『奇跡』と呼ばれた彼と……
「よう、久し振り。早速で悪いが、これ外してくれないか?」と彼は事も無げに言ってきた。
太陽に照らされ、彼の首に付いている首輪が黒く光る。
彼の首にどうして首輪が、と驚いたのは、ほんの僅かな時間。
それよりも、何故彼がここに居るのか。何故、ボクの目の前に居るのか、そちらのほうが疑問だった。
『奇跡の王』
彼を誰もがそう呼んだ。
文武両方の才能に富み、見目も整っている彼は、まさに神がこの地に遣わせた『奇跡』なのだと、人々はそう言った。
強国に囲まれた、奪われていくばかりの弱小国に生まれた彼が『奇跡』となったのは、彼が家族を助ける為に齢十二で王国兵になり、初陣で敵将を討ち取った時。
たった一人の、それも兵士に成り立ての子供がもたらした勝利は、長い戦で疲れきった人々の心に、まるで甘露水のように染み渡っていった。
繰り返される戦、もたらされ続ける勝利……広まっていく『英雄の名前』と『奇跡』という言葉。
時は流れ、彼は故郷を飛び出し、別の土地で『王』となった。
未開の地と呼ばれる、手付かずの自然とどこにも所属しないという自由がある土地で。
『奇跡の王』が造り上げた『奇跡の国』
噂はあっという間に広まり、彼を尊敬する者、夢を追う者、彼を害そうとする者、様々な人がその国を目指した。
時折、戦争という言葉を聞くが、それでも彼の国が燃えたという話も、彼が負けたという話も聞かず、ああ、きっとこのまま彼は死ぬまで『奇跡の王』として、その国に居続けるのだろうと思っていた。
けれど――
心の何処かでこうなるだろうなとも思っていた。
誰よりも自由を愛し、『己』というモノにこだわる男だと知っているから。
「……お前は、どうして此処にいる」
「『王』と呼ばれるのも、そう在り続けるのももう飽きた。だから、国を出て……まぁ、色々あってな。奴隷になってみたんだ」
「なら、何故、『助けろ』と、言う?」
「助けろ、なんて横柄には言ってないだろう? ちゃんと『助けてくれ』って言ったじゃないか」
「同じことだろう」
違うだろう。と笑う彼を見ながら、近いようで遠い記憶を呼び出す。
浮かぶのは、彼の傍にいた八人の将達。
「あいつは子供だから、年上の俺が傍にいてやらないとな」
「あの人はお人好し過ぎるので、私が傍にいないと危険じゃないですか」
「同い年だからこそ、言ってやれることもあるからな。腐れ縁だ、仕方ない」
豪快に笑う男の姿が、控えめに笑う少年の姿が、苦く笑う青年の姿が、浮かんでは消える。
「私がいないと、変な女の人に引っかかっちゃうかもしれないでしょ?」
「助けてくれた人だから、恩を返したいから……それだけです」
「神々の教えとは違う世界を、あの人は見せてくれると言ったんです」
「あの人についていったら、きっと楽しいもん!」
「理由なんて、いらないさ。あの人があの人なら!」
困ったように笑う女性、当然だと頷く青年、夢を見るように告げる青年、キラキラと目を輝かせる少女と少年の姿が、闇に溶ける。
耳奥で聞こえる声は、全て「王」を……「彼」を信じているものばかり。
この無責任で、傲慢で、強欲な男に何故、ついていくのか……一緒に行こうと彼に誘われた時、「嫌だ」と即答したボクには分からない。
そして、やっていられない。と、溜息を吐けば「助けてくれないのか?」と不思議がる声が聞こえた。
「何故、ボクが助けると思う」
同郷ではあったが、敵国の人間だ。と付け足せば、男がきょとんと不思議そうな顔で此方を見た。
今の言葉が、彼にとって予想外の言葉だったのだと理解出来る。
「お前は敵じゃないだろう」
何を言っているんだと言いたげな彼の姿に、今度は此方が「なにを言っているんだ」と言いたくなった。
いや、言ってもいいだろう。だが、言えば彼のペースになってしまう。
動揺も、疑問も、用意していた言葉も全て飲み込み、「自慢の部下はどうした」と切り返した。
そして、すぐに後悔する。
「言っただろう。自由が欲しくて、俺は王から一人の男になったんだ。部下なんていないよ。気の置けない友人は何人もいるけどな」
胸を張る彼に合わせて、首輪に付いている鎖が不快な音を奏でた。
「バカが」
「それが俺さ。で、そろそろ本当に首が痛くてさ。外してくれないか? これ」
苦笑いしながら、首輪を指差す彼。
頼むよ。とヘラリと笑う彼の顔を見ていたくなくて、空を見上げる。
もう完全に彼のペースであり、ボクが打てる手など殆ど無い。
「なぁ……」
「お前を助けても、ボクに得はない」
「あるさ」
再び鎖が鳴る。
視線を彼に戻せば、年齢にそぐわない……無邪気な少年の笑みがそこにあった。
「お前はその似合わない軍服と、重すぎる剣を捨てて、『奇跡の王』とかつて呼ばれた男と旅に出られる。でもって、新しい家族も出来る。俺がお前の旦那に、お前が俺の妻に。子供は、男女どっちでも良いが、最低でも五人は欲しいな」
な? 損はないだろう?
自信に満ちた瞳が、『私』を捕らえる。
本能が警鐘を鳴らす。
「傲慢は身を滅ぼすぞ。奇跡の王よ」
「もう俺は王じゃないんだが……まぁ、いいさ。傲慢だからこそ、手にできるモノは多いしな」
「第一、私はお前のモノにはならない。お前の後をついてなど行かない。ボクは……」
「俺はお前が好きだよ。だから、こうして会いに来た。後ろなんてついてこなくていい。俺の隣にいてくれれば……それで、いい」
ジャラリ、と鎖が鳴り、彼の手が、瞳が無遠慮に近づいてくる。
兵である『ボク』がどうするべきかは、決まっている。
けれど、『私』は……
考える暇を、誰も与えてはくれない。
景色が滲む。
剣を抜く手が震える。
「どうすればいいの?」
剣を振るう間際、漏れ出た言葉。
それを掻き消すように、ただ重い、何かが落ちる不快な音だけが、その場に響いた。