(3)
休憩中、携帯電話を開いた洋子は、寺越からのメールに気づく。そしてそれを見て驚く。
「レーベルから契約の話がきました。一度みんなで集まって話し合いたいんですけど、お時間ありますか? 都合のいい日を教えてください」
一斉送信で送られたメールで、洋子は藤崎をつかまえる。
「うん。俺のところにもきたよ。いやぁ、驚いたね! 仕事が手につかないよ」
はやくも、その日の仕事終わりに、全員で集合した。はじめはあのジャズバーに行く気がしていたが、集まったのは居酒屋だった。確かにこの話は、盛り上がって大騒ぎしかねない。
すでに金澤と野中が来ていて、金澤は残業を投げ出してまで来たらしい。
二人が来ると野中は立ち上がり、いつもの仏頂面に苦笑をにじませて、金澤の隣に座る。のほほんと微笑む金澤と目があって、洋子は恥ずかしくなって顔を伏せた。
そうして主役の寺越が来る前から、四人で盛り上がった。野中もいつになく饒舌で、オリジナル曲の打ち合わせを、はやくもしていた。
「やっぱり藤崎さんのトランペットと、秋窪さんのボーカルで、二つのラインを前面に出すのはどうでしょう?」
金澤がしきりにうなずき、
「タイトルはどうしようか? 魚にちなんだのはどうだろう」
「洞窟魚が光のあたる世界に出るんですからね。初めて見る光。うーん」
野中は腕を組んでうなる。
洋子もわくわくして、
「ジャズの音って、流れるような感じじゃないですか。川の流れみたいなのを意識してみたら」
野中はうなずいて、
「いいね。川の流れの変化。速かったり遅かったり。清流や濁流。その変化をテーマにしたら、面白いのができそうだ」
そんなやりとりを、藤崎は微笑んで見守っていた。
「すみません、遅くなりました」
そこへ寺越が、息を切らして入ってくる。
それに藤崎は、
「おい、今日の主役は特等席だ。はやく座れよ」
しかし寺越は立ち尽くしたままで、座ろうとしない。小さく動いた口が、
「俺は座れない……」
と呟いたような気がしたが、すぐに座る。
「向こうと話していたら、遅くなってしまいました」
「ならしょうがないな」
藤崎が楽しそうに、メニュー表を取る。
「どうする? とりあえずビールで乾杯するか? お前が来るまで待ってたんだぜ」
寺越は受け取ろうとして、うつむく。その様子に、ただならぬ気配を、藤崎も感じ取った。
「もしかして、デビューの話なし?」
「いえ」
すぐに寺越は否定する。
「じゃあどうしたんだ? そんなおっかない顔して」
寺越は唇を噛む。拳を握り、肩が震えていた。そしてうつむいたまま、絞り出すような声で、
「契約の話が来たのは、俺と野中と、秋窪さんだけです……」
それに、一同は静まりかえった。今まで気にもしていなかった、周囲の客の声が、耳に入ってくる。水を打ったような静寂の中、藤崎が、
「そうか……」
ともらした。
「うん」
と金澤がうなずく。
「どうしてですか?」
洋子はやっとの思いで声を出した。
「どうして三人だけなんですか?」
寺越はうつむき、歯ぎしりしながら、
「あくまでこの三人で、他に必要な人員は事務所で用意するそうです」
「それでどうして、二人は――」
「“のびしろ”がないからさ」
藤崎が冷めた声で言う。金澤もうなずき、
「僕らはもう、いい年だからね。はじめから才能があったら、とっくにデビューしてるさ。そうじゃないってことは、所詮アマチュアなんだ」
「そんなこと……」
藤崎がつなぐ。どうしてこんなにも冷静でいられるのか。
「野中はまだ若い。才能もある。寺越にしても、テクニックは相当だ。洋子はプロ並み。俺らが外されるのは当然だ」
「嫌です、私! この五人がいいんです!」
「俺もです」
寺越が真っ直ぐ、藤崎を見る。
藤崎はそこで、今にも泣き出しそうな目で、
「メジャーデビューってことは、今まで以上に、仲良しごっこじゃないんだよ。半端な奴が一人いるだけで、全員の足を引っ張る。その責任を、俺たちに負えっていうのか?」
その言葉は痛切だった。金澤は腕組みし、目を堅くつぶっている。
しばらくの沈黙の後、藤崎は言う。
「決まりだな。お前たち三人は、メジャーへ行け。これが最初で最後の機会だ。安っぽい感情に流されるな」
「俺たちは、何のために音楽をしてたんですか?」
寺越が震える声で言う。藤崎も金澤も答えない。
「俺は、このメンバーでやるのが、楽しかったからですよ? あの小さいバーの舞台で、演奏するのが楽しかったんですよ」
「俺はその話、受けます」
突然の野中の言葉に、寺越は睨みつける。野中は真っ直ぐ、視線をテーブルに向けているが、毅然としていた。
「俺は自分の可能性を、潰したくない」
「野中!」
寺越は野中の胸倉を掴む。
「やめろ!」
藤崎の制止に、寺越は引き下がるが、その表情は揺れていた。
その怒りは、野中の簡単に切り捨てられる態度にだろうか。それとも簡単に決められるのが羨ましかったのだろうか。
だが野中も、簡単に決意したわけではない。その目は赤く充血している。
藤崎は二人を見ながら、
「野中の言うとおりだ。これは野中の才能が掴んだ、野中の力なんだ。寺越、お前だってそうだ」
その言葉に、寺越は泣き崩れる。
「洋子だって、そうだ」
それに洋子は、はっとした。これは自分の話でもあるのだ。驚愕のあまり、まるで自分とは別の話をしているような気がしていた。
この五人じゃないことが信じられない。寺越の言うとおり、自分たちは何のために音楽をしているのだろう。楽しいからだったはず。コンテストに出たのだって、みんなの実力を試したかったから。だとしたら、たとえ日本中の誰もが自分の歌を聞いてくれるとしても、この五人でいる以上に、魅力的だと思えない。
だが藤崎は洋子の背中を押す。
「洋子の声は、こんなところで終わらせちゃいけない。もっと大きな夢を叶えるべきだ」
私の夢――
あの“光”を浴びたい。もう一度輝きたい。
それでも、たとえ小さな舞台で歌っても、幸せを感じられる。
「私は――」
応接室のソファに、洋子と野中はいた。
「寺越さんは?」
「断ったそうです」
「そうですか……」
野中は平然としているようで、その仏頂面はいつになく堅い。緊張しているのだろうか。それとも後悔しているのだろうか。
洋子は、たとえ『cave fish』を脱けても、藤崎との関係は変わらないと、決意した。そして自分がデビューすることが、自分を見つけてくれた藤崎への、最大の感謝とお礼だと思っていた。
そこへ事務所の社長が、ひとのいい笑顔を浮かべてやってくる。
「どうも小野田です」
脂ぎった禿頭、でっぷりとした腹、典型的な金満体型だった。
「寺越さんは残念でしたが、ご安心ください。ドラムや、それぞれのパートは、こちらで用意します」
「よろしくお願いします」
野中が頭を下げる。洋子もそれにならった。
小野田はどっかりと座りながら、
「細かい話は、マネージャーがするので。とりあえず契約書にサインしてください」
洋子は印鑑を取り出す。そして目の前に出された書類の、自分の名前の横に押す。もう戻れない、そのことの寂しさと、未来への期待に胸が高鳴った。
洋子たちのマネージャーは、対照的に、ひょろ長い眼鏡だった。顔色は悪く、実際の歳より老けて見えた。
「五人組のバンドで、ジャズではなく、ポップスでいきたいと思います」
「えっ」
洋子は驚いた。自分たちはジャズでやってきたはずなのに。野中を見ると、動じた様子ももない。
「新たにドラム、ギター、キーボードを加えて、お二人を前面に出す感じで、進めていきます」
「はい」
野中は平然とうなずいた。マネージャーの日山は、スケジュール表を取り出し、
「洋子さんは、今のお仕事をやめてもらうことで、大丈夫ですね」
「はい」
「アナウンサーとは。これは話題を呼びますよ!」
日山は細長い目を、さらに細めて笑う。洋子は愛想笑いした。
「とりあえずレッスンの日がこれだけ入ってます。曲の方はこちらで用意してあります。目を通しておいてください。他のメンバーとは、後日打ち合わせをしましょう」
洋子は出された楽譜と歌詞を見て、目をみはる。
安直なラブソング。どこかで聞いたようなフレーズ。こんな深みもない歌を、歌わなければならないのか。
「あの――」
反論しようとして出た言葉は、有無を言わさぬ日山の目に射られ、
「どうして、私たちだけなんですか?」
それがやっとだった。洋子はこの感覚を知っている。あの頃も、疑問を持つことを許されなかった。日山はただ見ただけなのかもしれない。しかしそれが洋子の中に、あの感覚をよみがえらせ、押し黙らせた。
日山はにこにこ笑い、
「ああ、簡単ですよ。ビジュアルです」
「はぁ?」
「キレイな感じで売り出したいんですよ。お二人は若くて、キレイですからね」
洋子は呆然とした。評価されたのは、音楽ではなく外見。信じられない言葉に、二の句がつげなかった。
「しかし、すごいですね。あの“佑月カンナ”がアナウンサーになって、そしてまた音楽業界に戻ってきたんですから」
そうだ自分は、もう秋窪洋子じゃない。
「これはすごい話題ですよ! 誰もが注目するでしょう」
消えたはずの記号が、色濃く、洋子の染みこんでくる。つま先から、毛穴まで。
洋子は微笑んだ。記号は仮面となって、洋子の顔を隠した。
「よろしくお願いします」
もう動揺することはなかった。ない交ぜになった感情は、黒い靄に包み隠され、仮面の上に浮上することはない。
藤崎に電話をした。
「どうだった!?」
開口一番。洋子は笑う。
「うん、大丈夫だったよ」
「そうか。ところで、金澤さんとお祝いのパーティやろうって話になってるんだけど」
「寺越さんは?」
名前がないのが気になった。藤崎は電話越しに笑う。
「いるよ。今俺ん家で飲んでる」
洋子も笑った。
「どうして呼んでくれないの?」
「悪い。洋子の都合が分からなくて」
そこで電話越しに、なにかもめているのが聞こえた。そして、
「洋子さん!」
酔っ払った寺越の声にかわった。
「俺、応援してるから! 俺は藤崎さんたちと音楽したいからやめたけど、洋子さんは俺の代わりに夢を叶えてくれ!」
そこでまた何か叫んでいるようだったが、藤崎がかわる。
「こいつも全然気にしてないから、野中も誘って飲もうぜ!」
「うん!」
そこで電話を切った。楽しんでいるところを邪魔しちゃいけない。
事務所に渡された、イメージテープは聞く気にならなかった。かわりに、ジャズをかけた。なぜか涙がこぼれてくる。だがすぐに、顔をはたいて、気を引き締める。
これは別れじゃない。今もこうしてつながっている。いつかまた、『cave fish』のみんなと音楽をするんだ。それは小さなバーの舞台じゃなく、広いコンサートホールで。
そのためには、これを成功させなければいけない。どんなにチープな音楽でも、それに魂をこめることはできるはず。
楽譜と歌詞を広げ、テープを流した。
曲づくりは、メンバーとほとんど顔を合わせず行った。スタジオで録音した音を、パソコンで編集し、いくつかのサンプルをつくる。
洋子は録音をおえ、編集されたテープを聞いた。
「もう少し、ライトな感じで歌えませんかね」
日山が顔をしかめる。
「分かりました」
洋子は仮面をかぶる。
「洋子さんの声は、少し暗いんですよね。今売れているのは、明るい感じの歌なんですよ。世代も若年層にしぼってますし、“佑月カンナ”の頃みたいな感じでお願いします」
「はい」
じくじくと、上辺を覆った仮面が、皮膚へ、さらに肉へと染みこんでくる。
今までの、「秋窪洋子」としての音楽を否定されても、洋子は笑っていた。いや、笑っているのは、カンナかもしれない。
「そういえば社長が、洋子さんのことを気にかけていて、今度ゆっくりお話がしたいそうです」
「そうですか」
「魚心あれば、水心です。そこらへん、気をつけてください」
つまりはそういうことだった。
洋子は小野田と、ダイニングバーの個室に入った。洋子の隣に小野田が座る。
「何を飲むかい?」
「タバコいいですか?」
「いいよ」
小野田が腹を揺すって笑う。
「まだ吸ってたのかい」
「はい」
洋子は笑いかける。それに小野田は上機嫌だった。
タバコは、前は一日に二箱近く吸っていた。藤崎と出会ってからは、その本数は徐々に減っていった。バーで演奏するようになってから、一日吸うか吸わないかだった。
洋子はまた、一日に二箱は吸っていた。
「ところで、うちはよく、ある音楽番組に出資しているんだよ。よくうちから出す若手を、そこで紹介してもらってるんだ」
「そうなんですか!」
「せっかく売り出すんだから、そこで君らも、押し出してあげようと思うんだけど」
「ありがとうございます!」
小野田の目が、粘ついた色をおびた。
洋子は知っている。その目を。
「私もね、君のうたはスバラシイトオモウンダ」
小野田の手が、洋子の足に触れた。それはさするように、動く。洋子は笑った。
――社長に、得意先の人と引き合わされた。テレビ局の役員だとか言っていた気がする。
はじめはマネージャーもいたが、いつの間にかその男と二人っきりになった。男は他愛もないことを話すだけだった。
「彼氏はいるのかい?」
「いません」
少しトーンの高い、つくり声で言った。
「欲しくないの?」
「恋愛とか、今は興味ないです」
「こんなに可愛いのに。クラスの男子は放っとかないんじゃない?」
「そんなことないですよー」
「へぇ」
男は洋子の肩を抱いた。男は「佑月カンナ」という記号に、キスをした。
「キスされたの初めて?」
「はい」
瞳の揺れもない。初めてでもない。
男は「佑月カンナ」の手を握る。
「僕はカンナちゃんのこと、大好きだよ。ちゃんと社長にも、マネージャーさんにも、よろしく言っておくから」
「ありがとうございます」
「だからカンナちゃんも、僕のこと好きだよね」
「はい」
多くの汚いモノに触れてきた洋子は、子供のように振る舞っても、その中身は成熟していた。その熟れすぎた果実を、大人たちは気づかずに摘む。
まだ青いと思い込み、彼らは腐りかけの実をかじる。
味に変わりはないのだから。
歯を磨く。何度も何度も。口をすすり、吐き出した水は、ほのかに赤かった。
鏡を見ると、歯茎から出血していた。過去に何度か、その所為で歯肉を直す手術をした。
今ではヤニのついたラインで、歯肉が浅くなっていることが分かる。黄ばんだ歯は、歯に塗るマニキュアで隠していた。
洋子は鏡に映る、自分の顔を見た。動揺はない。見事な仮面だった。笑ってみせる。「佑月カンナ」が笑った。
そして携帯電話を開くと、藤崎からのメールが来ていた。応援の言葉と、今自分が取り組んでいる番組のことが書かれていた。
「デビューしたら、番組のテーマソングを歌ってくれ!」
その言葉に、洋子は膝を折り、座り込む。
出かかった涙は、仮面の下で流れた。無感がこみ上げてくる。決壊しかけた感情の堰は、深い闇が呑み込んでいった。
今までそうしてきた。どんな感情も、そうやって殺してきた。
そこで、事務所を出た時の、野中の言葉を思い出す。
「大丈夫?」
その時は、新しい生活に慣れていないのではと、気づかってくれたのかと思った。
あれ以来、野中に会っていない。メールで何度かやりとりをしただけだった。
今の自分を、藤崎に見られたくなかった。野中なら、自分のことを気づいてくれる。「大丈夫?」というのは、仮面をかぶった変化に気づき、違うと察してくれたのだと、そんなふうに思えた。
「もしもし」
「急にどうしたの?」
「今からそっち行っていい?」
「……」
無言。少しして、
「いいよ」
気づいてくれたのだろう。洋子が救いを求めていることを。
野中はマンションに住んでいた。洋子のマンションからそう近くないが、タクシーで来た。
「へぇ、レコードなんて聴くんだ」
アナログ盤が棚に並び、部屋の隅にプレイヤーが置いてある。
「何かかける?」
部屋着の野中は、また別の印象だった。薄手のシャツを着ていて、開いた胸元に、鎖骨のラインがくっきりとあった。
野中は黒い、大きな円盤を取り出し、セットする。針を落とし、回転しだした。針が溝を滑り、音が流れ出した。物静かな野中のイメージとは打って変わって、ロック調だった。
「アナログレコードはCDと違って、デジタル処理されていないんだ。閾値下の音も録音されている。音は耳だけじゃなく、体でも感じるから、こっちの方が好きなんだ」
「私も、CDとか聞かないんです。電子音とか嫌いなんですよ」
「俺もシンセの音とか嫌いだね。だから最近の音楽とかは聞かない」
「野中さんは、嫌じゃないんですか? あんな音、弾かされて。正直、野中さんの音が隠れてました。他の楽器の音が強すぎて」
「ベースはたまに聞こえるぐらいがいいのさ。いるのかいないのかぐらいが。縁の下の力持ちだからな」
どこか諦めたような言い方だった。楽器のことは分からない。それでも『cave fish』にいた頃の野中の音は“生きていた”。
「座れよ。何か飲むか?」
「はい」
野中は缶チューハイを取ってくる。洋子の前に一つ置き、自分のを開ける。
「とりあえず、メジャーデビューに乾杯」
「まだですけど」
洋子は苦笑し、野中と缶を合わせる。
こうしているだけで、何も話さなくていい気がした。心が軽くなっていくのが分かった。
ここは仮住まいの洞窟だ。盲目の魚にとって、居心地のいい場所だ。
藤崎や寺越に、この悩みを預けるわけにはいかない。自分たちは、そこから離れて、外を目指してしまったのだから。こうしてたまに休むぐらいは、許されてもいいだろう。
洋子はタバコを取り出す。
「おい、うちは禁煙だ!」
野中が慌てる。
「えぇ」
悲しげな声に同情してか、
「とりあえずそれ飲んだら、灰皿代わりにしろ」
「はーい」
一気に飲み干す洋子を見て、野中は苦笑する。
「ここに来たこと、藤崎さんに言うなよ。怒らせたら、マジで殺されそうだ」
洋子は笑った。その所為か、涙が頬を伝った。