてくる気配も足音もない。
……こんな所で何やってるんだろ。
なんだかとっても惨めだった。