Nobody
極天大学、天才学部。
四年生の大学で、生徒総数は百人に満たない、という以上の情報は公開されていない。
入学の門は日本一の狭さと言われているが、それは受験倍率とか、入試難易度とかそう言う問題ではない。
そもそも、この大学には入学試験なんてものが存在していなかった。
入学式に参列する生徒は、すべて推薦入学生だ……まあ、噂によると、生徒は入学式に基本出席しないらしい。かく言う僕もそうであった。理由は単純。これは断言してもいいが、全員サボリだ。もしかしたら、偶然その日に風邪を引いたりする奴もいるかもしれないが、それは、サボる予定の日にたまたま風邪を引いただけであって、だから出席には一パーセントも関係ない。無相関だ。
だいたい、この学校は、天才という社会不適合者の捌け口みたいな場所なのだから、真面目に入学式なんかに出席する奴がいるわけがない。
その事に文句を言う大人もいない。
これは才能の有効活用だ。
一般人にどこまでも劣る役立たずの天才たちに、協調も順応も必要ない環境で、せめてその能力を社会に生かさせようという、リサイクルみたいな考え方だ。役に立つ部分だけを集めて使う。僕らに人間関係をどうこうする必要はない。一般性を持たない資源をふるいに掛け、フィルターを通し、粉砕して選りすぐって、使える部分だけを使う。再生資源。
極天大学天才学部とはそう言うところだ。
実のところ、大学内でも生徒をいろいろなタイプに分けることができる。二極化すると、能力のある天才と、ない天才だ。
能力のある天才は、スポーツや芸術の世界、つまりは表舞台で活躍する奴もいる。
しかし。
僕みたいに、何で入学させられたのかよくわからない奴も、時々いた。
僕としては、天才の引き立て役に集められた真の社会不適合者こそが、僕のような奴なのではと、疑惑を抱いているが。まあ、どういう理由で集められたのか、誰も説明してはくれないので、下手すると卒業まで自分が何者なのかわからないままで終わる可能性もある。
なので、せめて何か生産性のある事をしようと、僕は割と真面目に講義に出席しているのだった。
が、意外なことに、この大学。割と出席率が高い。入学式の惨状を思えば、教壇の上で閑古鳥が鳴いている妄想がはかどるというものだが。彼ら彼女らは、天才なので、余裕に満ちたライフを送っているらしい。
そして余裕がありすぎて、常識がなさすぎて、才能が有り余って突拍子の無い性格の異常空間なので、突然一枚のチケットを突きつけられて。
「これ、ウチおどるからカンゲキしにきてなぁあ」
とか言われたりする。
僕はというと。おやおやこれはデートの誘いかな、と浮かれるフリをしようとしてやめて、彼女の目を睨み返すように。
「いや、僕日舞なんか知らねえし、やだよ」
「その割には、このチケット見ただけでよう日舞ってわかったねぇえ」
「閉鎖的な大学だからね。木枯惠美円っていう天才舞踊家がいることくらいは知ってるよ。まあ、ここには天才しかいないけど」
「でも、ウチはきみを知らんねぇえ」
「そうそう、僕は目立たない事にかけては天才的なんだ」
「ほう、そんな天才もここにはおるんか」
木枯さんは感心したようにうなずく。
冗談だよ。
……。
「ま。僕は日舞には暗いから、もっと見方を知ってるヒトを誘うといいよ」
あれあれまあまあ。と大胆にあきれてみせて彼女はいう。
「やっぱり天才っていうのは、みんな愚かな馬鹿者なのかぁね。ものの見方なんて知っていてもつまらないものよぉ。ほんとうの日本舞踊というものはぁね、無知な方こそ見るべきよ」
楽しんで。
そのひと言と、一枚のチケットを残して、彼女は桜の花のようにゆらりと立ち去った。
純粋にというべきか、不純にというべきか。そもそもどういう感情を純粋とか純粋じゃないとか区別しているのかまるでわからないし、そんなことを言っているから天才扱いなんてされてしまうのかもしれないが。要するにシンプルな理由として、天才の天才性を見てみたいという理由で、僕は人生初の日本舞踊を観劇しに来た。
普段から天才の天才性については嫌ってほど目の当たりにしているし、もうほんとに見てられないという感じで嫌なのだけど。しかし、しかしだ。天才が、その能力を本気で、自分の洗練した分野に充てて体現する姿というのは、なかなか見る機会がない。何しろ、ドイツもコイツも協調性の十の字も無いからな。まとまりとか興味とかは基本的に無い奴が多い。
そんな中で、今回のような誘いがあるのは珍しかった。
じゃあどうして僕にこのような誘いが来たのかというと、ネタは単純で、木枯さんは、あったそばから手当たり次第チケットを大盤振る舞いしていたらしい。ほんとに、ティッシュ配りのおねーさんにその図太さがあったらどれだけ仕事がはかどるんだろうな。
ということで、会場の中は、極天大学の講義で見る顔ぶれが、結構な数占めていて、おまけにみんな寝ていた。
ありえねーだろ。という他の観客たちの心の声がうるさいほど聞こえてきた。もしかしたら僕には読心の才能があるのかも、とかくだらない妄想をしてみたが本当にくだらなすぎてなんか恥ずかしくなった。あぁあ、僕にも恥ずかしいとかいう感情があったんだなぁ。こりゃ収穫だ。日舞を見に来た甲斐があるってものだよ。とは決して思えない。
演目が半分ほど終わった頃。僕はなぜか怒りに似た感情を抱いていた。もちろん、日本の伝統芸能の発表の場で、何堂々と寝てんだこいつら。という怒りではない。演目のあまりのつまらなさ、退屈さ、意味の不明さ、眠さ、そいういうものに、怒りすら感じていたのだった。
僕もそれなりに学はあるので、はじめは「日舞ってこういう体の使い方をするんだぁ、もっとこうすればいいのに」とか「あの動作と道具の関係性はもしかしてこんな感じか」と推察をしてみたりしたけれど。途中で気付いたのだ。
こんな見方が、本来的な日本舞踊の見方であるはずがない。
なぜなら、一般人にはこんな偏屈な見方はできないはずだからだ。
だが、しかし。だけど。ほんとにでも。だというなら、どうやってこの舞台を見ればいいのだ。
木枯惠美円という天才は、確かに僕に「楽しんで」と言ったのだ。
あんな短い会話の内容だ、一言だって忘れるはずもない。
しかし、なんなのだ。
楽しむってどいうやって。
そもそも、ここに自分の意志と足で来た人間たちは、何のためにこれを見に来ているというのだ。
舞踊家は何のために踊る。
もしかしたら、そう言う理由の部分を一般人は気にしないのかもしれないけれど。こうして伝統として受け継がれて来たからには、この文化にはそれだけの価値と意味がどこかにあるはずなのだ。
だけど、それが全く見えてこない。
日本舞踊を発明した昔の日本人は、いったい何を思ってこの文化を作り上げていったのか。
僕は、日舞の講演だと知って、聞いてここに来てこうして舞台を見ているからこれを日舞だと思っているけれど、もし、これはヒトの眠気を誘うための呪いのダンスだと言われていれば、そう信じたかもしれない。
それほどに退屈なものだった。
こんな事なら、事前に木枯さんがでる時間を確認してその時間だけ見に来て、出番が終わったら一緒に退場すればよかった。
あぁあ。全く、なんだかこんな気持ちで木枯さんの踊りを観劇するのも申し訳ないなあ。
僕がそうしてうだうだうだうだと、いっそうしばらく寝ていようかと考えている時だった。
雪のような衣装の女性があらわれ、目覚まし時計のように不意に騒々しさが空間を包んだ。
僕はその時舞台に上がったのが木枯惠美円だと察した。
どうやら、天才と侮蔑されているだけあって、ずいぶんな人気者らしい。
天才なんかの何がいいんだか。
と、皮肉っぽく思ってみたが、そんな僕もその天才を見に来たひとりだった。
彼女が踊ったのは三十分ほどの長い演目だった。
相変わらず、所作ひとつひとつの文化的意味は分かりかねる。
だけど、僕は彼女から目が離せなくなっていた。
眠気。なんだそれは。何だっけ、どこに行ってしまったんだ眠気さん。
さっきまであんなに寄り添っていたのに。
僕の目には、今、ひとりの舞踊家だけが映っていた。
日舞にどんな意味があるのか。
なんでヒトはこんなものを見に来るのか。
さっきまでは本気の本気でそれがわからなかったし、木枯惠美円の踊りを見て、それは当然の感想だったと思う。
いま、ぼくが、みている、これが。
日本舞踊の本来の姿で、本当の価値だ。
そのことに脳が理解を示した。
同級の彼女。
ただの天才。
舞踊家、木枯惠美円。
彼女の踊りは。
圧倒的に美しい。
思えば僕は、自分の人生で魅力的な女性というものを見たことがなかったのだ。
と、いままで出会ったあらゆる女性を一瞬で敵に回すような事を考えてしまった。
もちろんそれは言い過ぎだ。
何でもかんでも一と〇だけで世界ができているわけじゃない。
だけど、舞台の上の彼女の、圧倒的で空前絶後とも言える女性の魅力のを前にしてしまっては、自然とそれ以外の数値を〇に近似してしまった僕の脳味噌のことも許してやってほしい。
おかげで僕は、日本舞踊に理解を示すことができたのだから。
そうだ。日本舞踊の根源的で本来的で、本質的な意味。
それは多分。
「魅力的な女性が踊りを踊っていたら、それはお金を払ってでもみるべきだね」
「ねぇえ、だから言ったでしょ。無知なヒトが見るべきだってぇえ」
「いや、僕らと同じ感動を、誰もができるとは思いづらいけどね」
大学の校舎で再会した木枯さんは、やっぱり極底辺な天才でしかなかった。踊りに対してあんなに僕は惚れたのに。
やはり、あの空前絶後の魅力は、舞台の上にしか無いらしい。
何とも悲しい話だ。
僕にとってはウィリアム・シェイクスピアの四大悲劇よりもよっぽど直面して悲しい。
悲しいついでに、もうひとつ悲しい事実に僕は気付いていた。
それは、日舞の価値に気付いたと同時に、もう日舞がほとんど絶滅した文化だと気付いてしまったことだ。
あの日。
結局僕はすべての舞台が終わるまで劇場にいたが、あの中で、本質的な意味で日本舞踊を体現しているのは、木枯惠美円ただひとりだった。彼女の踊りを日本舞踊というなら、他のものはすべて日本舞踊ではなかった。
何者でもない。
それこそ、眠気を誘う呪いのダンスの方がまだ近いとさえ思える。
いや、別に僕は現代の舞踊家を馬鹿にしたいわけでは無いのだ。むしろ真逆だ。応援したい。なぜ天才なんかにできる事を一般人ができないのだ。できないはずがない。なぜなら天才はあまりにも欠陥製品なのだから。努力をしろよ。
僕はあの美しい踊りをもっと見たい。
こんな風に廃れていくべき文化じゃない。
だから、高尚なる一般人たちよ、どうかちゃんと努力をしてくれよ。
「君はずいぶんと天才を卑屈にとらえるねぇえ」
「木枯さんは違うのかい」
「ぜんぜん違うね」
ぜんぜん違うのか。いや、天才となんか意見が合うとは思っていないけれど。
「天才って言うのは、ひとつの称号みたいなものだよ」
金メダルとか、MVPとか、ノーベル賞とかと同じさぁあ。
と言われてもよくわからない。
「つまり、何者かになった人間だけが天才と呼ばれるんだよ」
「何者かって?」
「さぁあね。それはそれぞれ、ウチでいったら、日本舞踊家」
そいじゃぁねぇえ。
と、気まぐれにもほどがあるタイミングで彼女はゆらりふらりと歩き去ってしまった。
話すべき事は話した、ということなのだろうか。
もともと、話すべき事なんて概念が彼女にあったのかはわからないけれど。
「何者かに、なる」
僕はいったい何者なのだろう。
彼女の天才の定義は、少し難解だ。
でも、確かに理解できる事もある。
木枯惠美円は、日本舞踊家だ。
それだけが、たったひとつ理解しておくべき、この一連の出来事の読み解き方だろう。