7話
翌朝。
目覚めてあたしはぎょっとした。
……嘘……外がもう明るい!
寝過ごしちゃった!?
「朝っぱらから、にゃあにゃあと賑やかなやつだな」
秋山がもぞもぞと寝返りをうって、寝ぼけ眼でこっちを見ていた。
ぎゃー! 見られた! ばれた!
……って、え?
にゃあにゃあ?
あたしは自分の身体を見下ろした。
あれ……まだ猫のまんま?
夜明けと同時に人間に戻るハズが、あたしは不細工な子猫の姿のままだったのだ。
「珍しいな、お前が朝ここにいるって」
「にゃ」
うるさい。
今考え中なんだから、ちょっと静かにしてよ。
何かを見つけないとだんだん猫の姿から戻れなくなるらしい、って親父が言ってたこと思い出した。んで今のあたしはまだ何にも見つけられてない。
てことはよ、もしかしなくてもこれって人間に戻れなくなる第一歩ってやつ?
ちょっと待ってよー。それってば冗談きついって。
そりゃ確かに、昨日の夜は猫も悪くないってちょっぴり思ってたとしても、それとこれとは話が違う!
「ここに居るんだったら、まだ早いからもうちょっと寝てろよ」
布団の中から腕が伸びてきて、あたしは布団の中に引っ張り込まれた。
ちょっと待って、いっしょの布団とかいくらなんでもやばいから! あんたは猫としか思ってないんだろうけどそれ違うから!!
焦りまくってなんとか布団から抜け出そうとするけれど、無理だった。
秋山はあたしをしっかり手で押さえたまま、またすぐに寝こけてしまったのだ。苦しくはないんだけど、いくらもがいても動けない。
しばらく無駄に足掻いてはみたものの、ついに諦めざるを得なくてあたしはぐったりと布団の中に抱きこまれたまま脱力してしまった。
なんなのこの状態。
気まずいし恥ずかしいし落ち着かないことこの上ない!
すうすうと気持ちよさそうに寝ているあいつの顔を横目でちらりと窺う。
間抜けな顔して寝ちゃってさ。
平和な人は羨ましいよ、ほんと……。
こうしてじっとしていると、布団の暖かさがじんわりとしみ込んでくる。それだけじゃなくって、目の前の寝顔を眺めていると焦りまくっていた心までほんわり温かくなってくる。
……ぬくぬくで気持ちいい。
自然と欠伸が出てしまった。
結果。
誘惑に引きずられて、また一眠りしてしまったのだった。
あたし、もしかしたらもう半分くらい猫になってしまってるのかも……。
その日、あたしは家に帰らずにそのまま秋山といっしょに学校に行った。
もちろん猫の姿のまんま。ただじっと考えていたって何も分からないなら、何かしている方がいいって思ったから。
あたしがズボンの裾に必死でしがみついて連れて行けと主張したら、どうやらとりあえず意志は通じたみたい。仕方ないとため息をつきながら、いつものようにポケットに放り込まれる。
その手つきが今までよりもちょっとだけ――ほんのちょっとだけ丁寧で優しく感じられたのは気のせいなのかな。
朝練があるからって剣道場に連れてかれ、隅っこの小さな段ボール箱に入れられてしまった。他にすることもなくて、あたしは身体をいっぱいいっぱい伸ばして、箱から頭を出す。
そういえば、剣道場に来るのは初めてかもしんない。
うちの学校の武道場は二階建てになっていて、一階の柔道場には学年集会とかでたまに来る。でも、二階の剣道場って、それこそ剣道部とか男子の選択体育とかでしか使ってないんだ。
ぴかぴかに磨かれた板張りの床は、この季節はとっても冷たそう。なのに、剣道部員の人たちは当たり前だけど裸足。
……見てるだけで寒くなっちゃう。あたしは冷え性だから絶対だめ。
それしても、剣道てなんかいいよね。
部員の人たちが竹刀を打ち込む度に、藍色の道着の裾がひらひらと翻る。それを眺めながらあたしはぼんやりと考えていた。
サッカーとかもいいけど、武道って普通のスポーツとはちょっと違う感じがしない? なんていうのかな、凛としてぴしっと背筋に線が一本通ってるって感じ。正座してる時の姿勢の良さって言ったらすごいよね。
あたしなんか猫背だって言われるし、ほんの5分正座しただけで足がへにゃへにゃになって立てなくなるってのにさ。
なんだか道着姿の男の人って二割り増し、いや五割り増しくらいで格好良く見えるような気がする。やっぱ日本人には和装が似合うのかもね。
と、ひときわ身長の高い道着姿の男子が目に留まった。秋山だ。
面って言うのかな、頭にかぶるアレ、を外したあいつの顔は、見たこともないほど真剣な表情だった。確かに、いつもはただの目つきが悪い目が、やけに引き締まって涼やかに見えたりする。
う、あんまり認めたかないけど、女子が騒ぐのもちょっぴりだけ分かる気が……する。
あたしはもっとよく見ようと身体を前に乗り出した。
その瞬間。
あれ? なんか景色が動いてる……。
やばっ、動いてるのはあたし!?
気付いたと同時に、ばったーんと派手な音をたてて箱がひっくり返った。
「みゃあああっ」
いったーい。
あたしは鼻先を思いっきり床にぶつけてしまったのだった。
「ネコのくせにトロいよなぁ、お前。普通、受け身くらいするんじゃねえの?」
様子を見に来てくれたらしい秋山の声が、頭上から降ってくる。あたしは顔をあげるどころじゃなくて、前足で鼻を押さえていた。
痛いやら情けないやら。
運動神経くらいしか取り柄のないあたしなのにさ。
「大丈夫か? 怪我とかしてねぇか」
ひょいと身体を抱き上げられて、あいつはあたしの顔を覗き込んだ。その目が心配そうで、とても優しくて。
なんだか、胸に何かがぐっと込み上げてくる。
そんなに近くで見つめられたら、あたし……。
どうしよう。もうダメ。
……おえ。
「ああっ、てめっ!?」
あまりの防具の臭さに、あたしは秋山の掌の上で、うう、今朝飲ませてもらった牛乳を吐いてしまったのだった。
ホントごめん。別にわざとじゃないって。
剣道の防具が臭いらしいってのは友達から聞いて知ってたけど、こんなに強烈だって思わなかったんだって。猫の敏感な臭覚にはクリティカルヒットだわよ。
「ったく、いちいち世話が焼ける奴だな」
ぶつぶつ文句を言われながら、冷たーい水で否応なく身体をざぶざぶと洗われた。ええ、この時ばかりは、あたしも大人しくしてましたとも。
「これじゃ、お前をここに置いとく訳にもいかねぇな。いつどうなってるか、こっちが気になってしょうがねぇ。静かにしてろよ、センセにばれたら面倒だ」
秋山は何だかんだと言いながらも、ずぶ濡れで寒さに震えるあたしをタオルでくるんで教室に連れて行ってくれた。
見慣れた教室。
見慣れたクラスメート。
なのに、あたしを見たときのみんなの反応が全然違うのが不思議。当たり前なんだけどね。
「あれ、秋山、そのネコなに」
「んー、ちょっとな」
「なんつーか、微妙に残念なネコだねー」
「まあな」
否定はできないとよーく分かっちゃいるけどさ……あんたたちにはデリカシーってもんが無いの!?
「でも、それなりに可愛いところもあるしな」
さっすが秋山、分かってるじゃん!
「……そ、そうなんだ」
そこのあんた、あたしが人間に戻ったときは覚えてなさいよ、あたしを馬鹿にしたこと!
「センセにばれたらどうすんの」
「俺の席一番後ろだし、いざとなったらポケットにでも突っ込んどきゃ大丈夫だろ」
そんな会話をあちこちで繰り返しながら秋山が席に着くと、そこには美香がいて顔を輝かせてあたしを見ていた。
そういえば、美香って秋山の席のすぐ近くだったっけ。
「秋山くん、その猫に触ってもいい?」
「ん? 別にいいけど、引っ掻かれないようにな」
「もしかして、手を引っ掻かれた猫って、この猫?」
「そう。こいつ。しかも今日は朝っぱらから俺の手に吐きやがった」
「大変だったねえ」
美香がくすくす笑いながらあたしのかぎ尻尾を引っ張る。
だから、尻尾を触るのは止めろっちゅうに! あんたも秋山とおそろいでその可愛い顔を引っ掻いてやろうか!?
ぎろっと睨んでやると、美香があたしの目を逆に覗き込んだ。
「あれ……この猫、変わった目の色だね」
「そうか?」
「うん……なんだかどっかでよく見てるような色だけど……どこだったかなあ」
……もしかして、目の色は猫の時も人間の時も変わってなかったりする?
あたしはその場を猛ダッシュで逃げ出したくなった。
美香をこっそり見上げると、可愛らしい額に薄い皺まで寄せて考え込んでいる。
皺がくせになるから、そんなに必死で思い出さない方がいいって! ていうか、なんでどうでもいい事にそんなに勘が鋭いの?
あたしはさりげなく視線を逸らしてみた。それなのに、美香はあたしの首根っこを掴んで無理矢理自分の方へ顔を向けさせようとする。
いくらなんでも猫があたしなんてバレるわけないとは思うけど……うう……居心地が悪すぎる……。
蛇に睨まれた蛙のようにあたしが固まっていると、ようやくホームルームのチャイムが鳴って先生がやって来た。この時ばかりは、ちょっとお腹の出た冴えないおっさん先生でも光り輝く天使のように見えたりするから、猫の、もとい人間の視覚なんて不思議なもんだよね。
美香が残念そうに席に戻っていく。
「思い出せそうで思い出せないなあ。こういうのってすごく気になるよね……」
お願いだから、気にすんな。
なのに、ちらりと振り返ってあたしを見るあたり、どうやら全然諦めてないらしい。怖いよ、美香……。
「えー、今日は成瀬が休み、か」
先生がぐるりと教室を見回してそう言った。
そっか。あたし、休んでることになってるんだ。
秋山の席からはあたしの空いた机が見える。改めて、猫の姿から戻れずにいることを実感してしまう。
親父が学校に連絡してくれたのかな。今朝は家に帰ってないから、あんなアホな親父でも心配してるだろうな、きっと。
男のくせに涙もろいしさ……。大丈夫かな。
なんだかちょっぴり感傷的な気分になってしまう。
「……あいつが休みなんて珍しいよな」
え? それって、あたしのこと?
吃驚して見上げるあたしをどう思ったか、指の腹で頭を撫でながらあいつはくすりと笑ってこっそり囁いた。
「あいつ、すっげぇ気が強いんだよなぁ。初対面の時の冷たい視線といったらもう……」
そりゃ、あんたが失礼なこと言うからでしょ。
てか、あんた独り言が多すぎ。……もしかして、さみしい人?
「あれはどうも俺が悪かったみたいだけどな」
そうそう。あんたが悪い。知ってたんなら、一言くらい謝れ!
あたしはあいつの指先に、かぷりと噛みついてやった。
「……お前なぁ」
秋山は呆れたように溜息をつく。
あわわ……確かにそうだった。
秋山は猫のあたしには何にもしてない。してないというか、ホントはお礼を言わなくちゃいけないくらいいろいろして貰ってるんだった。
ごめんと言えないかわりに、あたしはまた仕方なくちょっとだけあいつの指を舐めた。とたんに、にっこりとあいつは笑う。
……どうやらあたしは、頭のねじが少し弛んでしまったのかもしれない。今まではニヤニヤ笑いにしか見えなかった顔まで、やけに眩しい笑顔に見えたりするんだから。
「俺も、お前みたいにちゃんと謝んなくちゃな」
喉を鳴らすように小さい声で笑って、乱雑に頭を撫でられた。
それって、あたしが人間の姿に戻ったらちゃんと話せるってこと?
あたしはちょっと考えてから、タオルの間から抜け出す。
もうしばらくこのままでもいいや、なんて思ってたけど、やっぱりこのままじゃマズいよね。
親父のこともちょっぴり気になるし……それに、休み時間の美香の攻撃を考えると、ここにいるのも出来れば遠慮しときたいしさ。
一度、うちに帰ってみよう。
あたしは秋山の机から飛び降りてドアの隙間を目指した。
「おいっ」
ちょっと慌てたような押し殺した声が聞こえたけど、気にしない気にしない。