(2)
本当に欲しかったものは何だったろうか。
自分は何なのか、何がしたかったのか。
そんな取り留めもないことを思って、二万人の観客、あるいは撮影のカメラを前にするたび、恍惚を覚えた。
あの場所に帰ってきたのだと。そしてあの頃以上に、光を一身に浴びている。
それはかつて、洋子が渇望したものだ。その願いは叶った。
だが洋子が求める以上に、洋子は求められた。次々に、有名な作曲家や、果ては政治家とも。
「佑月カンナ」は考えない。指示に従うだけ。だから優秀だった。
心が壊れそうなたび、野中が洋子を抱いた。
もう何も考えたくなかった。無感でいなければ、耐えられない。
野中は力強く抱いてくれる。そして洋子の代わりに傷ついて、涙を流してくれた。
「俺は、自分の非力さが悔しい。何も話してくれなくていい。これしか俺に、してあげられないのは分かっている。だけど、なんでだろ。悔しいんだ。洋子が、自分を殺してるのが分かるから」
洋子は、野中に対して、初めて罪悪感を抱いた。
「ごめんね」
「いいよ」
それから野中と寝ることはなかった。野中は何も言わない。ただその仏頂面が、少し寂しげだった。
そんな中、急報がしらされた。
金澤の訃報だった。
冬の寒さが厳しい頃。金澤は連日の残業で、クモ膜下出血による急死だった。
通夜の席、金澤の遺族に挨拶をする。金澤の一人娘は、まだ高校生だった。金澤似の目元と、母親に似た細い顔立ちだった。
洋子はそこで、久しぶりに寺越に会った。寺越は暗い表情に、無理に笑顔をつくる。
『cave fish』の全員が揃うのは、二年ぶりだった。そのうちの一人は、もうこの世にいない。それが信じられなかった。
洋子は泣いた。藤崎らは沈鬱な表情。寺越は遺影を見ると、泣き崩れた。そこで洋子が痛感したのは、自分たち以上に、寺越は金澤と仲間だったのだ。
今自分が流す涙は、仲間としてのものだろうか。“かつての”ではないのか。親しい間柄の人が亡くなれば、泣くのは当然。
藤崎は数珠を握りしめ、震えている。
野中は静かに瞑目していた。
洋子は藤崎と寺越だけになった『cave fish』のことを思った。三人になってから、あまり活動していないらしい。二人だけになった今、新たにメンバーを加えるのだろうか。それとも解散してしまうのか。
四人は近くのホテルに泊まり、二人ずつ部屋をとった。
「これからどうするの?」
『cave fish』のことだった。藤崎は苦笑し、
「さぁ」
と肩をすくめる。その姿が、今にも消え入りそうで、洋子は抱きしめた。後ろから回した手を、藤崎は握る。
「最近は、他のバンドの助っ人をやってるんだ。寺越は引っ張りだこでな。どこかに拾ってもらえるだろう」
「弘海は?」
「俺は……」
言葉に詰まる。
「そうだな……」
とつぶやき、洋子の手から離れる。
「とりあえず風呂に入ってくる」
「うん」
藤崎は、微笑みとも苦笑ともつかない表情で、
「疲れたよ」
そう言って、ネクタイをほどく。
鏡の中の「佑月カンナ」が笑う。
洋子はカンナと遊んだ。怒った顔、困った顔。すぐにカンナは笑う。カンナの目の中に、洋子がいた。
それに気づいた洋子は泣いた。
自分がしたかったことと、本当に幸せなことは、必ずしも一致しない。
幸福な日々といえるのなら、それは『cave fish』にいた頃だ。
藤崎がいた、寺越がいた。金澤も。そして野中だっていた。
人は“成功”だと誉めそやしても、それが幸福だとは思えない。
栄光も、賞賛もいらない。あの幸せだった日々に帰りたい。
野中はどう思っているだろうか。ずっと一緒にいて、気むずかしい表情も、だいぶ読み取れるようになった。だから野中も同じ気持ちの気がした。
洋子は居酒屋に野中を誘った。
少し会わないうちに、やつれていた気がした。野中は笑う。
「ひでぇ顔」
「えっ?」
そこで洋子も、自分も同じような顔をしていることに気づく。二人は笑い合った。
何杯めかの水割りを空けた時、洋子は切り出す。
「もう一度、ジャズがやりたい」
野中は微笑む。
「いいんじゃないの。遠回りだったけど、俺もやっと気づいた。俺が俺でいられる場所」
「うん!」
洋子は笑う。こんなにも心が晴れやかなのは、久しぶりだった。
「今、新曲の構想があるんだけど――」
いつかのように、野中は熱く語り出す。
洋子も、もうすでに『cave fish』に戻ったように、打ち合わせをする。
「やっぱり藤崎さんと洋子の、二つのパートだな。寺越さん、腕上げたぜ。この前、演奏見に行ったんだ」
「ひどい! 私も誘ってくれればよかったのに」
「俺も迷ってたんだ。このままでいいのかって。今度は、藤崎さんも誘っていこう」
「違うでしょ?」
「えっ?」
野中がきょとんとする。
「四人で、音合わせ」
「ああ」
野中は笑う。
何杯めの酒を空けただろうか。鼻歌交じりに店を出る。
野中が洋子の肩を抱いた。
「ちょっと!」
苦笑しながら野中を見る。野中の表情は冗談でなく、思い詰めたようだった。
「最後に」
意思のはっきりした声だった。
「これで最後だから。最後だけは、俺のものになってくれ。今日だけは」
洋子は野中への罪悪感に打たれた。本気で自分のことが好きなのに、その感情を利用した。それが罪滅ぼしになるのなら、初めて意識された藤崎への罪悪感でも、洋子は受け入れた。
ホテルに入るまで、二人は言葉を交わさなかった。
野中の手は震えていた。洋子の体も。
生まれ変わった二人がする、最初で最後の罪だった。
洋子の引退は、人気の絶頂にあっただけに、様々な憶測が交った。事務所に何度も引き止められたが、洋子と野中は頑として聞き入れなかった。洋子が接待の話を持ち出せば不利な事務所側は、口止めを念押しすることしかできなかった。
洋子と野中は、藤崎と寺越に声をかけ、あのジャズバーに集まった。
引退のこともあり、二人は仕事を投げ出して、飛んでやって来た。
「おい、いったいどういうことだよ!」
開口一番に藤崎が言う。洋子と野中は笑うだけだった。寺越が困惑しつつも、どこか期待した様子で、
「でもどうすんの? 野中、仕事やめたんでしょ?」
「まあ、バイトでもしますかね。今住んでるところを引き払って」
そこで寺越はわざと、
「まあ洋子さんは、藤崎さん所に住むとして」
それに洋子は赤面する。藤崎も同様に赤くなっていた。
「じゃあ俺は、寺越さん所に住みますかね」
「おいおい」
寺越は苦笑する。野中が冗談を言うのは珍しかった。久しぶりの再会に、そして未来に向かって、胸が躍った。
ただ藤崎は戸惑った様子で、
「だけど、本当によかったのか?」
「もう何を言っても、あとには退けないよ」
「確かに……」
うなずきつつ、藤崎の表情は明るかった。
寺越は興奮しながら、
「ていうか、野中と洋子さんが帰ってきて、話題性十分じゃん。今度こそ『cave fish』のメジャーデビューも夢じゃないですよ」
それに藤崎は、
「俺が足を引っ張らないといいんだけどな……」
「なに言ってるんですか! 今お世話になっているバンドでも、藤崎さんを引き抜こうって話があったんですよ! 金澤さんも入れて、合体しようって……」
そこで寺越の声は小さくなる。
野中はぽつりと、
「俺らが再結成したら、金澤さんも喜んでくれますよ。最初に奥さんと娘さんに聞いてもらいましょう」
それに寺越の表情が明るくなる。
「そうだな! 金澤さんは今でも、フィッシュのメンバーだ! 娘さん、ピアノやってるらしいから、入ってもらおうぜ」
「いいですねそれ」
四人はひとしきり笑い合う。
洋子は、やっと自分の幸福が分かった。こうしてみんなと、一緒にいられるのが幸せなんだ。藤崎の笑い顔を見る。無精髭が生えていた。剃って、整えてあげよう。これからずっと。
それは一枚の写真だった。
洋子の引退に関する、根拠のない憶測の書かれた、週刊誌の記事だった。
すぐに話題を呼び、連日報道されることになった。
そのことを知ったのは、荷造りをしているとき、野中からの電話でだった。
その写真は洋子と野中が、ホテルに入る瞬間を撮ったもの。洋子は全身から力が抜けるのを感じた。その場にうずくまる。
電話口で、
「ごめん……」
野中の謝る声がした。洋子は電話を切る。
藤崎は、テレビ局にいるだけ、すでに知っているだろう。
電話をかける指が震えた。そして携帯電話を取りこぼす。押せるわけがない。
どうすればいいか分からなかった。言い訳を考えた。野中の所為にすればいいんだ。それか何もなかったと言えば。酒に酔っていて、休憩に入ったんだと。
頭を抱える。髪をかきむしる。嗚咽がもれる。
すべての罪と後悔が、「秋窪洋子」を揺るがした。
藤崎の表情は強張っていた。今にも泣き出しそうな目をしている。
藤崎から来たメールは簡潔だった。
「今から行く」
引っ越してきた当初のような、洋子の部屋で向かい合う。洋子は藤崎の目を見られなかった。
「違うの、あれは、あの時は、飲みすぎて、危なかったから……」
「野中が悪いのか?」
洋子は顔を上げる。言い訳を重ね、乗り切る気だった。
「何もなかった! 野中さんは、そんな人じゃない」
「俺も野中のことは、よく知っているよ。あいつはそんな奴じゃない。あいつは俺に謝ってきた。あいつは全部話したよ。お前のことをどう思っていたか。あいつも何もなかったと言っていた」
洋子は張りついた笑みを浮かべる。
「そうよ! 何もなかったの」
まだ藤崎の表情は厳しかった。
「俺はずっと気づいてた。お前らのこと」
「何を言ってるの?」
笑顔の仮面が、崩れていく。
「俺はお前に何もしてやれないから、野中がその代わりになってくれてることに、感謝していた。野中が俺の代わりに、お前を支えてやってることに」
「何を――」
「俺は、弱い……」
藤崎はうつむき、肩を揺らす。涙がこぼれた。
「俺はそれでも、お前が俺と、一緒にいてくれるならって……」
「私は、弘海が大好きだよ! ずっと一緒だから」
「俺が間違ってた」
藤崎は意を決し、
「俺たち、別れよう」
「えっ?」
「このままじゃ駄目だ。俺は、お前たちを許せない」
洋子は凍りつく。藤崎が何を言っているのか分からない。
「いいじゃん。私たち、これからずっと一緒なんだよ? 弘海が嫌なら、もう野中さんと会わない」
「『cave fish』はどうするんだ?」
「諦める。私、弘海と一緒にいられるなら、それでいい。何でもするから。私が家事をするから。そうだ、結婚しよう?」
藤崎はかすかに笑った。それはすぐに沈み、じっと洋子を見る。そして、
「別れても、俺たちの関係は変わらない。俺はトランペットで、お前はボーカルだ。何も変わらない」
藤崎は立ち去ろうとする。追いすがろうとする洋子に、
「野中に、優しくしてやってくれ……」
藤崎の後ろ姿が、夜の闇に消え、扉は重い音を立てて閉じる。
洋子はその背中を引き留める、どんな言葉も思いつかなかった。そのまま立ち尽くし、ただ空疎な時間だけが流れた。