(1)
夏の日差しは容赦なく照りつけ、袖の境の、日焼けの具合が気になってきた。
スタジオは地下にあることもあり、空調完備で快適だった。
洋子は汗を拭い、一休みする。そこへ藤崎が缶ジュースを買ってきてくれた。
他の『cave fish』のメンバーは、それぞれ楽器の用意をしたり、チューニングしている。
ピアノはこの中で一番年上の金澤。短く刈り上げた髪、やや腹回りが出ていて、町中で見れば普通の中年男性だろう。
ドラムスは三十代前半の寺越。ドラムと聞けばパワフルなイメージがあったが、それほど腕は太くない。細やかな手さばきが得意らしい。
ベースはもっとも若い29歳の野中。パーマがかった黒髪で、細身で背が高い。この中で一際目立っていた。ベースといっても一抱えもある、オーケストラで見るようなタイプの、コントラバスとかウッドベースと呼ばれるものだった。
はじめは銘々にいじっていた四人だが、音を合わせる。
金澤のピアノから入り、寺越がリズムをつくる。それに野中のベースが加わって、藤崎のトランペットが歌った。
スタンダードナンバー『all of me』、1931年につくられ、今でも歌い継がれている。失恋の歌で、恋する男性に、すべてを捧げるのにと女性が嘆く。悲しげな歌詞でありながら、曲調は明るく、どこか吹っ切れたような、笑い飛ばすまではいかないまでも、前向きさを感じる。
これに洋子がボーカルラインをのせることになっている。
藤崎にいくつか、歌っているアーティストのCDを借りた。アーティストごとに歌い方や、楽器も異なり、同じ曲でありながら、まったく違う印象を抱いた。そこにジャズの面白さがあると思った。
五分もない、短い曲なのだが、はじめはこれで音を合わせようとなった。
「秋窪さん、こんな感じでお願いします。ジャズは感覚で、まったく同じやり方はありません。自分の感じるままに、音の流れで、即興で歌ってくれても大丈夫です」
列を乱すなと、体に叩き込まれてきた洋子にとって、そのスタイルは新鮮だった。不思議な立ち位置で、五人で向かい合うようにしていた。お互いの姿を見ながら、時に笑いかけ、音を外したのか顔をしかめたりする。
ピアノから入り、ドラムとベースのリズムが生まれる。
洋子は胸の高鳴りを感じた。体中に血液が送られる、それが感じられた。自分の体は自分のものだと、そんな当たり前のことが、実感としてわいてきた。
肺から空気が送られ、声帯を震わして声が出る。歌うということは、それ以上で、全身の動き、リズムをとる体の揺れ、顔の表情一つとっても、すべてが音色になる。
洋子は歌詞の意味を噛み締めながらも、溢れてくる喜びに、歌声は明るかった。
トランペットのソロが入る。洋子は藤崎に笑いかける。藤崎は眉を上げて返した。手首のスナップを駆使しながら、寺越も微笑む。その目は輝いていた。野中は性格だろうか、仏頂面だ。金澤は微笑みながらピアノを弾く。
洋子は、もともと声は高い方ではなかったが、タバコを吸っていたおかげか、低い声が出しやすかった。何度か家で口ずさんだ。イメージはできている。ブルースの、低く震わす声、それを意識した。
そして長いように感じられた四分と少し、歌いおえる。
「うん!」
ピアノの金澤がうなる。
藤崎たちは録音を聞く前から、興奮しているようだった。しきりに「すごい!」とか「いいな!」とうなずいている。
洋子は照れくさくなってうつむく。
寺越が立ち上がり、
「なんか、ぐっときました! さすがですね」
ここにいる全員は洋子の素性を知っている。それでもその言葉は、「佑月カンナ」ではなく、自分に向けられたものだと感じ、嬉しかった。
野中はウッドベースを抱えたまま、
「その失礼ですが、俺アイドルとか嫌いで、秋窪さんの聞いたことなかったんですよね。でも今のは、素直に格好良かったです。マジで秋窪さんにボーカルやってほしいです」
掛け値なしの賞賛に、洋子ははにかむ。
「藤崎さん、次のライブ、さっそく加わってもらいましょうよ」
そう言う金澤に、藤崎は困った様子で、
「そこは、秋窪さんが決めることで……」
「えっ? 駄目なの?」
しょんぼりした様子の金澤に、洋子は笑いかける。
「大丈夫ですよ! こちらこそよろしくお願いします」
頭を下げる。
寺越がドラムセットに戻り、
「よしっ! もう一回、音合わせましょうよ!」
そうして二時間ほど、いくつかの他の曲も練習した。
バーでの演奏は三十分。普段はプロが、一時間おきに演奏しているらしいのだが、常連だから特別に、その合間に入れてもらえていた。
練習が終わると、近くの居酒屋に入った。練習終わりの打ち上げだった。
全員での音合わせは、ライブまでに三回しか行えなかった。
その間、洋子は藤崎をつかまえて、曲の解釈や、表現の仕方を話し合った。
「そういえば、『cave fish』ってどういう意味なんですか?」
「“洞窟魚”って意味です。なんとなくつけただけで、深い意味はないんだけどね」
藤崎は照れくさそうに笑った。
「洞窟の魚は、光が差さないから、目が必要なくて、退化しているんです。その代わり、その環境に適した形に進化していて。それで僕らも、別にプロとか目指していないけど、あのバーみたいな空間に、適した形になっているんだ。っていう感じでつけました」
「素敵ですね。私も、こんなふうに歌っていられるのが、すごく楽しいです!」
「それは良かったです」
藤崎は微笑む。洋子も微笑み返した。
出番直前、黒のドレスを着た洋子。藤崎や金澤は背広で、野中はハットをかぶっている。寺越はベストにハンティングキャップ。
最初見た演奏の時もその格好だったが、実際に会って話した時のイメージが強い。楽器を持てば変わるが、目立つ野中をのぞけば、初対面のイメージでは、どこにでもいそうな普通の会社員だった。
こうして楽屋に待機し、勝負服に着替えた彼らを見ると、プロのアーティストのように見える。実際、彼らは本物だし、洋子は尊敬していた。
洋子は、久しぶりに舞台に立つ、それも初めてのスタイルで、緊張していた。ただこんなにも前向きに、緊張するのは生まれて初めてかもしれない。「佑月カンナ」の時は、失敗することに怯えていた。母親やダンスの先生、ユニットの先輩や、プロデューサーに怒られるからだ。落ちぶれたあとの、自分の正体がばれることの恐怖は、息苦しさとしてつきまとった。その息苦しさは、東京に戻って、再び現れた。
しかし今、失敗の不安がないわけではないが、それ以上に、期待と希望に胸を震わせ、この世界に連れてきてくれた藤崎や『cave fish』のみんなのために、何としても成功したかった。
誰かのために歌うこと。どう向き合えばいいか分からない感情の前に、緊張しているのだ。
そんな洋子の、強張った表情に気づいた藤崎は、
「秋窪さん、気持ちが大事です。僕なんかが偉そうに言うのもなんですけど、ジャズは深く考えず、その時の気持ちで歌うものです。言ってしまえば、何にも気にしなくていいんですよ」
藤崎は舌を出して笑う。
「もし音を外したら、笑えばいいんです。それも一つの流れですよ」
洋子は微笑む。藤崎の言葉は優しい。藤崎は「佑月カンナ」の記号で、洋子に興味を持った。しかしその記号がなければ、こうして一緒にはいられなかった。ずっとつきまとってきた、亡霊の影が消えた気がした。
今は藤崎は、秋窪洋子として見てくれている。等身大の自分の実力を評価してくれて、仲間に入れてくれた。
ずっと見下して、友達と思える人間が一人もいなかった洋子が、はじめて尊敬できると思った人だ。
藤崎の音にも現れるように、ジャズという音楽の性質のように、気ままに生き、それを形にしていく藤崎が眩しかった。
「これが終わったら、二人で話できませんか?」
それに藤崎はきょとんとする。金澤や寺越が肩をすくめて笑った。藤崎は照れくさそうに頭をかき、はにかみながらうなずいた。
洋子は、自分の気持ちに素直に、生きようと思った。
十年ぶりに立つ舞台は、今まで自分が立ったものの中で一番狭くて、観客も少なかった。その観客も、洋子を求めてきたわけではない。それは同時に、「佑月カンナ」の記号ではなく、純粋な音楽――洋子が見つけた自分が自分でいられる場所――を求めてやって来ているのだ。
洋子は音楽と同化する。自分を一つの楽器にする。それはユニットの一部ではなく、生きた楽器の一つとして。音は生きている。音を奏でるのは人間だ。繰り返しの電子音ではなく、その時の気持ちで音色を変える。ジャズとは生き物なのだ。
自分は細胞の一つ。洋子という声であり、人であり、楽器であり、『cave fish』の器官なのだ。
喉が熱っぽくなった。金澤の旋律、寺越のビート、野中のリズム。そして藤崎の――
歌詞の意味を深く噛み締める。悲しい歌だ。しかし歌が生きているのなら、その先に向かおうとするはず。あなたがいなくなっても、強く生きていくと。
歌はカタルシスだ。心の底に眠る感情を取り出して、それが悲しみなのだと、あるいは喜びや怒りなのだと、形を与える。それと向き合い、次へ向かう勇気をくれる。
だから洋子は『all of me』を、力強く、笑顔で歌った。「忘れてやるさ」ぐらいの気持ちで。
この世界にはきっと、素敵な出会いが待っている。
そのことを知った洋子は、もう亡霊に怯えなかった。
洋子は藤崎の胸に甘える。その背中を、藤崎のたくましい腕が抱く。その髪に唇を触れさせ、
「オーナー、すごく良かったって。また演奏頼まれたよ」
「よかった」
洋子は指を、藤崎の肩に這わせる。熱が、掌を通して流れ込んでくる。鼓動が聞こえる。熱は重ね合った部分からつながり、それは洋子の中の音にもなる。吐息が熱くなる。今、生きていることの幸せを感じた。
何のために生きるのか。何故生きなければならないのか。どうしてこの命に生まれたのか。洋子を憂鬱にさせる疑問は、藤崎の熱に溶けて消えた。
「私を見つけてくれてありがとう」
「うん?」
藤崎はきょとんとする。洋子は身を起こして微笑み、唇を重ねた。
もう何もいらない。きらびやかさへの憧れも、もうない。
洞窟に住む盲目の魚。ここの暮らしも悪くない。生きている意味の答えが、そこにあるのだから。