表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
朱鷺の夢  作者: 藤原建武
止風域、蓮華座に見る夢
7/8

(2)


 本当に欲しかったものは何だったろうか。

 自分は何なのか、何がしたかったのか。

 そんな取り留めもないことを思って、二万人の観客、あるいは撮影のカメラを前にするたび、恍惚を覚えた。

 あの場所に帰ってきたのだと。そしてあの頃以上に、光を一身に浴びている。

 それはかつて、洋子が渇望したものだ。その願いは叶った。

 だが洋子が求める以上に、洋子は求められた。次々に、有名な作曲家や、果ては政治家とも。

 「佑月カンナ」は考えない。指示に従うだけ。だから優秀だった。

 心が壊れそうなたび、野中が洋子を抱いた。

 もう何も考えたくなかった。無感でいなければ、耐えられない。

 野中は力強く抱いてくれる。そして洋子の代わりに傷ついて、涙を流してくれた。

「俺は、自分の非力さが悔しい。何も話してくれなくていい。これしか俺に、してあげられないのは分かっている。だけど、なんでだろ。悔しいんだ。洋子が、自分を殺してるのが分かるから」

 洋子は、野中に対して、初めて罪悪感を抱いた。

「ごめんね」

「いいよ」

 それから野中と寝ることはなかった。野中は何も言わない。ただその仏頂面が、少し寂しげだった。

 そんな中、急報がしらされた。

 金澤の訃報だった。



 冬の寒さが厳しい頃。金澤は連日の残業で、クモ膜下出血による急死だった。

 通夜の席、金澤の遺族に挨拶をする。金澤の一人娘は、まだ高校生だった。金澤似の目元と、母親に似た細い顔立ちだった。

 洋子はそこで、久しぶりに寺越に会った。寺越は暗い表情に、無理に笑顔をつくる。

 『cave fish』の全員が揃うのは、二年ぶりだった。そのうちの一人は、もうこの世にいない。それが信じられなかった。

 洋子は泣いた。藤崎らは沈鬱な表情。寺越は遺影を見ると、泣き崩れた。そこで洋子が痛感したのは、自分たち以上に、寺越は金澤と仲間だったのだ。

 今自分が流す涙は、仲間としてのものだろうか。“かつての”ではないのか。親しい間柄の人が亡くなれば、泣くのは当然。

 藤崎は数珠を握りしめ、震えている。

 野中は静かに瞑目していた。

 洋子は藤崎と寺越だけになった『cave fish』のことを思った。三人になってから、あまり活動していないらしい。二人だけになった今、新たにメンバーを加えるのだろうか。それとも解散してしまうのか。

 四人は近くのホテルに泊まり、二人ずつ部屋をとった。

「これからどうするの?」

 『cave fish』のことだった。藤崎は苦笑し、

「さぁ」

 と肩をすくめる。その姿が、今にも消え入りそうで、洋子は抱きしめた。後ろから回した手を、藤崎は握る。

「最近は、他のバンドの助っ人をやってるんだ。寺越は引っ張りだこでな。どこかに拾ってもらえるだろう」

「弘海は?」

「俺は……」

 言葉に詰まる。

「そうだな……」

 とつぶやき、洋子の手から離れる。

「とりあえず風呂に入ってくる」

「うん」

 藤崎は、微笑みとも苦笑ともつかない表情で、

「疲れたよ」

 そう言って、ネクタイをほどく。



 鏡の中の「佑月カンナ」が笑う。

 洋子はカンナと遊んだ。怒った顔、困った顔。すぐにカンナは笑う。カンナの目の中に、洋子がいた。

 それに気づいた洋子は泣いた。

 自分がしたかったことと、本当に幸せなことは、必ずしも一致しない。

 幸福な日々といえるのなら、それは『cave fish』にいた頃だ。

 藤崎がいた、寺越がいた。金澤も。そして野中だっていた。

 人は“成功”だと誉めそやしても、それが幸福だとは思えない。

 栄光も、賞賛もいらない。あの幸せだった日々に帰りたい。

 野中はどう思っているだろうか。ずっと一緒にいて、気むずかしい表情も、だいぶ読み取れるようになった。だから野中も同じ気持ちの気がした。

 洋子は居酒屋に野中を誘った。

 少し会わないうちに、やつれていた気がした。野中は笑う。

「ひでぇ顔」

「えっ?」

 そこで洋子も、自分も同じような顔をしていることに気づく。二人は笑い合った。

 何杯めかの水割りを空けた時、洋子は切り出す。

「もう一度、ジャズがやりたい」

 野中は微笑む。

「いいんじゃないの。遠回りだったけど、俺もやっと気づいた。俺が俺でいられる場所」

「うん!」

 洋子は笑う。こんなにも心が晴れやかなのは、久しぶりだった。

「今、新曲の構想があるんだけど――」

 いつかのように、野中は熱く語り出す。

 洋子も、もうすでに『cave fish』に戻ったように、打ち合わせをする。

「やっぱり藤崎さんと洋子の、二つのパートだな。寺越さん、腕上げたぜ。この前、演奏見に行ったんだ」

「ひどい! 私も誘ってくれればよかったのに」

「俺も迷ってたんだ。このままでいいのかって。今度は、藤崎さんも誘っていこう」

「違うでしょ?」

「えっ?」

 野中がきょとんとする。

「四人で、音合わせ」

「ああ」

 野中は笑う。

 何杯めの酒を空けただろうか。鼻歌交じりに店を出る。



 野中が洋子の肩を抱いた。

「ちょっと!」

 苦笑しながら野中を見る。野中の表情は冗談でなく、思い詰めたようだった。

「最後に」

 意思のはっきりした声だった。

「これで最後だから。最後だけは、俺のものになってくれ。今日だけは」

 洋子は野中への罪悪感に打たれた。本気で自分のことが好きなのに、その感情を利用した。それが罪滅ぼしになるのなら、初めて意識された藤崎への罪悪感でも、洋子は受け入れた。

 ホテルに入るまで、二人は言葉を交わさなかった。

 野中の手は震えていた。洋子の体も。

 生まれ変わった二人がする、最初で最後の罪だった。



 洋子の引退は、人気の絶頂にあっただけに、様々な憶測が交った。事務所に何度も引き止められたが、洋子と野中は頑として聞き入れなかった。洋子が接待の話を持ち出せば不利な事務所側は、口止めを念押しすることしかできなかった。

 洋子と野中は、藤崎と寺越に声をかけ、あのジャズバーに集まった。

 引退のこともあり、二人は仕事を投げ出して、飛んでやって来た。

「おい、いったいどういうことだよ!」

 開口一番に藤崎が言う。洋子と野中は笑うだけだった。寺越が困惑しつつも、どこか期待した様子で、

「でもどうすんの? 野中、仕事やめたんでしょ?」

「まあ、バイトでもしますかね。今住んでるところを引き払って」

 そこで寺越はわざと、

「まあ洋子さんは、藤崎さん所に住むとして」

 それに洋子は赤面する。藤崎も同様に赤くなっていた。

「じゃあ俺は、寺越さん所に住みますかね」

「おいおい」

 寺越は苦笑する。野中が冗談を言うのは珍しかった。久しぶりの再会に、そして未来に向かって、胸が躍った。

 ただ藤崎は戸惑った様子で、

「だけど、本当によかったのか?」

「もう何を言っても、あとには退けないよ」

「確かに……」

 うなずきつつ、藤崎の表情は明るかった。

 寺越は興奮しながら、

「ていうか、野中と洋子さんが帰ってきて、話題性十分じゃん。今度こそ『cave fish』のメジャーデビューも夢じゃないですよ」

 それに藤崎は、

「俺が足を引っ張らないといいんだけどな……」

「なに言ってるんですか! 今お世話になっているバンドでも、藤崎さんを引き抜こうって話があったんですよ! 金澤さんも入れて、合体しようって……」

 そこで寺越の声は小さくなる。

 野中はぽつりと、

「俺らが再結成したら、金澤さんも喜んでくれますよ。最初に奥さんと娘さんに聞いてもらいましょう」

 それに寺越の表情が明るくなる。

「そうだな! 金澤さんは今でも、フィッシュのメンバーだ! 娘さん、ピアノやってるらしいから、入ってもらおうぜ」

「いいですねそれ」

 四人はひとしきり笑い合う。

 洋子は、やっと自分の幸福が分かった。こうしてみんなと、一緒にいられるのが幸せなんだ。藤崎の笑い顔を見る。無精髭が生えていた。剃って、整えてあげよう。これからずっと。



 それは一枚の写真だった。

 洋子の引退に関する、根拠のない憶測の書かれた、週刊誌の記事だった。

 すぐに話題を呼び、連日報道されることになった。

 そのことを知ったのは、荷造りをしているとき、野中からの電話でだった。

 その写真は洋子と野中が、ホテルに入る瞬間を撮ったもの。洋子は全身から力が抜けるのを感じた。その場にうずくまる。

 電話口で、

「ごめん……」

 野中の謝る声がした。洋子は電話を切る。

 藤崎は、テレビ局にいるだけ、すでに知っているだろう。

 電話をかける指が震えた。そして携帯電話を取りこぼす。押せるわけがない。

 どうすればいいか分からなかった。言い訳を考えた。野中の所為にすればいいんだ。それか何もなかったと言えば。酒に酔っていて、休憩に入ったんだと。

 頭を抱える。髪をかきむしる。嗚咽がもれる。

 すべての罪と後悔が、「秋窪洋子」を揺るがした。



 藤崎の表情は強張っていた。今にも泣き出しそうな目をしている。

 藤崎から来たメールは簡潔だった。

「今から行く」

 引っ越してきた当初のような、洋子の部屋で向かい合う。洋子は藤崎の目を見られなかった。

「違うの、あれは、あの時は、飲みすぎて、危なかったから……」

「野中が悪いのか?」

 洋子は顔を上げる。言い訳を重ね、乗り切る気だった。

「何もなかった! 野中さんは、そんな人じゃない」

「俺も野中のことは、よく知っているよ。あいつはそんな奴じゃない。あいつは俺に謝ってきた。あいつは全部話したよ。お前のことをどう思っていたか。あいつも何もなかったと言っていた」

 洋子は張りついた笑みを浮かべる。

「そうよ! 何もなかったの」

 まだ藤崎の表情は厳しかった。

「俺はずっと気づいてた。お前らのこと」

「何を言ってるの?」

 笑顔の仮面が、崩れていく。

「俺はお前に何もしてやれないから、野中がその代わりになってくれてることに、感謝していた。野中が俺の代わりに、お前を支えてやってることに」

「何を――」

「俺は、弱い……」

 藤崎はうつむき、肩を揺らす。涙がこぼれた。

「俺はそれでも、お前が俺と、一緒にいてくれるならって……」

「私は、弘海が大好きだよ! ずっと一緒だから」

「俺が間違ってた」

 藤崎は意を決し、

「俺たち、別れよう」

「えっ?」

「このままじゃ駄目だ。俺は、お前たちを許せない」

 洋子は凍りつく。藤崎が何を言っているのか分からない。

「いいじゃん。私たち、これからずっと一緒なんだよ? 弘海が嫌なら、もう野中さんと会わない」

「『cave fish』はどうするんだ?」

「諦める。私、弘海と一緒にいられるなら、それでいい。何でもするから。私が家事をするから。そうだ、結婚しよう?」

 藤崎はかすかに笑った。それはすぐに沈み、じっと洋子を見る。そして、

「別れても、俺たちの関係は変わらない。俺はトランペットで、お前はボーカルだ。何も変わらない」

 藤崎は立ち去ろうとする。追いすがろうとする洋子に、

「野中に、優しくしてやってくれ……」

 藤崎の後ろ姿が、夜の闇に消え、扉は重い音を立てて閉じる。

 洋子はその背中を引き留める、どんな言葉も思いつかなかった。そのまま立ち尽くし、ただ空疎な時間だけが流れた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ