(2)
それ以降、何度か演奏を重ねるうち、『cave fish』の人気は高まっていった。
そしてついに、正式に契約を結ぶことになった。
「やったね!」
ソファに腰かけた藤崎に、後ろから抱きつく。藤崎は『cave fish』が認められたことにか、洋子に抱きつかれたことにか、しどろもどろになる。
「うん。洋子のおかげだよ。やっぱり、歌があるとなしじゃ、かなり違うからね」
「みんなの演奏が上手だからだよ」
頬をすり寄せる。ちくちく髭が刺さる。それがなんだか愛おしかった。
藤崎は耳まで赤くしながら、
「所詮俺たちはアマチュアだよ。洋子の歌声はプロ級だから、そのおかげだよ」
「でもすぐ嗄れちゃうよ。練習だとそうでもないのに、ライブだと三十分で声でなくなっちゃう」
「それだけ本気だってことさ。それにかえって、あのハスキーな感じが良いんじゃないかな」
「そうかな?」
「うん」
洋子は藤崎を抱きしめる。
藤崎は照れかくしに、何か話そうと、
「ただ俺らん中でも、野中は本物かな。音大までいったらしいし」
「へぇ、すごいんだ」
「金澤さんは子供の頃からピアノやってるし、寺越も大学までバンドやってたらしいし――」
そこで藤崎は「あっ」と声を上げる。
「どうしたの?」
「そうだ寺越の奴、勝手にデモテープ送りやがったんだ」
「デモテープ?」
「うん。毎年、ジャズのコンテストに応募してるんだ。去年やっと出れて、審査員特別賞もらったんだけど」
「すごいじゃん!」
「奨励賞みたいなもんだから、なんとも……」
「それで寺越さん、今年のコンテストに応募したんだ」
「うん。でもなんの相談もなしに、洋子の名前も入れて、勝手に応募しやがったんだ」
「そうなんだ」
呑気な洋子の声音に、藤崎は困惑しつつ、
「いいのかい?」
「いいのかい、って?」
「いや、勝手に応募しちゃって」
「うん。ただ足を引っ張るのが怖いけど……」
「洋子がいてくれるなら、グランプリだって夢じゃないよ!」
「そんなおだてないでよ。でも取るとどうなるの?」
「取ると、コンテストを主催しているレーベルから、メジャーでCDを出してくれるんだ」
「すごいじゃん! もっと練習しないと!」
藤崎は安心して微笑む。
「そういってくれて嬉しいよ。勝手に引き込んだ上に、コンテストなんかに応募して、悪いなと思ってたんだ」
「もう」
洋子は不満げな声をもらす。
「私だって、メンバーの一人よ。変に遠慮しなくていいから。それに“悪い”なんて思わないで。私はこうしてみんなや、弘海と音楽ができて幸せなんだから」
そういって唇を触れさせる。あとは求め合うだけだった。
仕事の合間をぬっての練習とライブ。藤崎が番組の製作に入ると、なかなか集まれなかった。洋子自身は決まった時間に仕事が終わるので、空いた時間に寺越や野中と打ち合わせをした。金澤は仕事が忙しく、残業などで、あまり顔を出せなかった。
野中は急な用事で来れなくなったので、洋子は寺越と居酒屋に行った。雰囲気のいい店、あのジャズバーとかに、藤崎以外の男性と行くのに、どうも気が引けた。
寺越は勝手にテープを送ったことに、何度も頭を下げた。
「そんな気にしないでください! 私で皆さんの役に立てるなら、なんでもします」
「すみません、ついつい。テープ聞いてたら、これはいけるんじゃないかって。野中も絶賛してたし、いてもたってもいられなくて」
普段寡黙な野中にもほめられて、洋子は嬉しかった。
「それで、選考の方はどうなりました?」
応募したから参加できるわけじゃない。まず最初の関門を通れるかだ。
「ばっちしでした! 審査員の方でも好評だったらしいです」
「よかった」
胸を撫で下ろす。これで駄目だったら自分の所為だ。
「そういえば寺越さん、大学時代、バンドやってたんですよね?」
「ええ。その頃はロックやってました。ただがむしゃらに叩くだけですよ。それが嫌になって、テクニックばかり気にしていたら、メンバーともめて脱退です。いわゆる音楽の方向性の違いってやつです」
「どうしてジャズを?」
「やっぱりリズムを大切にするところですかね。あと多様な感じ。そこでそれを使うのか、って」
「へぇ、としか言えないです。あんまり楽器知らないので」
「まあ僕も、学生のロックしか知らないんですが、ジャズだとシンバル中心にリズムをつくったりとか。前はドラムをただぶん殴っているだけだったんで」
「想像つかないです。今の寺越さん見てると、タバコ咥えながら、クールに打ってるイメージがあります」
それに寺越は笑う。
「バンドやめたあと、タバコ吸いながら、ご飯茶碗を楽器がわりにしてた所為かな」
洋子も笑う。気兼ねなく、話ができる人がいるだけで、こんなにも心が楽だった。
本番を控えた一ヶ月前、やっとメンバー全員で集まれた。
いつものスタジオに集合する。
銘々に楽器をチューニングし、音を出したりしている。音を合わせる十分前は、かなり騒々しい。音響設備が整っているので、反響する。最初の頃は驚かされていたが、今は自分も騒音の一部である。洋子は壁に向かって発声練習していた。
「そういや寺越、なんの曲送ったんだ?」
藤崎が寺越に聞く。寺越は自信たっぷりに言う。
「『all of me』ですよ。やっぱり新生フィッシュといったら、あの曲ですよ」
野中もウッドベースを抱えたまま、
「俺もあれが一番好きです。というか、負ける気がしません」
金澤も、
「うん、いいんじゃない」
と笑った。
洋子もあの曲に一番思い入れがあった。あの曲を歌うことで、過去への執着がなくなった気がする。それが今、みんなと一つの目標に向かう絆になって、いっそう感慨深かった。
藤崎が洋子を見るが、洋子は胸をはって微笑む。
「私も、あの曲に一番、自信があります」
それに藤崎も安心して、
「よし! 俺たちにしかできない音楽をやろう! 一度音を合わせてみるか!」
みんな拳をつきあげ、「おう!」と叫ぶ。
今この仲間と目指す夢に、洋子の胸は高鳴る。
“メジャー”という言葉に惹かれないわけじゃなかった。それはずっと抱き続けてきた、憧れと悔しさであり、呪いでもあった。
かつてはそこにいた。堕ちればその事実は、烙印のようにつきまとった。
「佑月カンナ」の記号。羨望から嘲笑へ。そしてその記号が、秋窪洋子の人格を規定しているように思えた。
哀れなアイドル。かわいそうだという同情はない。「くだらない理由で、自業自得だ」と誰もが思っていた。
だが才能を否定されたわけじゃない。こんな場所でくすぶっているのは悲劇だと、苛立ちを覚えたこともあった。
しかし今メジャーを目指すのは――藤崎たちはそこまで思っていないにしても――自分がみんなのためにできる、唯一のことだからだった。
もし自分にそれだけの力があるのなら、秋窪洋子ではなく、ましてや「佑月カンナ」でもなく、『cave fish』のボーカルとして、全力を尽くしたい。
藤崎はトランペットを吹きながら笑う。その笑顔をずっと傍で、光のあたる世界で、見守っていたい。
コンサートホールには、千人以上の観客が来ていた。コンテストに参加する、バンドの友人や家族だろう。それ以外にも、地元の人々や、ジャズ好きが来ている。
バンド部門は十組で、ボーカル部門も同様。午後の三時から、八時まで続く。一曲だけとなっているが、審査などで時間もかかるらしい。最後に表彰式などもある。
バンド部門から始まり、洋子たちは二番目だった。
藤崎は順番がはやいと言っていたが、洋子はそれほど気にしていなかった。前日の夜に藤崎の家に泊まったからかもしれない。珍しく藤崎は緊張しているようで、前日からトランペットの調整をしていた。金澤や寺越、野中は平然としている。ただ雑談を交わす様子はない。楽屋に、他のバンドがひしめいているからかもしれない。
十組といっても、多いところではサックスやビブラフォンなどが加わって、十人単位のバンドもいる。人数が増えれば、多様性が広がる。音の遊びを楽しむのが、ジャズの性質らしい。そうすると少人数は不利に思えるが、洋子の中には自信があった。
この五人の絆は、誰にも負ける気がしない。そんなふうに思えるのが、洋子の心を軽くした。この前、先輩や同僚に「彼氏でもできた?」と図星をつかれた。最近表情が変わったらしい。声も明るくなった。それでいいことがあったのではないかと勘ぐってきた。
それはその通りだし、昔みたいに、あてもない、妬みや暗い感情がなくなった。今はただ前を見ていたい。過去の栄光も、今には勝てない。
『all of me』を歌うのは、これが最後だろう。今度は“次”を歌いたい。幸福な今と、希望に満ちた明日を。
表彰式、『cave fish』はバンド部門三位、銀賞だった。
洋子は号泣した。悔しかった。その肩を藤崎が抱いてくれる。その横顔は誇らしげだった。寺越がうなずく。その顔は微笑んでいた。金澤も野中も、毅然と前を見ている。
「俺たちはやれるんだ」
そんな声が聞こえた。藤崎だろうか。そしてすぐに、藤崎だけでなく、みんなの声だと分かった。
洋子は唇を引き結び、前を見る。千人以上の観客、審査員。いつかもっと多くに、自分たちの音を届けたい。
五人は賞金を手に、飲み屋に繰り出した。
金澤は酒を飲む前から上機嫌で、
「足んなかったら、今日は全額俺のおごりだ!」
「よっ! 社長!」
藤崎や寺越が喜ぶ。野中は重そうにウッドベースのケースを背負いながら、苦笑していた。
「あんまし気にしなくていいよ」
「えっ?」
なんとなく、野中に話しかけられたのは初めてかもしれない。
「道具も少ないのに、俺たちすごいよ。でも四人じゃ駄目だった。秋窪さんがいてくれたから、俺たちはここまでやれたんだ。ありがとう」
「そんな! 私なんか」
「秋窪さん来てから、藤崎さんや、みんな変わったもん。俺だって。今までは“弾けてればいいや”と思ってた。だけど秋窪さんの声聞いて、やれるんじゃないかって思った。俺は本気で、グランプリ取れるって思ったね」
「でも結局……」
「いいんだよ。それは。これで終わりじゃないし、“俺たちはやれるんだ”って証明になった。みんな、そう思ってるよ。そういう思いがあるって、強いよ」
野中が微笑む。自信に満ちあふれた表情だった。
「なんて、偉そうにいってすみません」
「いいえ! すごい勇気わいてきました」
そして行きつけの飲み屋を見つけ、遅れてやって来る二人に、藤崎が手を振る。
「おーい、はやく!」
「行きましょ!」
洋子は駆けた。野中が息を切らし、笑いながら走る。
悔しさはもうなかった。負けたんじゃなくて、勝ったんだ。そう洋子は思った。