6話
抜けるような青空が目に染みる。
お天気は上々。
なのに、なんとなく気分が乗らない。
それもこれも、きっとあの男のせいだと半ば八つ当たり気味に心の中で文句を垂れながら、あたしは学校の下駄箱で靴を履き替えていた。
「おはよ!」
背後から無駄に元気な声が聞こえてきた。とさっと抱きついてくる。
「重い。あんたはおんぶお化けか」
「ひどーい! 私、重くなんかないよ!? ……それにしても、志穂ちゃんったら古臭い言葉知ってるのねぇ」
美香は朝っぱらから、鼻歌でも歌いだしそうなくらいに上機嫌だった。
昨日の今日だし気持ちは分からないでもないけど、こっちのもやもやした気分を是非ともお裾分けしてやりたい。
「昨日は誘ってくれてありがとう」
いや、美香があたしを引きずって行ったんでしょ、と突っ込もうとした時。
「あ、おはよう一志くん。朝練、毎日大変ね」
「まぁな」
聞き覚えのある声の会話が耳に飛び込んできた。思わず、あたしの注意はそっちに逸れてしまう。
「あれ、その手の怪我、どうしたの?」
あたしはぎくりとした。振り返らなくたって、それが昨日あたしがやっちゃったものだって分かる。
「え? あぁ、猫に引っ掻かれた」
女の子がくすくす笑う。
「やだぁ。猫だって。女の子から引っ掻かれたんじゃないの?」
「そんなんだったらいいけどさ。マジで猫。しかも、すっげえ痩せっぽっちな猫でさ」
むか。
悪かったね、貧相で!
「え、一志くんて猫飼ってたんだ。見えなーい」
甘ったるい声出しちゃって、なあにが一志くんだっつうの、こんな男はアホで十分。
その子には悪いけど、訳もなくつっこみを入れたくなってしまう。
「飼ってるっつうか、拾ったっつうか。遊んでやってたらつい、ね」
むかむか。
なによ、我慢して遊ばれてやったのはこっちの方なのに!
「……穂ちゃん? 志穂ちゃんってば!」
「え? あ、あぁ、ごめん。ちょっとぼんやりしてた」
美香の声ではっと我に返る。
「またぼんやり? のわりには、やけに拳に力が入ってたみたいだけど?」
……さすが美香だ、細かいところまでしっかり観察されてる。危ない危ない。
「うん、ちょっとね」
「変なの、志穂ちゃんたら」
あたしは美香と肩を並べて歩き出した。女の子と話してる秋山とすれ違う。
ちらりとあいつと視線があったけど、あたしはあたしで美香と話してたからそのまま素通り。むこうも特に反応なし。
それがちょっとだけ気になった。
でも、仕方ないよね。昨日のあの全開に笑った顔は、猫のあたしに向けられたんであって、人間のあたしにじゃない。
第一、普段のあたしとあいつは喧嘩ばっかりの間柄なんだし。それを望む方が……て……、あたしってば何を考えてる?
べ、別にその表情を向けて欲しいってわけじゃないのよ!
ただね、あれこれ言われてるのがむかついただけなんだから! 絶対にそれだけなんだから!
……何やってんだろ、あたし。
自分にむかって一生懸命言い訳していることに気が付いて、さらに情けなくなってしまう。
そのもやもやは一日中続いた。
おかげで、体育の授業中にはすっ転ぶし、数学の問題を解くように指名されても解けなかったし。まあ、数学が壊滅的に苦手なのはいつものことだと言われたら、言い返す余地なんてないんだけど。
食欲もあんまりなかったその日の昼休み、あたしの前にはパンが二つとカフェオーレ。
え? 二つも食べれば上等だって?
いいの、あたしはいつも三つは食べてるだから。
「志穂ちゃんがそれだけしか食べないって珍しいねぇ」
美香は掌に隠れそうなちっちゃなお弁当箱を広げて言う。今日のあたしでも、それだけじゃ絶対に足りないってくらい可愛らしい量だ。
背がちっちゃいのが嫌だって言うんなら、もっと食べればいいのに。あたしみたいにさ!
「ねぇ、志穂ちゃん」
「ん? 何?」
美香が黒い目でじっとあたしの顔を覗き込む。これぞまさしく、正統派美少女の天然攻撃ってやつだ。
「もしかして、恋煩い?」
「はいいっ!?」
思わず周囲に響き渡る大声を出してしまったあたしは、慌てて声のボリュームを落とした。
「ちょっと待った、なんでそうなるの!?」
「だってね、食欲はないしぼんやりしてるしって、恋煩いの病状そのものでしょ!」
びしっと天に向けてひとさし指をたてて、美香はにっこり可愛く笑う。
「で、相手はだぁれ?」
周囲にいた他の友達も、いっせいに聞き耳を立ててる。
「誰にも言わないから、ね」
あんたたちに言った日にゃ、間違いなく放課後までには行き着くとこまで噂が広がってるし! ていうか、問題はそこじゃない。
あたしは思わず椅子を蹴って立ち上がった。カフェオーレのパックを握りしめて。
「違ーうっ、断じて、あたしは恋煩いなんかじゃないっ!」
最悪のタイミングで、ちょっと静かだった教室中にあたしの声が響き渡る。興味津々といった視線がどっと集まった。その中にはもやもやの原因の秋山もいる。
全部あんたのせいよっ!と首を絞めて奥歯をガタガタいわせてやりたかったけど、それをやったら、ますます美香を喜ばせるだけだって分かってる。
……うう、最低。
あたしはがっくりと椅子に座り直した。
自分で自分の首を絞めてどうするよ、あたし。
放課後まで続いた美香の容赦ない追求をなんとか振り切って家に帰り着いた時には、あたしはもう体力と気力を使い果たしてしまってた。でも、ぼやぼやしてる時間はない。
昨日の二の舞はごめんとばかりに、あたしは腹ごしらえのカップラーメンを啜る。
……なんだかなぁ。
猫になっちゃう理由が何にも分からないまま、ずるずると時間だけが経ってるって感じ。でもさ、夜になったら自動的にあの不細工な猫になっちゃうんだから、理由って言われても困る。
「志穂ちゃん、それで34回目だよ」
ずり落ちそうな瓶底メガネを鼻先にぶらさげて、親父がぼそりと言う。
「え? 何が?」
「帰ってきてから溜息ついた回数」
「……んなもんいちいち数える暇があったら、さっさと原稿でも書けばいいのに」
お願いだから、これ以上あたしから気力を奪わないでほしい。
「あ、35回目」
「だから、数えないでって……」
「だってほら、僕だって志穂ちゃんのことが心配なんだよ」
「ゲームしながらんなこと言ったって、ぜんっぜん真実味ないし!」
そうなんだ。
この親父ときたらいつもは書斎に籠もっている時間帯なのに、今日は居間のテレビの真ん前に陣取って、今流行ってるらしいゲームをしている。たまにキャラが必殺技かなんかを叫んでるらしい声が聞こえたりしてさ。
関係ないけど、戦いながら技の名前を叫ぶのってゲーム的には『アリ』だと思うけど、根本的にどっか間違ってると思う。本当だったら、んな暇ないって。
とまあそんな状態で、どう親父の言葉を真面目に取れと?
「だってこれ面白いし、セーブしてないのに途中で止めるわけにも……」
「あ、ほら! 危ない!」
親父がこっちを向いた瞬間に手元がおろそかになって、テレビ画面の主人公はモンスターたちに囲まれて突撃されてる。
「ああっ!」
慌ててコントローラーを握り直すも、もう手遅れだった。
親父は背中を丸めて溜息をついている。
「……せっかくいいところまで行ってたのに……これ、あんまりセーブができなくて大変なんだよ……」
「あたしが知るか」
ったく、相手をするのも馬鹿らしい。あたしはまた食べる方に意識を戻したのだった。
それからしばらく。
動くのもめんどくさいほどにお腹いっぱいのあたしは、それでもだらだらと歩いていた。もちろん今のあたしは猫の姿。
いくらなんでもちょっと食べ過ぎたかなあ。あの後におにぎりも作って食べたし。
今日はお腹の方はとりあえず大丈夫。あとは寝るところだけ……。
あたしはもう何度目か分からない溜息をついた。
あいつ───秋山の家に行ったら、きっとまた入れてくれる。誰も拾ってくれそうにない猫のあたしにとって、無条件に歓迎してくれる場所はとてつもなく魅力的だ。
かといって、好意に甘えてしまうのも癪にさわる。
行こうかどうしようか。
さんざん迷ったあげく、結局あたしの足はそこへ向かって歩き出していた。
これだけは言っとくけど、夜の寒さとかあたしの貧相さを笑う人とか、そんなものが嫌なだけ、暖かい寝床が呼んでるのに負けただけなんだからね! 間違っても、猫の姿のあたしに向けられるあいつの笑顔を思い出したってことじゃないんだから!
のろのろと歩いているのに、こんな時だけはあっという間に到着してしまう。
見上げた窓は真っ暗で電気一つついてない。どうやらあいつはまだ帰ってないらしかった。
ちょっと拍子抜けした気分を抱えてドアの前で丸くなる。
「あれ、お前、うち覚えてんのか? 見た目の割にけっこう賢いんだな」
風の冷たさが身に染みてきだした頃に、ようやく秋山が帰ってきた。
……まいどまいど、一言余計だっつうの。
あいつは鍵を開けて、ドアを大きく開けてくれた。あたしは足の間を擦り抜けるように玄関に入る。
ここに来るのはまだたったの三回目なのに、当たり前のようにレンジでチンした牛乳が当たり前の場所に出てくる。
すごく有り難いんだけど、今日は全然お腹空いてないんだよね。かといって、せっかく出してくれたのを残すのも申し訳なく、あたしはやる気なく牛乳を舐めていた。
「食欲ないのか? それとも、もしかして牛乳は飽きたとか?」
いつものようにコンビニ弁当を目の前に広げていた秋山は、焼き魚の切れ端をお箸で摘みあげた。
「食う?」
ひらひらと目の前で動くそれに、思わず視線が釘付けになってしまう。見なきゃいいと分かっているのに、気になってしかたない。
「あはははっ、おもしれー」
ぷっと吹き出す音がして、秋山が大笑いしている。
やってしまった……。
いつの間にかあたしは、しっかりとその魚の切れっ端を前足でしっかりと押さえこんでいたのだった。どうやらまんまと秋山に乗せられ、猫の習性丸出しにして動くそれに飛びかかっていたらしい。
……不覚すぎる。
食欲は相変わらずないし乗せられて悔しいしで、あたしは魚も牛乳も放り出してぷいっと背を向ける。
「……あれ、喰わないの」
あっさりと笑いを納めたらしいあいつの声が聞こえる。それも無視していたら今度は手が伸びてきた。
「まさか、具合悪いとか?」
慌てて見上げると、少し眉をしかめたあいつの顔があった。
「猫の病気って知らないしな……」
そんな独り言を心配そうに呟いている。
う、そんな顔しないでよ。病気なんかじゃないって、お腹がいっぱいなだけで。
だけれど猫のあたしの気持ちが通じるはずもなく、仕方なくあたしは魚だけでもと口にした。
「心配かけんなよな」
とたんに秋山はほっと溜息をついて、くしゃりと笑う。その笑顔が妙に幼く見えた。
……やっぱりこの笑顔を見るとなんか落ち着かないんだよね。暴れたくなるような、じっと見ていたくなるような、変な感じ。嫌じゃないんだけど……なんていうか、羽根で身体の中をくすぐられてるような感じって言うのかな。もぞもぞして落ち着かない。
突然、すぐ横の電話が鳴った。
「はい、もしもし……ああ、うん。こっちは元気」
声の調子がとたんに砕けてぞんざいになる。家族か何かかな。
「うん……うん、別になんもないよ。いつまでもガキじゃあるまいしさ」
ひとしきり喋って電話を切ったあいつは、あたしがじっと見上げているのに気付いて肩を竦めた。
「ったく、おふくろも心配症だよなあ。別に一人でも寂しいとかあんまり思ったことないけど……。でもまあ、お前みたいなのが居るのも悪くないな」
そう言って秋山はまた笑う。
寂しくないと言いつつもあたしみたいな猫を拾ったりするぐらいだから、実はちょっと寂しかったりするんじゃないの? 仕方ない、少しだったらあたしが遊んであげるわよ。有り難く思いなさいよね!
「お前まじでうちの猫になるか?」
ひょいと膝の上に乗せられて、大きな手で撫で回された。剣道をやっているせいか、ところどころマメが出来て硬くなってる手だったけれど、ひどく柔らかな手つきだった。
喉をくすぐられると、猫ってすんごい気持ちよさそうな顔するじゃない? ごろごろ喉鳴らしたりしてさ。あの気分がよーく分かった。
なんていうか、身体中から力が抜けて神経がほどけていくような気分になるのよ。もう、どうにでもしてくださいな感じ。
あたしはお腹いっぱいなのと気持ちいいのとで、あいつの膝の上で丸くなってうとうとしていた。
猫の姿もなかなかどうして捨てたもんじゃないのかも、なんて思いながら───。