4話
「よっ」
「うわあっ!」
今日の夕方はどうしよう。また追い出されるんだろうから、ちゃんと心づもりと準備をしておかなくちゃ。
そんなことを一生懸命に考えながら廊下をぽてぽて歩いていたら、いきなり後ろから声をかけられた。
今一番聞きたくなかった声に、あたしは思わず過剰反応をしてしまう。
「……何だよ、そんなに驚くとこか?」
例の目つきの悪い男が、吃驚した顔であたしを見下ろしていた。
見下ろされるのは身長差のせいなんだけど、毎度ながらなんとなく腹立たしい。あたしは男子の平均と同じくらいの身長だから、見下ろされるのってあんまり慣れてない。
「べべべ別にっ」
「いつも寝坊で遅刻ぎりぎりのお前にしちゃ、珍しく早いよな」
そりゃあ、夜明け前から起きてるんだから、いつもより早いのは当たり前でしょ!
ていうか、普通ならここで、「朝練の後に道場で寝過ごして遅刻するような、あんたに言われたかない!」くらいの台詞を言い返すのだけれど。
「……ちょっとね」
「? もしかして、朝から変なもん食って腹の調子が悪いとか」
「人をあんたといっしょにするな!」
やっとそれだけ返事をして、あたしはそそくさとその場を離れた。
もしかして、あたし、こんなんじゃ怪しい人?
秋山もなんか変な顔してこっちを見ているみたい。
でも、いくらあいつがあたしの秘密を知らなくても、あたしはしっかり覚えているわけで。なんか顔を付き合わせるのが、妙に恥ずかしい気がする。しかも今朝のあの……。
思い出しかけた記憶を慌ててはるか遠くに放り投げる。
うん、あたしは何も覚えてないから!
見てなさい、今日はあんたになんか世話にならなくても、絶対にうまくやってみせる!
あたしは思わず心の中で叫んでいた。
そのためには食べ物と寝る場所の確保は絶対に大事よね。この二つは外せない。
そんなこんなで、あたしは夕方に向けていろんな作戦を練りながら一日の授業を受けたのだった。
「ねぇねぇ、志穂ちゃん、今日なにかあった?」
「ん? 何って?」
ホームルームが終わって、美香が近づいてきた。
あたしの友達の一人で、アイドルも裸足なすんごい美少女だ。
さらさらの黒髪と華奢な手足の、小柄で清楚な女の子。うるつやな唇からは耳障りの良い声。
そりゃあもう、理想の女の子ってこうだよなーとあたしが思ってる外見、そのまんま。
「今日一日、なんだか変だよ。ちょっと元気がないみたい」
「そっかなぁ?」
あたしはあやふやに誤魔化しながら、ぎくりとした。
睫毛の長い黒目がちな美香の瞳が、きらりん、と光ったように見えたのだ。
「ななななーんにもないよ、別に。だいじょぶ。ぜんぜん元気」
思わずどもってしまい、あははとそらぞらしく笑ってみたりする。
「そうならいいんだけど」
「うん、ホントに何にもないって!」
「珍しくぼんやり考え事してたみたいだし」
「……」
「それ以外の時は、教室の後ろをずっと気にしてたし」
「…………」
その言葉につられて、あたしはまた斜め後ろをちらりと見た。
見たくはないんだけど、どうしても目がいってしまう。教室の一番後ろ、陽当たりのいい窓際の席。他の人より少し高いところにある、あのアホ男の頭が見える。
だって、どうしても気になるんだもん。
いくらあたしの夜の姿が猫だったとしても、こっ、事もあろうか、あいつの部屋で不本意な一夜を……って、いやー! なんかこんな表現使うと、余計に怪しいし! 誰かにバレでもしたら、絶対に誤解への道まっしぐら、間違いないし!
どうしてあたしが、よりにもよって苦手なあいつにとっ捕まる羽目になったんだか。
「志穂ちゃん?」
「…………へ?」
美香があたしをじっと見ていた。
「ななななななんでしょうっ。ていうか、あたし今、何か変なこと口走ったりしてないよねっ?」
しまった。美香にこんな事言っちゃまずい。
慌てて口を噤んだけど、後悔すでに遅し。
そして、あたしは恐ろしいものを見てしまった。
ちょっと首を傾げた美香は、それはそれは嬉しそうににっこりと笑ったのだ。日本人形みたいに肩で切りそろえた黒髪が揺れるさまは、本当に綺麗で可愛らしいのだけれど。
あぁぁぁ。
この凶悪な笑い。
「ネタ発見!」
という美香の心の叫びが聞こえた、気がした。
実は彼女、作家になるべく日々研鑽しているらしい、オンライン作家とかいうやつらしい。実際、美香が書いたのを読ませて貰ったことないし、別にそれはそれで趣味にとやかく言うつもりはないんだよね。
一番の問題は───ネタ探しと言っては、周囲の人間を観察する美香の趣味。しかも、観察眼がやたらと鋭い。
美香のおかげで秘密を暴露された人が、この学校にどれだけいることか。しかも、たいていの人は美香の可愛らしい外見に騙されて、偶然にばれちゃったんだよねとしか思ってない。
いくら友達とは言え、いや、友達で彼女の中身をよーく知ってるからこそ、標的になるのは勘弁して欲しい。ひじょーに困る。
今はただでさえ手一杯の大問題を抱えてるってのに、このうえ美香にまで目を付けられたらどうしよう。
「ねっ、美香! そういえばさ、うちの親父が美香ちゃん頑張ってるのかなって言ってたよ?」
「えっ、本当?」
途端に美香の顔がさらに輝いた。美香は親父の大ファンなのだ。
しめしめ、このまま上手く興味を逸らしてやれば……。
「ホント、ホント。今度、文章見てあげるって」
「えっ!」
しばらく固まっていた美香は、顔を真っ赤にしてあたしの腕をぐいぐい引っ張った。小さいくせに案外と力が強い。
「それじゃ、さっそく志穂ちゃんの家に行こ! ね、いいでしょ、ネタ帳もちゃんと持って来てるから!」
もしかして、美香の観察対象にされたらそのネタ帳とやらに全てを書かれてしまうのではと思ったけど、それは口に出さない。というより、怖くてそんなこと聞けない。
「……えっと、今から?」
「もちろんよ。思いついたが吉日っていうでしょ!」
あたしは自分よりも二回りも小柄な美香にずるずると引きずられながら、親父のスケジュールをちらりと考えた。
確か、次の締切まではもう少し時間あるとか言ってのんびりしてたし……。それに、急いで帰らないと、この季節の日暮れは早い。
「よし。んじゃ、帰ろ! そのかわり、私は予定があるから帰ったらまたすぐ出かけちゃうよ」
愛娘のピンチには協力して貰うからね、親父!
「うん、志穂ちゃんはいなくてもいいから!」
友よ、その言葉はけっこう冷たくありませんかね。
……まあ今のあたしには好都合だけど。
家までの道中、美香は怪しいくらいに浮き浮きしていた。
「ただいまー」
「お邪魔します」
書斎に続くドアから、親父が顔をのぞかせる。
「お帰り、志穂ちゃん。美香ちゃんも久しぶりだね。元気だった?」
「はいっ。元気です!」
学校から出るときにちゃんと連絡していたおかげで、親父は普段の家の中とはまるで別人のような格好をしていた。
おまけに、しっかりコンタクトまでしているらしい。
今日ばかりはこのナルシルトぶりも感謝しなくちゃね。美香の興味をちゃあんとひきつけておいて貰わないと困るんだから。
「ああああのっ、お父様! 私、お父様みたいな作家になるために、毎日頑張ってますから!」
「うん、志穂ちゃんから聞いてるよ。頑張ってるんだってね」
「はい!」
うんうんと頷いているナルシスト親父。
かたやうっすら頬を染めてもじもじしている、外面だけは完璧な美少女、美香。
どっちも共通点は変わり者。んで作家という単語。
偏見は持ちたくないんだどね……。
なんだか二人を見ていると変に疲れてしまう。身近な人の見慣れない顔は、見ている方がこっぱずかしい。
さっそくソファで何やら楽しげに話し出した二人を横目で見ながら、あたしはキッチンに立った。今日こそはお腹を空かせて路頭で迷わないように、ちゃあんと計画があったのだ。
ついでに二人のためにコーヒーも煎れながら、窓の外を眺めた。空はもう、随分と薄暗くなってきた。曇っているせいで太陽は見えないけど、日暮れはもうそろそろ。
美香は親父が相手してくれるから、あんまり心配ないけど。
「親父、今、コーヒー煎れてるからね。出来たら美香に出してあげてよね。あと、ケーキも買って来てるから」
「うん、ありがとう、分かった。今から出かける用意するんでしょ、気を付けて行ってらっしゃい」
あれ、とあたしはちょっぴり感心してしまった。
何も言わずとも、親父も日暮れが近いことに気付いてる。
まぁ、そっちの方がありがたいけどね。
幾らなんでも、変に引き留められて美香の前で猫になっちゃうのだけは困る。何が悲しくて友達のネタ帳とやらの犠牲にならないといけないんだか。
「あ、美香もあたしの方は構わないで好きなだけお喋りしてなよ。どうせ親父、原稿したくなくってうだうだしてるだけなんだし」
「うん、ありがとう! あの、もう少しだけお邪魔しててもいいですか?」
……まったく、女の友情って現金よね。
でもまぁ、あたしは美香のそんな正直なところが好きなんだけど。外見通りの、清楚で可愛いだけの美少女じゃ面白くない。
「いいよ。ご両親が心配しない程度にね」
「はーい。お言葉に甘えます」
あたしは二人の声を背後に聞きながら、リビングのドアを後ろ手に閉めた。
玄関に出て少しすると、今朝と同じぐんにゃりと世界が歪む感覚。
――夜が来て、またあたしは猫になる。
でも、今日は大きな問題を解決しちゃってるしと、ちょっぴり浮かれた気分で伸びを一つした。足取りも軽く、キッチンに続く勝手口の方へまわる。
そこまでは良かったんだけれど。
……嘘……。
あたしは呆然としてしまった。
二人に気付かれないように勝手口の外側にこっそりと置いた牛乳を入れたお皿は、すっかり空っぽ。ちぎったパンは、屑だけ残して消えていた。
そのかわりに、やたらと太って毛艶のいい猫がでんと寝そべっていたのだ。あたしが寝床にと用意した小さな毛布の上に。
やられた。ちょっとしか時間経ってないのに。
生意気なその猫は、あたしを見て毛を逆立てた。威嚇らしいしゃがれた唸り声までご丁寧にくっついている。
ていうか、それをやっていいのはあたしの方じゃない? とはいえ、普段のあたしだったら簡単に追い払えるけれど、今の姿じゃあ勝てるわけがない。
どうしてあたしばっかり!!
あたしは心の中でしくしく泣きながら、空きっ腹をかかえてまた街を彷徨うことになったのだった。