(1)
初週の売り上げは一万枚だった。CDがまったく売れない今の時勢、十分に売れたといえた。半年で見ると、十万枚の成績だった。ダウンロードを含めれば、もっといく。
事務所は洋子を売り出すため、メディアへの露出や、CMなどとのタイアップを推し進めた。アナウンサーであることや、「佑月カンナ」の名前で活動していたことは、大きな話題を呼んだ。
その中、洋子はそれらのスポンサーの接待をした。今さら揺れ動く感情はなかった。しかしそれは精神が破綻しかかっていることの裏返しであり、そのたびに野中の家に行くようになった。
野中は何も言わない。洋子が呼吸する空気として、居場所となってくれた。
「お前、酒全部飲みやがって!」
野中が呆れる。
「いいじゃん、あとでお金払うから」
「いいよ、ボーカル様。お世話になってますから」
「えへへ」
チューハイにハイボールの缶、テーブルに散乱するそれは、野中がコンビニで買ってきたものだった。よく一人酒をやるらしいのだが、五本全部、洋子が一人で飲んだ。
「タバコ吸わないだけましか……」
「あっ、吸いたくなった!」
「……」
野中はため息をもらす。
「えへへ」
と笑い、火を点ける。少し壁紙が、ヤニに黄ばんできた気がする。野中はそのことで文句を言うが、取り立てて止めようとはしなかった。
洋子は野中といるときだけ、本数が減った。むしろ野中といる時間が増えた。
藤崎の話はしない。洋子は意図的に避けているわけではないが、野中がしようとしないからだった。後ろめたさがあるのだろうか。なんとなく、気まずい雰囲気になるよりはと、洋子も話題にしなかった。
「つーかお前、歯ブラシ持って帰れよ。あと、当然のように、俺ん家に泊まってくな」
「いいじゃん、別に」
それに野中はがりがりと頭をかく。
洋子はそれに、
「あー、いやらしいこと考えてるんだ」
「うるせぇ!」
「なによ! むっつりすけべ!」
みるみる野中の顔が険しくなる。
「よく、そんな男の家に来れるな」
「べつに。むっつりだから何にもされないし。あと、うちより居心地いいんだもん。お酒もあるし」
「この! 人を便利屋みたいにいいやがって」
野中は洋子を押し倒す。
「あっ」
思わず出た、女の声に、野中は我に返る。息のかかる距離に、洋子の顔があった。
「悪い、今どく……」
野中の呼吸は荒かった。洋子は目の前で、戸惑う顔に手を添える。酔っていたといえば、短絡かもしれない。ただ甘えたかったのか、もうその行為に、昔以上の価値を感じなかったからかもしれない。
それは簡単な交換条件だった。野中は居場所を提供する。洋子はその期待に応える。ただどう考えても、食われているのは野中だった。
洋子は微笑む。野中の瞳は震えていた。洋子は野中の頭の後ろに、手を回した。そして唇と、体を重ね合う。そのあとは早かった。
洋子にとって、この行為に意味をもたせるのなら、呼吸の延長線だった。
一緒に眠っても、体を寄せ合うことはしない。野中は所在なげに、求めた手を引っ込めて、頭の後ろに組む。その横で洋子は、うつぶせに、携帯電話をいじっていた。野中はそれを一瞥してから、暗い天井を見る。
「俺、ずっと洋子のこと好きだったんだ。初めて歌を聞いた時から。だけどもうその時には、洋子の隣には藤崎さんがいた」
「そうだったんだ」
うずく心も、揺れる心もなかった。罪悪感も、感慨もない。
野中は気にした様子もなく、独りごちる。
「べつにいいさ。こうして洋子の役に立てるのなら。俺にしか、してやれないこと。止まり木にぐらいはなれる」
野中は背中を向ける。肩胛骨の浮いた、痩せてはいるが、筋肉質な背中。
「ありがとう」
小さな声で言った。もう眠ってしまったのだろうか。野中は静かな呼吸を繰り返していた。
春に旅行に行く計画を立てたが、なかなか予定が合わず、諦めた。それから何ヶ月も経って、都内の自然公園に行くのがやっとだった。
洋子は薄手のワンピースに、つばの広い帽子をかぶる。藤崎はいつの間にか髭を剃り、少し若く見えた。
「都心に、こんな場所があったんだね」
「うん。学生の頃、よく来たんだ。ここに来ると、悩みとかがあっても、リセットされた気がするんだよ」
初夏の日差しに、木々は輝いていた。空は力強い青。雲一つない。
「風が気持ちいいね」
「池があるんだ。この時期になると、睡蓮が咲くんだよ」
「へぇ」
手をつないで歩くうちに、林道をぬけ、開けた場所に出る。木々を映して、鏡のような水面を、風が渡る。さざ波立つ、深い緑の池に、薄紅の花が咲いていた。ぽつんぽつんと。
「可愛い」
「本当は俺も見るのは初めてなんだよね。いつもはここまで来ないから。森の空気を吸いに来てるだけだから」
“空気”という言葉が、一瞬、洋子の顔を引きつらせた。
藤崎は気づかない。
「睡蓮ってさ、こう両手を合わせて、指先を広げたように見えない」
「うん、分かる。なんか不思議な感じ」
「仏教では、蓮は重要なテーマなんだ。仏像の台座も、それを象ったものなんだ。思うに、両手に包み込むような、温かさが、仏の慈悲のイメージにつながったんじゃないかな?」
「分かった! 次の番組は仏像特集でもやるんでしょ?」
「うん。企画を任されてね。最近俺も調子いいんだよ」
「そのうち私の番組もつくってね」
「もちろん! そうだな、せっかくだから、洋子がいろんなアーティストと対談するのなんてどうだろう?」
「楽しそう! で、いつ?」
洋子はいたずらっぽく笑い、藤崎をいじめる。
「いつ、つくってくれるのかなぁ?」
藤崎は困ったように肩をすくめて、苦笑し、
「そうだなぁ、十年後かな?」
「ふふっ、期待して待ってるわ」
お互いに笑い合う。
二人でいれば、今までどおり笑える。藤崎には何の悩みも言わない。藤崎の前では、「佑月カンナ」でいたくない。
「堕ろしてください」
日山は表情一つ変えず言った。
「はい」
洋子はかすかな動揺も見せなかった。
「今が大事な時期ですよ。この世界はシビアです。どんどん新しい才能が出てきます。話題づくりでならまだしも、まだ早い。一瞬で忘れ去られますよ。今までの努力も、全部無駄になります」
「分かりました」
無感情に応じる。日山の言葉に納得したわけでもない。ただ心が空虚なだけだ。
洋子は退室しようとした。そこで日山は、げすな笑みを浮かべた。
「で、誰との子供なんですか?」
洋子は無言だった。
野中の家に押しかける。
「なんだよ、連絡の一つでも入れろよ。人ん家を、なんだと思ってるんだ。いくら俺が、都合がいいからって――」
たらたらと文句をまくし立てる。
その胸に、洋子は飛び込む。
「おい?」
問いかけて、しゃくるように泣く洋子に、野中は口を閉じる。ただその体を、優しく抱きしめた。
泣き疲れて眠るまで、そうしていた。
子供は誰とのだったか。なんとなく野中の気がした。
他は避妊していたし、藤崎とは月に一度会うぐらい。
お互いに不定期な生活で、なかなか予定が合わなかった。一緒に住む話も出ていたが、洋子は断った。
本当の自分になることが怖かった。今自分を保っているのは、紛れもなく「佑月カンナ」の仮面だ。偽物の自分を演じることで、自己と切り離し、無感でいられた。
しかし藤崎といると、「秋窪洋子」に戻ってしまう。
藤崎の前では健気に振る舞う。だがわかれたあとは、一日中気が塞いだ。
いくつもの自己嫌悪がこみ上げる。藤崎への罪悪感ではない。野中と寝たことではない。スポンサーに体を売ること、「佑月カンナ」であること。まだ「秋窪洋子」でいる間、「佑月カンナ」への変身の矛盾に、慄いているのだ。
そうして一日を過ごせば、自己嫌悪は消える。この過程は、変身への儀式なのだ。もしそれを毎日のように繰り返せば、洋子の心は、ずたずたに引き裂かれてしまうだろう。
都合がいい、という意味では野中だった。野中は「佑月カンナ」も洋子も知っている。そしてその二人が別であることを知らない。だから都合がよかった。どちらでも、洋子だと思ってくれるから。
野中は背中を向けて、寝息を立てている。堕胎への罪悪感はない。同情も何もない。
窓に映る、自分の裸を見る。泣きはらした目で、洋子は笑った。
そこに「佑月カンナ」の亡霊を見た。