CURSE in HELL
1.
今ではない『別』の地球。
いくつかの国々が王制により統治され、都市を築き、各国の騎士団がそれを守り、神殿が神を奉じ、魔法を使うものが真理を探究し、民が日々の暮らしを営むも、人間の介入を拒む未開の地が大半を締める世界。
数ある都市の中でもその地を治める王の権威を凌ぐほどの繁栄を見せたとある都市が一夜にして壊滅した。
魔王が現れたのだ。
魔王は、瞬く間に周囲の人間を異形へと変え、都市を破壊し、そこに禍々しい巨大な城を一瞬にして築き、居を構えた。
その国の王が調査のために遣わした騎士団の報告によれば、魔王の城の周辺―廃墟と化した都市跡には、異形に成り損ねた人間の骸が打ち捨てられ、無傷で救出されたものも僅かにはあったが、皆、強い恐怖に心を蝕まれ、ただ魔王のことだけをうわ言のように呟くばかりであった。
曰く、ただ深く黒い異形の巨躯が街を走り、異形と化した人々を次々と葬り、或いは捕らえ、瞬時にして現れた天を突き上げるような尖塔がいくつも立ち並ぶ城へと連れ去った、と。
城の周辺は、常に暗雲が広がり、大地には異形が徘徊し、都市を脅かした。
事態を重く見た各国の王たちは、それぞれが騎士団を派遣し、魔王を討ち果たそうとした。
しかし、戦う以前に不思議な力によって包まれた魔王の城へと足を踏み入れることもできず、周囲を守る異形たちによって追い払われるだけであった。
その後も、神殿に属する神官や何人もの魔法使いたちが挑んだが、結果は同じであった。
国力は疲弊し、人心は荒んでいく中、一つの希望が生まれた。
魔王出現から十数年が経つ頃であった。
十七歳の青年が都市を襲った異形を剣の一振りで打ち倒したのである。
人々は、彼を勇者と呼び、国の枠組みを越え、王たちは彼の打倒魔王の決意を支援した。
勇者は、旅の中でさらに腕を磨き、途中、志を同じくする強い法力を持った若き少年神官や森の奥深くに隠れ住む魔法に長けたエルフの魔女を仲間に加え、魔王の張り巡らせた罠を次々と打ち破った。
そして、決戦。
魔王の城の結界を越え、勇者たちは、禍々しい城へと攻め込んだ。
襲いかかる異形たちを打ち倒し、魔王の片腕である黒騎士を一騎打ちで死闘の末に倒し、彼らは、魔王の玉座まで辿り着いた。
2.
「……人間めぇ……人間ごときがぁぁぁぁぁぁっ!」
重厚な低音の怨嗟が子ども特有の甲高い声に変わっていくのをボクは、自分の声なのに、まるで他人事のように聞いていた。
ピキピキと硬い物が割れて剥がれる音とともに、肌が久しぶりに外気に触れる。
「……こ、子ども?」
目の前で、剣を手にした黒髪の勇者と呼ばれた少年が呟く。
驚くのも無理もない。
やっとの思いで倒した魔王の異形の巨躯の中から、ボサボサの黒髪、身体中に傷跡を刻んだ子どもが出てきたのだ。
魔王の城の玉座に彼らが足を踏み入れ、戦いが始まった。
今までの旅で修練を積んだ彼らの力は、魔王を追い詰め、勇者の持つ剣が止めの一撃となり、異形の巨躯が崩れたのだ。
激しい痛みから、ボクは、思わず声を上げていた。
憎しみの声を。
望んだことなのに。
でも、それが本当の望みではないことは自分でも分かっていた。
ボクは、なんとか心を抑え、崩れ落ちる巨躯から這い出すと、『力』を導き、服を身に纏う。
擦り切れ、薄汚れた上着と膝までのズボン。手に持つのは一冊の古ぼけた本。
ボクは、魔王。
魂に刻まれた名前はあるが、この世界での名前は、ただ、魔王。
目覚めたのは、十七年前。
この城が建つ土地にあった大都市の中心にあった大きな広場。
ボクは、そこに現れた。
最初に目に映ったのは、人間たちが自身の身体の内から吹き出した黒い何かに身体を蝕まれ、異形と化していく光景。
ボクにはそれが危険なものだということが分かった。
人の身の内から黒く吹き出したそれは、心が生み出した歪み。
繁栄を極めていたこの都市は、それと同時に酷く歪んだ都市でもあった。
心が荒み、身の内から溢れ出し、そして、行き場のない歪みは、自分を生み出した身体を蝕む。
完全に蝕まれた身体は、歪みそのものとなり、異形の身体で触れるすべてを蝕もうとする。
だから、殺した。
ボク自身の手で。
身体を異形に蝕まれ、自分と同じ苦しみを与えようと、他者へと魔手を伸ばそうとした彼らをボクは、殺して回った。
「ぎゃぐぉっ!」
断末魔の叫びが耳を突く。
黒い異形と化した腕でボクの腕を掴む。
その腕は、異形の胸を貫き、ボクの手の中には、激しく脈打つ心臓が握られていた。
異形の恨みのこもった眼差しが針のように突き刺さる。
「やっ……やべぉ……ごあっ!」
ボクは、心臓を握り潰し、命を絶つ。
どさりと重い音を立てて、異形が地面に崩れ落ちる。
「ひぃっ……」
「く、くるなぁ……」
先ほどまで、異形に追い掛け回されていた幼い兄弟が異形に向ける以上の恐怖の目をボクに向ける。
全身をガタガタと震わせながらも懸命に弟をかばう兄は、その右足を侵食されていた。
『力』を操り、ボクは、その兄の全身を時空凍結で捕らえ、違う場所へ瞬時に移動させる。
「お、お兄ちゃん!」
突然、兄を消された弟が怒りに任せ、ボクに石を投げつける
「か、返せっ! バケモノ!
お兄ちゃんを返せぇっ!」
石が額に当たり、血が流れるのも構わず、ボクは、かろうじて侵食を免れていたその弟を空間移動で、街の外へ弾き出した。
それを何度も繰り返す。
街を走り、異形を屠り、侵食の薄い者を捕らえ、無事なものを街の外へと弾き出す。
常人なら気を違えてしまうような怒りや憎しみ、恐怖がボクに向けられた。
ボクの手は、真っ赤な血に塗れ、それでも、街を徘徊する異形たちへの殺戮を止めることはできなかった。
止められるのは、すべてを殺し尽くしたときだけ。
泣いてはいけない。
泣くなんて許されない。
命を、大切な人を奪われて、泣きたいのはこの街の人たちのはずだ。
ボクに泣く資格なんてない。
「……また……始まるんだ……」
異形と化した人間たちのすべてを屠り、血に染まった指先を見つめ、ボクは、呟いた。
「全部、終わったら……ちょっとだけ……泣こう、かな?」
『力』を導き、街の建物を打ち崩し、その残骸で巨大な城を築き上げる。
「ちゃんと……泣けるかな?」
「魔王ぉっ!」
突然の声に、ハッと我に返る。
目の前には、長剣を構えなおした勇者が仲間である少年神官とエルフの魔女とともにボクに敵意のこもった目を向けていた。
「それがお前の本体か!
あの不気味な巨体は、それを隠すためのカムフラージュってわけかっ!」
勇者が吼える。少年期から抜け出しかけた凛々しい顔立ち。
神の加護を宿らせた武具に身を包み、剣の切っ先をボクに向けている。
本体というのは事実。
でも、カムフラージュというのは間違い。
「人間を異形と化し、成り損ねた者を虐殺し、軍勢として、そして、人質として捕らえる非道!
神のご意志により、俺が必ずてめえを地獄の底に叩き落してやる!」
戦法衣に身を包んだ少年神官が叫んだ。
年齢は、勇者よりも二つ、三つ下だろうか。
赤毛の優しげな幼い顔を怒りに歪め、眼鏡の奥の瞳がきつくボクを睨んでいる。
あの街の人間は、自らの心の内の歪みに耐え切れずに、異形となった。
人間たちを捕らえのは事実。
でも手勢にするためじゃない。
異形化の進行を止めるために、この城で眠ってもらっているだけ。
ボクが手にかけたのは、成り損ないではなく、完全に異形と化した人間だけ。
「異形を操り、人々を襲わせ、世を恐怖に満たした罪!
わしらの手により、おのが命で購うがいい! 外道めが!」
真紅の呪装具に身を包んだエルフの魔女が老人のような口調で言い放つ。
勇者と変わらない年齢の少女のように見えるが長命種である森の民。
見た目通りの年齢ではないらしい。
異形を操り、人間を襲わせたのは事実。世を恐怖で満たしたのも事実。
目的があったからだ。
「お前の野望、世界の完全なる支配も、風前の灯!
数々の障害を乗り越えてきた僕たちを相手に、弱りきった本性をさらしたお前に勝ち目はない!
僕が……僕たちがお前を倒し、世界を救うんだ!」
勇者が剣を低く構え、叫んだ。
世界征服なんか望んでない。
でも、望んでいる。
ボクを殺して。
心の歪みが実体を持って具現する。
それは、この世界が危機に瀕しているということだ。
過去、いくつもの文明、つまり世界がそれの危機にさらされてきた。
今のこの世界は、いったい何回目の文明なんだろう。
ボクの身体に刻まれた傷跡を数えれば分かるだろうが、それは数え切れないほど刻まれている。
歪みが具現し、異形が世界を蝕むと同時に、ボクは、目覚める。
目覚め、歪みをこの身の内に取り込み、この世界から自分ごと消し去るために。
それは、この世界に生きるものの手で行われる必要がある。
だけど、強い力と心で行わなければ、逆に歪みに捕らわれることになる。
だから、ボクは、異形を操り、国々を襲わせた。
街を壊し、人々を異形に取り付かせて攫い、でも、けして死者を出さないように。
危機を煽り、力持つものが現れるように。
今、ボクの目の前にいる勇者と呼ばれる少年。
彼が生まれたのは、ボクが目覚めた十七年前だという。
これは、偶然などではない。
彼は、この世界そのものが歪みという病原体に対して生み出した抗体。
歪みを取り込んだボクを消し去るために世界が生み出した『力』。
勇者は、世界を救う存在。
ボクは、世界を巣食う存在。
このままでいれば、ボクも異形に内側から徐々に食い尽くされ、やがて、世界を蝕むようになる。
だから、その前に、ボクを殺してもらうために、ボクは、彼とその仲間たちを導いてきた。
彼が身につけている神の加護が宿った武具もすべてボクが用意したもの。
旅の障害となる罠を幾重にも張り巡らせたのも、それを突破することによって、彼らにさらなる力を手に入れてもらうため。
異形の巨躯で魔王として戦ったのも、彼らの力がどれほどのものか試すため。
すべては、ボクを殺してもらうためだった。
しかし、まだ足りない。
あと一つが足りないのだ。
「世界を救う? 大した気迫だね」
ボクは、嘲笑うように言い、手にした本のページを開き、そこに書かれた文字を指でなぞった。
ごがあぁごおぉんっ!
城全体が大きく揺れ動き、轟音とともに壁や天井が弾け飛ぶように打ち砕かれた。
荒れ果てた荒野が城の周りに広がり、上空には暗雲が広がっていた。
そして、暗雲と城との中空に黒く濁った球体が浮かんでいた。
「なっ、何をするつもりだ!」
少年神官の張った結界によって身を守られた勇者が険しい顔で歪みの塊を見上げていた。
「あれは、この世界中から集められた心の歪み、異形の塊じゃ!」
鋭敏な感覚を持つエルフの魔女がボクに変わって説明をする。
ボクは、空いたほうの手で指を鳴らして、城の地下深くで眠りにつかせている人間たちの身体を蝕む異形―心の歪みを切り離すと、それは黒い煙のように湧きあがり、上空の歪みの塊へと吸い込まれていった。
「まだでかくなるってのか! なんて……なんて禍々しさだ!」
少年神官が歪みの塊から発せられる怨嗟を感じ取ったのか、顔を青ざめさせる。
「キミたちは、考え違いをしている」
球体に気を取られている勇者たちにボクは、声を掛ける。
「ボクは、世界の支配なんか望んでいない。
そんな低俗な野望を思いつく浅ましい生き物は、人間くらいだね」
「なんだと!
で、では、お前はいったいなんでこんなことをしでかしたんだ!」
真実を話すわけにはいかない。
そうすれば、きっと彼らは迷ってしまう。
世界の平和を願って、打倒魔王の旅を続けてきた彼らのその正義を揺るがすことになってしまう。
彼らは、正義、ボクは、悪でなくてはならない。
事実を打ち明けて、殺してもらっても、それは本気の力ではない。
中途半端な力では、ボクの身の内の歪みをこの世界から完全に消し去ることなどできない。
何より、優しい彼らの心に深い傷を負わせることになりかねない。
そんなこと、させるわけにはいかない。
だからボクは、彼らを鼻で笑う。
「そんなことキミたちに教える義理は、ボクにはない。
でも、そうだね、特別に教えてあげるよ。
キミたちが負けたら、この世界は滅びることになる」
「なっ……!」
驚きのあまり声を詰まらせる勇者たち。
「そして、もう一つの間違い。
『弱りきった本性』だって?
笑わせるね。ボクの本気は、こんなもんじゃない」
そう言ったボクに上空の歪みの塊がすーっと下り、身体の中へと吸い込まれる。
「バカなっ! あ、あれだけの歪みを喰ろうたというのか!」
エルフの魔女が恐怖におののく。
「なんてヤツだ! 化け物が!」
少年神官が嫌悪の目を向け、口汚く罵る。
勇者は、何も言わない。
ただ、歪みを内に取り込んだボクの増大した力を感じ取り、険しい目を向けている。
彼らにしてみれば、ボクが自分の力を増すために世界中から集めた歪みを吸収し、自分たちを倒す準備をしているように見えるだろう。
しかし、実際は違う。
今、すべての歪みはボクのこの身体の中にある。
激しい怒り、悲しみ、憎しみ、妬み、恨み……負の想念がボクの心を容赦なく蹂躙している。
今のボクは、世界を蝕む歪みと一体になっている。
この状態のまま、ボクは、勇者たちに殺されなくてはならないのだ。
だが、心と身体を蝕む歪みを抑えるだけで精一杯のボクだ。
このままで戦ったら、一切の手加減はできない。
彼らが倒れたら、ボクを殺すものはいなくなり、身の内の歪みがボクを喰らい尽くし、世界を飲み込む。
でも、ここまできたら、もう後には退けない。
彼らにすべてを賭けるしかないんだ。
3.
「いくよっ」
低く言い放ち、ボクは、すっと身を屈め、瞬時に勇者の懐に飛び込んだ。
「な、なに……ぐはぁっ!」
予想もしなかった早い動きに驚きの声を上げる勇者の鎧の腹にボクは、掌底を叩き込む。
「おのれぇ!」
勇者が派手に吹っ飛び、怒ったエルフの魔女が指先を銀に輝かせ、精神を打ち砕く魔法をボクに放つ。
幾筋もの銀色の槍が襲いかかるが、ボクは、それを避けもせず身体で受け止める。
「エルフお得意の精霊魔法だね。
ああ、驚かなくてもいいよ。ちゃんと効いてるから。
でも、これくらいの威力じゃ、ボクの心は壊れない」
「なら、喰らいやがれっ!」
少年神官が叫び、その瞬間、ボクの足元の石床から黒い奔流が吹き出した。
それは、闇。破壊を司る力にさらされ、身体中に激痛が駆け巡る。
しかし、それだけだった。
「闇を使う神官ってのも珍しいけど、闇に壊されない身体のほうがもっと珍しいでしょ。
多少は痛いけど、死ぬほどじゃない。
ボクを甘く見るな」
「そ、そんな……」
渾身の術を難なく耐えられ、少年神官は、圧倒的な力の差に膝を落とした。
「だあああぁぁぁっ!」
勇者が立ち上がり、ボクに向かって剣を振り下ろす。
ぎぃむ!
ボクは、その斬撃を素手に纏った黒い歪みの盾で防いだ。
「さすが神剣だ。
歪みを取り込んでなかったら、その斬撃、こんなに簡単に防げなかったよ」
「くそぉ! バカにするなっ!
僕たちは、お前を倒すんだぁっ!」
勇者が吼え、その声に我に返ったのか、少年神官とエルフの魔女が呪文を唱え始める。
「うおおおぉぉぉぉっ!」
ぎぎぎぎぎぃうぃぃっ!
全身から闘気をみなぎらせ、勇者の振るう神の加護を宿らせた剣が、ボクの身の内から滲み出た歪みが黒い盾とぶつかり、軋んだ音が響く。
ボクと勇者の力が火花を散らす中、二人が唱え終わった魔法を解き放つ。
「灼き尽くせいっ! 銀の炎ぉ!」
エルフの魔女の声が響き、ボクの身体を白銀に輝く炎が包み込んだ。
「くぅぅっ!」
精霊たちの王、創造神の力を借りた肉体と精神を灼熱の炎で焼き尽くす魔法がボクを苦しめる。
「百億の恐怖! 千億の絶望!
魔弾よ! 喰らうすべてを誘う冥府への標となれぇ!」
叫ぶ少年神官のかざした両手から、無数の漆黒の弾丸が放たれ、次々にボクの身体にめり込んだ。
「があああぁぁぁっ!」
ドズドズと鈍い音が突き刺さり、闇司る破壊神の力に、ボクは、絶叫を上げる。
その苦痛に、勇者の剣の力と激しく拮抗していたボクの手の黒い盾が揺らいだ。
勇者は、その隙を見逃さず、剣でボクの手を黒い盾ごと弾くと、返す刀で、ボクの腹を深く薙いだ。
「ぎゃあうっ!」
自分でも耳を覆いたくなるような声を上げ、ボクは、銀の炎に焼かれたまま、後ろへ吹っ飛ぶ。
二度、三度、背中を硬い石床に叩きつけ、ボクは、床に倒れ伏す。
「闇よ! 闇よ! 闇よぉぉぉぉっ!」
少年神官が法力の限界以上の力を振り絞り、闇の弾丸をボクに放つ。
「手を緩めるでない! 止めじゃ!」
銀炎の威力をさらに上げつつ、エルフの魔女が勇者に向かって叫ぶ。
「おおぉっ!
滅びろ! 魔王ぉぉぉぉっ!」
勇者が咆哮とともに神剣を振り上げ、ボクに向かって駆ける。
しかし、銀炎も、魔弾も、そして、神剣もボクには届かなかった。
ボクは、無造作に身を起こし、意識しただけで心身を焼く銀炎を振り払った。
そして、宙を飛ぶ魔弾を一瞥で消し去ると、眼前に迫った勇者が剣を振り下ろす前にその顎を爪先で蹴り上げる。
「ごふぉ! ぐおっ!」
勇者の身体が宙を回転し、ボクは、右の正拳を放ち、その背を殴りつける。
鍛えられた少年の身体が吹っ飛び、壁にひびが入るほど叩きつけられる。
少年神官が勇者に駆け寄り、傷ついた彼に治癒の魔法を唱え、エルフの魔女が彼らをかばい、ボクの前に立ちはだかる。
「今のはいい攻撃だったね。
でも、ただ痛いだけ。
まだ、足りない。全然足りないね」
「おのれ……こ、このバケモノがっ」
最強の魔法の一つをボクに耐えられ、エルフの魔女が呻くように呟く。
「バケモノ、ね。
なんで、ボクがバケモノかなぁ?」
「異形を操り、世界を危機に陥れる!
そして、何をしても倒れぬ! これをバケモノと言わずなんと言う!」
「だから何?」
激昂するエルフの魔女の言いように、ボクは、冷たい声を返す。
「旅をしてきて、キミたちは、異形の正体が心の生み出した歪みだってことを知ったはずだ」
ボクは、右手に歪みの具現した黒い塊を生み出し、彼らに見せつける。
それから発せられる気配に、エルフの魔女は、その綺麗な顔をしかめる
「これは、負の想念。怒り、憎しみ、悲しみ、恨み、妬み……
心が自分のものだと認めたくない暗く重い感情の塊だ。
受け入れられない歪みは、蓄積され、やがて溢れ出し、自らを生み出したものを喰らう。
歪みに完全に蝕まれたものが異形だ。
そして、完全に異形と化したものは、居場所を求め、世界を蝕み始め、放っておけば、この地上のすべてが異形と化す」
「それを阻止するために俺たちは戦ってんだ!
元凶であるてめえをなぁっ!」
勇者の治癒を終えた少年神官がボクに向かって吼えた。
「違うね。元凶は、ボクじゃない。
言ったはずだよ。歪みは、心が生み出した負の想念だって。
つまり、元凶は、キミたち自身だ。
世界中の心から吐き出され、けして受け入れられることのない負の想念。
それが歪みの、異形の正体。
キミたちは、自分たちが吐き出したもので滅びようとしているだけだ」
勇者たちは、言葉を詰まらせる。
おそらく、この旅の中でそのことに気付いていたんだろう。
「魔王よ!
元凶が心の歪みであることを知っているなら、なぜ、それを止めようとしない!
それどころか、異形を操り、人々を襲わせるんだ!」
支えようとする少年神官の手を制し、勇者は、よろよろと傷ついた身体を起こした。
「言ったところで、無駄だからだよ。
自分で認めたくない心の歪みを吐き出しといて、他人に諭されただけで、受け入れられるほど、みんな、ご立派な生き物なの?
ボクが最初に現れた街は、繁栄はしていたけど、心の荒廃は、凄まじかった。
ボクは、それに呼ばれたんだ。
心の歪みの嘆きに。
受け入れてもらえないものの悲痛にね」
手の中の歪みの塊をボクは、胸に当て、身の内に戻す。
暗く重い心の叫びに貪られる痛みがボクを襲う。
「でも、こうも考えられる。
世界を生きようとするキミたちも、世界を蝕もうとする歪みも、この世界が生み出したものだ。
だから、これは、この世界が自分で滅びようとしているだけなんだ、ってね」
「ふざけるなっ!」
勇者が怒りの声を上げる。
「世界が滅びるのを望んでいるだけだと。
そんなことがあって堪るか!
この世界は、生きようとする意志であふれているんだ!
それが僕たちをここまで導いてくれた!
だから、世界が、みんなが生きようとしている自分自身を裏切るはずがない!」
「そう。それも事実だ。
ただ、それだけが世界の意志じゃないってことだよ。
生きる意志に溢れたキミたちと違い、歪みは、滅びを望んでいるんだ」
「だから、世界ごと滅ぼそうってえのか!
そんなのに巻き込まれてたまっか!
死にてえなら、てめえらだけで死にやがれ!」
「それができるんなら、こんなことはしないっ!」
少年神官の言葉に、ボクは、怒りに任せて声を上げる。
今まで静かに話していたボクの激昂に勇者たちが目を見開く。
「自分を生み出した心にさえ見捨てられ、吐き出され、行き場のない歪みに何ができるって言うんだ!
どう足掻こうと受け入れてもらえないものに自分で死ねって言うの?
寂しいんだ! 苦しく、悲しく、寒くて……望んでもらいたくって……でも、誰も望んでくれない……だから、一緒になりたくって……蝕んでしまうんだ……」
「おぬしは……いったい……」
他の二人より永く生きるエルフの魔女がボクの言葉から何かを感じ取ったのか怖々と口を開く。
だけど、その問いに答えるわけにはいかない。
だから、嘘をつく。
「ボクは魔王だ。
救われない、望まれない、選ばれないすべての嘆きの心に呼ばれた世界の正統なる破壊者」
泣きそうになるのを必死で堪える。
「恥知らずにも生きようとする浅ましきものたちよ」
ボクの向ける闘気に勇者たちは身構える。
「生きたいんなら、その意志を示してみせろ!」
ボクは、叫び、駆け出す。
「く、くらいやあっ!」
立ちはだかったエルフの魔女が両手に生み出した銀色に輝く魔力の刃でボクの胸を突き刺す。
銀光が心を貫いても、ボクを殺すには力が足りず、ボクは、エルフの魔女を横に薙ぎに蹴り飛ばす。
「きゃあっ!」
吹っ飛ぶエルフの魔女を横目に、ボクは、右手に気を込めて、少年神官へ身を躍らせる。
「させるかよぉっ!」
両手を前に突き出し、少年神官が闇の力を用いた魔力障壁を作り出す。
「ぬるい」
短く言い捨て、ボクは、気を込めた右手で障壁を殴りつける。
ぴぎぃんっ!
乾いた音とともに闇の壁は打ち砕かれ、ボクは、その向こうの少年神官を裏拳で殴り飛ばす。
「ぐあっ!」
小柄な身体が悲鳴とともに視界から消え、ボクは、勇者に拳を放つ。
がぎぃっ!
「だあぁっ!」
剣の腹で拳を防ぎ、勇者は、爪先でボクの腹を蹴り上げる。
「ぐふぉ!」
ドズッと重い音がめり込んで息がつまり、ボクの身体が宙に浮く。
「ぃやあっ!」
勇者は、鋭い突きを放つ。
神剣の切っ先がボクの胸に突き刺さる寸前、黒い歪みが盾になってそれを防ぐ。
なおも神剣を突き出す勇者をボクは、宙に浮いたまま、防ぐ。
「二人とも!
神器だ! 急げっ!」
勇者の厳しい声に、左右に倒れていた二人が立ち上がる。
「闇の鏡よ!」
少年神官が戦法衣の懐から取り出した漆黒の鏡をボクに向ける。
「精霊の宝珠よ!」
エルフの魔女がその手に銀黄蒼紅翠金の六色に輝く宝珠をかざす。
それは、闇司る破壊神の力を凝縮した鏡と精霊たちの王である創造神の力を凝縮した宝珠。
ボクが神剣とともに用意した神器。
「光の剣よ!」
勇者が叫び、手にした光司る調和神の力を凝縮した神剣が白く輝く。
ボクがボクを殺すために作り出した神器。
だが、足りない。ボクを殺すにはあと一つが必要なのだ。
ばぢゅぢぃぢゅぃんっ!
神器とボクの力が激しくぶつかり合い、互いに打ち消し合い、凄まじいエネルギーが弾ける。
ボクのすべてを消し去るには、彼らも、ボク自身も全力を尽くさなくてはならない。
しかし、このままでは、先に力尽きるのは勇者たちのほうだ。
でも、力を抜くわけにはいかない。
そのとき、最後の一つが現れた。
神剣を握る勇者の手の上にもう一つ手が重ねられる。
驚いた勇者が顔を後ろに向けると、そこには黒鋼の鎧に身を包んだ長い金髪の美しい少女がいた。
「く、黒騎士っ!?」
「気を散らさないで! 魔王を倒すのでしょう!」
「あ、ああっ!」
自分と同じ年頃の少女に叱咤され、勇者は、闘気を神剣に叩き込む。
「う、裏切るかぁっ! 黒騎士ぃっ!」
叫ぶボクに黒騎士は憎しみの目を向ける。
「黙りなさいっ!
今まで、私を操ってきたあなたに言われる筋合いはありません!」
黒騎士が叫び、凛々しい少女の顔で険しくボクを睨み付ける。
「本来、私も勇者として魔王を討つ力を授かった者として生きるはずでした。
それに気付いたあなたは、生まれたばかりの私をさらい、自分の手足として使い、さらには同じ力を持つ者での同士討ちを謀った!
操られていたとはいえ、魔王の手先として行ってきた私の罪が許されるわけではありません。
しかし、あなたを倒すのが私本来の使命!
今は、あなたを倒し、世界を救うためにこの命を賭けます!」
彼女の生きる意志に溢れた瞳に、ボクは、微笑みそうになる顔を抑える。
彼女を見つけたのは、ボクが最初に現れた都市だった。
混乱の中、生まれたばかりの赤ちゃんがいた。
ボクは、その子がボクを倒す力を持つものだということが分かった。
この子は、歪みに蝕まれることはない。
しかし、このままにしておいては、異形に壊滅させられた都市の生き残りとして、他の人間たちに迫害を受けるかもしれないと考え、ボクは、彼女を城へと保護した。
彼女を操り、国々を襲わせたのは事実だ。
ボクを倒す力をつけてもらうために。
旅を続ける勇者たちと何度も戦わせたのは、同じ力を持つもの同士の共鳴を引き起こさせるため。
この城に突入した勇者との一騎打ちに破れたとき、本来の使命に目覚めるように咒を施し、彼女は、ボクがさせてきた罪の意識に打ち勝ち、今、立ち上がってくれた。
光の剣。
精霊の宝珠。
闇の鏡。
陰と陽の勇者。
すべては揃った。
『うおおおおぉぉぉぉぉっ!』
勇者と黒騎士が叫び、神剣に込められた闘気が膨れ上がり、ボクを守る歪みの盾を消滅させ、ボクの胸を貫いた。
『はああああぁぁぁぁぁぁっ!』
二人は、叫び、ボクを刺し貫いたまま、床を蹴り、広間を駆け、奥の玉座にボクを縫い止めた。
「ぎぃっ……ぎゃぐあぁぁぁっ!」
肉を抉る鉄の感触が硬く、貫かれた胸が灼熱の痛みを発し、神剣から放たれる光の力が全身を駆け抜け、その傷口から精霊たちと闇の力がボクの身体に苦痛を与える。
「僕は……僕たちは生きるんだあぁぁぁぁぁぁっ!」
勇者が吼える。
その瞬間、城の上空を覆っていた暗雲が一瞬にして消え去り、青空と太陽の輝きがボクたちを照らした。
青空の全天から幾筋もの金色の光の帯が集い、勇者たちに降り注いだ。
それは、世界中から集められた生きる意志の具現したものだった。
蓄積された歪みが具現するのなら、それと対極となる心が生きようとする意志も同じこと。
世界が自分自身を救うために生み出した少年と少女、そして、光と闇と精霊たちの力に呼応して、今、それが形となって勇者たちを祝福しているのだ。
世界中のすべてが生きようとする意志のみこそが歪みを消し去る。
それは、ボクとボクの身の内の歪みたちも同じだ。
受け入れてもらえない苦しみに歪みたちは、世界を蝕もうとする。
しかし、本当の願いは、世界に、自分たちを生み出した心に受け入れてもらうこと。
世界は、みんなは、この世界で生きることを望む。
ボクは、ボクたちは、この世界が生きることを望む。
いつの日か、ボクたちが受け入れられるのを願って。
ボクは祈る。
神様に。
ボクとは、けっして顔を合わせることのない天上のあの方に。
かみさま。かみさま。みんなをたすけてください。
みんな、こんなにいきようとしています。
みんな、とてもがんばっているんです。
かみさま。かみさま。おねがいします。
みんな、あなたのいとしいこどもたちです。
ボクのなかにあるゆがみでさえ、あなたのこどもです。
かみさま。かみさま。おねがい、みんなを。
かみさまっ!
直上の天から一筋の金の光が勇者と黒騎士の握る神剣に降り注いだ。
『だぁああぁぁぁぁぁぁぁっ!
やあぁっ!』
ばぢゅぅふぅんっ!
金の光が、生きようとする強い意志がボクを貫き、閃光が弾ける。
二人の手で神剣がボクの胸から抜かれる。
身体が崩れるように黒絹の張られた大きな玉座に座る。
すでに痛みはない。
身体も、心も、最早、痛みを感じない。
身の内に抱えていた歪みが消えていくのを感じる。
荒い息でボクを見下ろす勇者と黒騎士、少年神官とエルフの魔女を見回し、自然に顔が微笑みを浮かべる。
これで終わる。
「何がおかしいっ」
ボクの笑みを見て、勇者が怒りのこもった声をぶつけてくる。
ボクは、また嘘をつく
「こ、これで……終わりじゃない」
上手くしゃべることができない。
「この……この世界に、ある……すべての、ものが……心の、歪みを……う、受け入れられない、限り……ボクは、何度でも……何度でも呼び起こ、されるんだ……」
わざと作った意地悪な笑みで四人を見回し、ボクは言う。
「この世界が、滅びない、限り……この……この戦いは、終わらないんだ!」
「そんなことはない。
お前も見ただろう?
最後に僕たちを助けてくれたこの世界の生きようとする強い意志を。
世界は、希望に満ちているんだ。
きっと、いつか、心の歪みだって受け入れられるようになる。
僕たちがそんな世界にしてみせる」
自分に言い聞かせるように言いながら、勇者は、黒騎士の手を強く握った。
「お前を目覚めさせはしない。
絶対に!」
強い勇者の言葉に、ボクは、心の中で呟く。
そうであることを願うよ。
もうボクを起こさないで。
もう二度と……
身体が徐々に崩れだし、自然と、涙が零れる。
一度、出てしまうと、もう止めることはできない。
でも、泣けた。
最後に泣くことができた。
今生で初めて、ほっと、少し幸せを感じて、ボクは、消えた。
4.
魔王によって滅亡の危機に瀕していた世界は、勇者とその仲間たちの手によって救われた。
少年神官は、その功績を認められ、若くしてすべての神殿の長である神官長となり、その類のない行動力で自ら人々に正しき道を広めた。
エルフの魔女は、人の世に触れたことを、森の民だけ出なく、他の種族にも広め、異種族間との理解にその永い一生を費やした。
魔王によって操られていたもう一人の勇者である黒騎士は、その罪を命で償おうとしたが、勇者は、それを許し、その伴侶として向かえられた。
人々は、勇者の王位を望み、各国の王たちもそれを認め、勇者は、王の中の王として世界を一つに治めた。
勇者たちと魔王の死闘が繰り広げられた廃城。
広間のその奥の玉座に魔王の身体が白い灰となって残っていた。
一陣の風が吹き、白い灰が空にさらわれていく。
風に吹かれた灰の中から小さな珠が現れた。
それは、緑や青、白、そして茶色が入り乱れた模様を浮かべ、太陽の光で静かに輝いていた。
それこそ、魔王としか名を呼ばれなかった幼い少年の魂だった。
ところどころに白い灰の欠片が残る黒絹の玉座の上で輝く姿。
それは、まるで、星の海に浮かぶこの星、地球のように見えた。
―了―