5話
ふと見上げた空は、何だか急に雲行きが怪しくなってて。あたしは少し歩調を速くした。
といっても相変わらずの子猫の遅い歩みだけれど。
今日はどこで寒さをしのごう。
雨が降ったら、屋根があるところじゃないと辛いよね。
昨日の場所には行きたくなかった。またあいつに会うかもしれないってのが、何となくいやだったから。
だから、あたしは駅前とは違う方向に向かう。
んー、そこそこ明るくて、屋根があって……となると、やっぱスーパーの軒先とか……かな?
最悪なことに、ぽつぽつと水滴が道路を濡らしだした。
ようやく目指す場所に辿り着いたときは、お世辞にも上等とは言えない灰色の毛皮はもうぐっしょり。ぶるっと身体を震わせても、濡れた毛はそう簡単には乾かない。
あたしは震えながら、身体を縮こめた。
なんであたしがこんな所にいなくちゃいけないんだろ。だいたい、あのデブ猫……今度人間に戻ってる時に会ったら、ただじゃおかないんだから!
今日は勝手口に仕込んだご飯食べて、ゆっくり考えるつもりだったのに。そもそも、見つけなくちゃいけない『何か』ってのを。そうしないと、この生活が終わらない。
……さむ。
家に帰りたいよう。
でも、親父は絶対に入れちゃくれない。あの親父、変人のくせに、一度決めたらやたら頑固なことをあたしは知ってる。
何だかいやぁな方向に考えがずるずると行ってしまう。
「あれ?」
上から声が降ってきた。目の前にスニーカーを履いた足が止まる。
めんどくさかったけど、あたしは仕方なく顔を上げる。
もしも変な人だったら、逃げなくちゃ。今時、女の子だけじゃなくて、犬猫も用心しないといけない世の中だしね。
「……お前……昨日の、だよな?」
……うそ。なんでよ。
そこにはまたもあの目つきの悪い男が立っていたのだ。
今日はスーパーの袋を下げている。買い物して出てきたところなんだろう。
「お前、こんなところで何してんの」
それを聞きたいのは、あたしの方よ!
せっかく会わないように駅前を避けたのに、これじゃ全然意味ないじゃん。
あたしは溜息をついて、また前足の上に顔を乗せた。つまり、秋山を無視した。
この男には頼りたくなかったから。
「おっ、なっまいき。拾ってくれる人もいないくせに」
なのに、秋山はわざわざしゃがみこんであたしの頭を指先でつつく。
余計なお世話! あんたに言われたかないし!
「仕方ねぇなぁ」
突然あたしの身体が宙に浮いた。
秋山に首根っこを摘まれたのだと理解した瞬間、あたしはまたも埃っぽいポケットの中に放り込まれてしまったのだった。
ちょっと! どうしてあんたはいつもそうなのよ!?
人の都合というものを聞く気もないの?
……まぁ、猫に聞いても答えられっこないけどさ。
結局、あたしは昨日と同じコースを辿ることになってしまった。
ほっとしたような、がっくりしたような複雑な気分のまま、あたしはおとなしくポケットの中で揺られていた。正直言って、濡れたまま一晩をやりすごす自信はなかったから。
さすがにこの男も、今日はあたしの存在を忘れていなかったらしい。家の中の電気のスイッチを一通り入れたあと、洗面所に連れて行かれた。
何をするつもりだろ、とポケットから顔を出して見ていると、シンクにお湯を張っている。
つまりこれは……もしかして、お風呂?
一瞬期待したのも束の間、お湯に乱暴に放り込まれたあたしは危うく溺れそうになった。
じたじたと藻掻いて、ようやくつるつるのシンクに足を突っ張って身体を支える。
「ああ、ごめん。ちょっと深かったか?」
ってさ、謝るぐらいならもうちょっと考えてよね!
昨日といい今日といい、あんたあたしを殺す気!?
それでも、お湯の中でご丁寧にシャンプーまでされてしまったあたしは、なんとなーく秋山の大きな手にされるがままになってしまった。
うう、だって、とっても暖かくて気持ちいいんだもん。気分は雪山から救助された遭難者よ。
「お前、やっぱり洗ってもちっとも代わり映えしないなあ。少しは白くなるかと思ったけどさ」
お湯の中からつまみ出されて、しみじみと言われてしまった。
一言余計だ、このアホ。
引っ掻いてやろうかとも思ったけど、ほかほかのタオルにくるまれて抵抗する気まで失せてしまう。
「ほい。どうせまた腹減ってんだろ」
あたしの前に、また牛乳のお皿が突き出された。ありがたく飲みながら、それが冷たくも熱くもない人肌程度に温められてることに今さらのように気付く。
そういえば、昨日もそうだったっけ。失礼で一言多いヤツだけど、案外優しいところもあるのかもね。
そう考えて顔をあげると、吊り上がった目つきの悪い目がすんごい優しげに見えてくるから不思議なもの。
こうしてみると、こいつの笑顔も悪くないよな……。
って……ちょっと待て。あたし、今何考えてた!? 少しばかり優しくされたからって……。
困る。
どうしてか分かんないけど、なんかすっごい困る。
あたしが一人でわたわたしてるのを見て、あいつは声をたてて笑った。
「お前、おっかしいよなぁ」
む、おかしいってなによ。優しいってのは却下。
やっぱ、あんたなんか失礼アホ男で十分!
「何となくお前見てたら、思い出すヤツいるんだよな。……まぁ、あいつにそれ言ったら、すっげえ顔して怒りそうだけど」
猫のあたしに似てる? こんなぶっさいくな猫に似てる誰かって、ホント可哀想よね。
あたしだったら真っ平ごめんだ。
あいつは自分もスーパーから買ってきたらしいお総菜──やっぱり自炊はしないらしい──を食べながらも、思い出したようにあたしを撫でる。
大きな手の感触がとても心地よくて。
そこまで考えて、あたしはとんでもない事実を思いついてしまった。
猫の時は、当然だけど何にも着てない。つまり、あたしは素っ裸。それでこいつに撫でられてるってことはよ、つまり、その……。
「!!」
ぼんっと音がしそうなほどに、頭の中が沸騰した。ふぎゃっと一声叫んで、思わず暴れてしまう。
「いてっ」
あ。
あたしはぴたりと動きを止めた。
あいつの手の甲に、くっきりと走る紅い筋。あたしの爪が当たったみたい。
しまった。あう。ごめん。ごめんなさい。
……だって、だってー! 恥ずかしかったんだもん。猫なんだし、別に恥ずかしがる必要ないって分かってるけどさ!
うわ、なんであたし、こんな変なこと思いついちゃったんだろ。
あたしはおそるおそるあいつの顔を見上げた。あいつは肩をすくめて苦笑している。
「お前……凶暴すぎ」
怒らない? 怪我させちゃったのに?
思わず小さな鳴き声が漏れた。
秋山の手の側に近寄って、傷を観察する。
そんなに深くはないけど、うっすらと血が滲んでた。ひりひりして痛そう。
ホントにごめんなさい。
こういうとき、言葉が喋れないのは本当にもどかしい。あたしは傷に触れないように、そっとあいつの手を舐める。そのくらいしか思いつかなかった。
あいつはちょっと吃驚したようにあたしを見て、それから軽く頭をまた撫でた。
「大丈夫だって、このくらい。俺こそ、なんかお前を吃驚させたんならごめんな」
その笑顔は、とっても優しくて温かかった。見たことがないくらいに。
……なんだか調子狂っちゃうよ。
その夜は、秋山はテレビを見ながら、あたしを膝の上にずっと乗っけて遊んでいた。「うりゃ」とか言って前足を持ち上げてみたり、顔をむにーっと伸ばしてみたり。
お前はガキか、と言いたかったけど、怪我をさせて申し訳ない気分でいっぱいだったあたしは、とりあえずオモチャにされても大人しくしていた。
かぎ尻尾を引っ張るのだけは、止めて欲しかったんだけど。
体中を撫でまわされるのはむしょうに恥ずかしい。
なのに心地よくてそのうちまた眠くなってくる。
「台所の窓、少し開けとくからな」
って、あたしだから分かるけど、普通、ただの猫に言っても分かんないと思うよ、それさ。
と言うわけで、また夜明け前に目覚めたあたしは、すんなりと窓の細い隙間から抜け出すことができた。
ちょっと歩き出して、振り返ってみる。
誰もいないドアが少しだけ寂しかった。
あたしはぷるぷると頭を振って、また背を向けた。
……あたしってば、何考えてるんだろ。あの寝ぼけ野郎、まだぐーすか寝てるに決まってるじゃん。