大人の若者批判について
駄文です
大人の若者批判について応える為にはまず若者のどのような点を大人が批判しているか定義するべきだろう。例えば2013年9月に書かれた日経BP netの記事によれば「夢がない」、「内向的だ」と言われている。少し古いが2007年荒井千暁著「勝手に絶望する若者たち」では「夢は持っているが現実とのギャップに苦しみ、すぐに諦めてしまう」などと語られている。調べていれば他にも多くの批判はあるが、今回はどの文献でも多々見受けられた上記の「確固とした夢がない」という点として話を進める。
絶対に叶えたいという確固とした夢がない。霞のような曖昧な夢は持っていたとしても、だ。こうなってしまう原因はおそらく没個性化にあるだろう。他人と一緒でないと生きにくい世の中であるから、我が大きく出る夢など持てないのではないだろうか。そうとするならばきちんと生きていくために若者は夢を持つ為に独立独歩するべきなのか。否それは違うだろう。ただ普通にそれなりの生活をおくる為ならばそもそも夢など必要ない。他と同じように動こうとするのならば、その指向をきちんと誘導さえすれば何の問題もない。あまり我を強く出さないのだ、手段さえ間違わなければいい。
夢など無くていい、我など必要ないと先ほど述べた。しかしそれは本当にそれでいいのだろうか。誰も彼も同じように生きている社会に進展はあるのだろうか。それでも事を荒立てるよりは、と思うのは日本人であるのなら可笑しい事ではない。かの大竹文雄が言っていたことだが日本は競争という言葉に拒否反応が強い。誰かと争うことを良しとしない傾向があるのだろう。そして自分を貫くということは誰かの意見と違えることである。いじめ問題などからわかるように我を通すにはあまりにも厳しい世界だ。しかしこのまま誰もが同じ人物かのように同じことをするだけではこの国は進展せず相対的に衰退していくだろう。大人達はなんとなくそれを感じているから若者達に夢を持つように要求してくるのではないだろうか。
ただ緩慢に何事も起きない穏やかな人生を送りたいのであれば、「夢を持て」などという大人の戯言など無視してしまえばいいだろう。しかし進展のない国の未来を憂うなら夢をもって挑んでみることもいいかもしれない
「大人の若者批判に応えて」をテーマにレポートかけと言われて寝ぼけて書いた結果がこれである。字数満たしてないわレポートになってないわのないない尽くしという。二時間を只々浪費したと思うと嫌になったので恥晒しとわかっているけど晒した。反省はしていない。後悔はきっとする。
…レポートの書き方が、わからない。