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朱鷺の夢  作者: 藤原建武
盲目の夢、絶望の器官
3/8

(1)

 夏の日差しは容赦なく照りつけ、袖の境の、日焼けの具合が気になってきた。

 スタジオは地下にあることもあり、空調完備で快適だった。

 洋子は汗を拭い、一休みする。そこへ藤崎が缶ジュースを買ってきてくれた。

 他の『cave fish』のメンバーは、それぞれ楽器の用意をしたり、チューニングしている。

 ピアノはこの中で一番年上の金澤。短く刈り上げた髪、やや腹回りが出ていて、町中で見れば普通の中年男性だろう。

 ドラムスは三十代前半の寺越。ドラムと聞けばパワフルなイメージがあったが、それほど腕は太くない。細やかな手さばきが得意らしい。

 ベースはもっとも若い29歳の野中。パーマがかった黒髪で、細身で背が高い。この中で一際目立っていた。ベースといっても一抱えもある、オーケストラで見るようなタイプの、コントラバスとかウッドベースと呼ばれるものだった。

 はじめは銘々にいじっていた四人だが、音を合わせる。

 金澤のピアノから入り、寺越がリズムをつくる。それに野中のベースが加わって、藤崎のトランペットが歌った。

 スタンダードナンバー『all of me』、1931年につくられ、今でも歌い継がれている。失恋の歌で、恋する男性に、すべてを捧げるのにと女性が嘆く。悲しげな歌詞でありながら、曲調は明るく、どこか吹っ切れたような、笑い飛ばすまではいかないまでも、前向きさを感じる。

 これに洋子がボーカルラインをのせることになっている。

 藤崎にいくつか、歌っているアーティストのCDを借りた。アーティストごとに歌い方や、楽器も異なり、同じ曲でありながら、まったく違う印象を抱いた。そこにジャズの面白さがあると思った。

 五分もない、短い曲なのだが、はじめはこれで音を合わせようとなった。

「秋窪さん、こんな感じでお願いします。ジャズは感覚で、まったく同じやり方はありません。自分の感じるままに、音の流れで、即興で歌ってくれても大丈夫です」

 列を乱すなと、体に叩き込まれてきた洋子にとって、そのスタイルは新鮮だった。不思議な立ち位置で、五人で向かい合うようにしていた。お互いの姿を見ながら、時に笑いかけ、音を外したのか顔をしかめたりする。

 ピアノから入り、ドラムとベースのリズムが生まれる。

 洋子は胸の高鳴りを感じた。体中に血液が送られる、それが感じられた。自分の体は自分のものだと、そんな当たり前のことが、実感としてわいてきた。

 肺から空気が送られ、声帯を震わして声が出る。歌うということは、それ以上で、全身の動き、リズムをとる体の揺れ、顔の表情一つとっても、すべてが音色になる。

 洋子は歌詞の意味を噛み締めながらも、溢れてくる喜びに、歌声は明るかった。

 トランペットのソロが入る。洋子は藤崎に笑いかける。藤崎は眉を上げて返した。手首のスナップを駆使しながら、寺越も微笑む。その目は輝いていた。野中は性格だろうか、仏頂面だ。金澤は微笑みながらピアノを弾く。

 洋子は、もともと声は高い方ではなかったが、タバコを吸っていたおかげか、低い声が出しやすかった。何度か家で口ずさんだ。イメージはできている。ブルースの、低く震わす声、それを意識した。

 そして長いように感じられた四分と少し、歌いおえる。

「うん!」

 ピアノの金澤がうなる。

 藤崎たちは録音を聞く前から、興奮しているようだった。しきりに「すごい!」とか「いいな!」とうなずいている。

 洋子は照れくさくなってうつむく。

 寺越が立ち上がり、

「なんか、ぐっときました! さすがですね」

 ここにいる全員は洋子の素性を知っている。それでもその言葉は、「佑月カンナ」ではなく、自分に向けられたものだと感じ、嬉しかった。

 野中はウッドベースを抱えたまま、

「その失礼ですが、俺アイドルとか嫌いで、秋窪さんの聞いたことなかったんですよね。でも今のは、素直に格好良かったです。マジで秋窪さんにボーカルやってほしいです」

 掛け値なしの賞賛に、洋子ははにかむ。

「藤崎さん、次のライブ、さっそく加わってもらいましょうよ」

 そう言う金澤に、藤崎は困った様子で、

「そこは、秋窪さんが決めることで……」

「えっ? 駄目なの?」

 しょんぼりした様子の金澤に、洋子は笑いかける。

「大丈夫ですよ! こちらこそよろしくお願いします」

 頭を下げる。

 寺越がドラムセットに戻り、

「よしっ! もう一回、音合わせましょうよ!」

 そうして二時間ほど、いくつかの他の曲も練習した。

 バーでの演奏は三十分。普段はプロが、一時間おきに演奏しているらしいのだが、常連だから特別に、その合間に入れてもらえていた。

 練習が終わると、近くの居酒屋に入った。練習終わりの打ち上げだった。



 全員での音合わせは、ライブまでに三回しか行えなかった。

 その間、洋子は藤崎をつかまえて、曲の解釈や、表現の仕方を話し合った。

「そういえば、『cave fish』ってどういう意味なんですか?」

「“洞窟魚”って意味です。なんとなくつけただけで、深い意味はないんだけどね」

 藤崎は照れくさそうに笑った。

「洞窟の魚は、光が差さないから、目が必要なくて、退化しているんです。その代わり、その環境に適した形に進化していて。それで僕らも、別にプロとか目指していないけど、あのバーみたいな空間に、適した形になっているんだ。っていう感じでつけました」

「素敵ですね。私も、こんなふうに歌っていられるのが、すごく楽しいです!」

「それは良かったです」

 藤崎は微笑む。洋子も微笑み返した。



 出番直前、黒のドレスを着た洋子。藤崎や金澤は背広で、野中はハットをかぶっている。寺越はベストにハンティングキャップ。

 最初見た演奏の時もその格好だったが、実際に会って話した時のイメージが強い。楽器を持てば変わるが、目立つ野中をのぞけば、初対面のイメージでは、どこにでもいそうな普通の会社員だった。

 こうして楽屋に待機し、勝負服に着替えた彼らを見ると、プロのアーティストのように見える。実際、彼らは本物だし、洋子は尊敬していた。

 洋子は、久しぶりに舞台に立つ、それも初めてのスタイルで、緊張していた。ただこんなにも前向きに、緊張するのは生まれて初めてかもしれない。「佑月カンナ」の時は、失敗することに怯えていた。母親やダンスの先生、ユニットの先輩や、プロデューサーに怒られるからだ。落ちぶれたあとの、自分の正体がばれることの恐怖は、息苦しさとしてつきまとった。その息苦しさは、東京に戻って、再び現れた。

 しかし今、失敗の不安がないわけではないが、それ以上に、期待と希望に胸を震わせ、この世界に連れてきてくれた藤崎や『cave fish』のみんなのために、何としても成功したかった。

 誰かのために歌うこと。どう向き合えばいいか分からない感情の前に、緊張しているのだ。

 そんな洋子の、強張った表情に気づいた藤崎は、

「秋窪さん、気持ちが大事です。僕なんかが偉そうに言うのもなんですけど、ジャズは深く考えず、その時の気持ちで歌うものです。言ってしまえば、何にも気にしなくていいんですよ」

 藤崎は舌を出して笑う。

「もし音を外したら、笑えばいいんです。それも一つの流れですよ」

 洋子は微笑む。藤崎の言葉は優しい。藤崎は「佑月カンナ」の記号で、洋子に興味を持った。しかしその記号がなければ、こうして一緒にはいられなかった。ずっとつきまとってきた、亡霊の影が消えた気がした。

 今は藤崎は、秋窪洋子として見てくれている。等身大の自分の実力を評価してくれて、仲間に入れてくれた。

 ずっと見下して、友達と思える人間が一人もいなかった洋子が、はじめて尊敬できると思った人だ。

 藤崎の音にも現れるように、ジャズという音楽の性質のように、気ままに生き、それを形にしていく藤崎が眩しかった。

「これが終わったら、二人で話できませんか?」

 それに藤崎はきょとんとする。金澤や寺越が肩をすくめて笑った。藤崎は照れくさそうに頭をかき、はにかみながらうなずいた。

 洋子は、自分の気持ちに素直に、生きようと思った。



 十年ぶりに立つ舞台は、今まで自分が立ったものの中で一番狭くて、観客も少なかった。その観客も、洋子を求めてきたわけではない。それは同時に、「佑月カンナ」の記号ではなく、純粋な音楽――洋子が見つけた自分が自分でいられる場所――を求めてやって来ているのだ。

 洋子は音楽と同化する。自分を一つの楽器にする。それはユニットの一部ではなく、生きた楽器の一つとして。音は生きている。音を奏でるのは人間だ。繰り返しの電子音ではなく、その時の気持ちで音色を変える。ジャズとは生き物なのだ。

 自分は細胞の一つ。洋子という声であり、人であり、楽器であり、『cave fish』の器官なのだ。

 喉が熱っぽくなった。金澤の旋律、寺越のビート、野中のリズム。そして藤崎の――

 歌詞の意味を深く噛み締める。悲しい歌だ。しかし歌が生きているのなら、その先に向かおうとするはず。あなたがいなくなっても、強く生きていくと。

 歌はカタルシスだ。心の底に眠る感情を取り出して、それが悲しみなのだと、あるいは喜びや怒りなのだと、形を与える。それと向き合い、次へ向かう勇気をくれる。

 だから洋子は『all of me』を、力強く、笑顔で歌った。「忘れてやるさ」ぐらいの気持ちで。

 この世界にはきっと、素敵な出会いが待っている。

 そのことを知った洋子は、もう亡霊に怯えなかった。



 洋子は藤崎の胸に甘える。その背中を、藤崎のたくましい腕が抱く。その髪に唇を触れさせ、

「オーナー、すごく良かったって。また演奏頼まれたよ」

「よかった」

 洋子は指を、藤崎の肩に這わせる。熱が、掌を通して流れ込んでくる。鼓動が聞こえる。熱は重ね合った部分からつながり、それは洋子の中の音にもなる。吐息が熱くなる。今、生きていることの幸せを感じた。

 何のために生きるのか。何故生きなければならないのか。どうしてこの命に生まれたのか。洋子を憂鬱にさせる疑問は、藤崎の熱に溶けて消えた。

「私を見つけてくれてありがとう」

「うん?」

 藤崎はきょとんとする。洋子は身を起こして微笑み、唇を重ねた。

 もう何もいらない。きらびやかさへの憧れも、もうない。

 洞窟に住む盲目の魚。ここの暮らしも悪くない。生きている意味の答えが、そこにあるのだから。


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