(2)
――あの頃はどんな夢を見ていただろう。
眠りが浅い所為もあり、最近は夢を見なくなった。
時折、内容を覚えていないが、何かに急き立てられるように、目覚めることがあった。そのたび、走った後のように鼓動は速く、全身に汗をかいていた。
それは今も昔も変わらない気がした。
あの頃は、睡眠時間なんて、三時間もとれない時があった。学校と活動、両立しがたく、ほとんど授業で寝ていた。
夢を見る暇さえなかった。引退した後も、つきまとう影に怯えて、安息はなかった。
喫煙の問題で家にいづらく、母親とは絶縁し、大学からは一人暮らしをした。学費と家賃は父親が出してくれた。
まず最初にしたことは、部屋から音をなくした。テレビも、ラジオも、CDは一枚もない。カラオケに誘われたこともたびたびあったが、すべて断った。家に来た友人は、その殺風景な様子に驚き、彼氏は表面上、気にした素振りも見せなかった。
この頃、もし夢を見ていたのなら、それは追い立てられる夢だっただろう。
洋子は事前に、必要な知識を確認する。
トキの生態だとか、歴史などを。そして絶滅した理由を。
「2003年、そんな前だったんだ」
最後のトキの名前は「キン」といった。
1968年に捕獲され、1995年に他のトキはすべて死に、最後の一匹となった。そして2003年に、突然飛び上がったキンは、ケージの扉に頭をぶつけ、頭部挫傷で死んだ。
洋子は口元を抑える。奇妙な感覚がした。老齢のトキが、飛び方を誤ったのだろうか。何かの病気で平衡感覚が奪われたのか。
鳥の群れが、ビルにぶつかったり、謎の大量死をすることがあるが、それは騒音によって追い立てられたり、電波による障害である。鳥は地磁気を見ることができる。それを目印に、渡り鳥たちは長い距離を移動する。だが携帯電話やテレビの電波で、磁気異常が引き起こされる。
キンは、ケージの中にいた。解剖の結果、臓器に異常は見られず、むしろ年齢の割に、健康な個体であった。
洋子の中には、強い孤独感と、飼い殺しにされた恐怖がこみ上げた。
繁殖を強制され、ケージの中で監視され続ける。
水槽の魚の気持ちは分からない。自由に泳いで、餌をもらえて、あれはあれでいいのかもしれない。
しかし空を知る野生の鳥が、絶滅に追い込んだ人間に、今度はそれを防ぐためと捕らえられて、自由さえも奪われた。そして同じ仲間は、すべて死に絶えた。
その孤独を思えば、恐怖さえも感じた。
――アイドルとして振る舞うことを求められる。
その記号が商標登録である限り、自分は商品なのだろう。
恋愛禁止で、交際を報道された同輩は、バッシングを受け、耐えられなくなり引退した。
ファンという買い手の要求から外れれば、誰も必要としない。仲良しの集まりでなく、そのグループ自体がブランドなのだから。
展示物として、凍結された“性”。欲しいのは生身の人間じゃない。誰もリアルを求めていない。
笑顔を求められ、その中身は問題じゃない。笑顔でいることが重要だ。リアルの感情は求めていない。欲しいのは振る舞いだ。綺麗であり、純粋であるという演技。
だが当時、それは苦でなかった。自分が注目されている、愛されているという快感があった。
一線を退いてみて、そんなことが考えられるのだ。洋子もまた、その行為は社会的に許されないことなのだが、買い手の要求から外れた。
誰もが純粋なモノが欲しい。すれた少女の偶像は、ブランドを汚すだけだ。
飼い殺しにされた少女たちの“性”を、彼らは貪る。
それを悪いことだとは思わない。その欲望を貪る側にいるのだから。
ただもしも、貪られるだけだとしたら、これほど辛いことはないだろう。
偶像として振る舞い続け、そうした果てにあるのは、何もない、空虚な自分なのだから。
洋子が偶像として振る舞っている間に、同じ年頃の友人たちは、恋をしたり、傷ついたり、成長していく。
線から外れ、追放された洋子は、自分が世界に隔絶されたような、そんな錯覚を覚えた。
栄光を掴めたのならまだしも、好奇と嘲笑の、孤独の海に投げ落とされた。
この世界は巨大なケージで、まるで一人、違う生き物の群れに混ざっているような気分だった。
すべての撮影を終え、それでも洋子の胸のつかえはおりなかった。
質問することは、藤崎が用意したもの。取り立てて洋子も、自己主張しなかった。
演じることに慣れている。逆に言えば、演じることしかできない。
求められる通りに生きる、それが一番楽な生き方だと知っていた。
洋子はタバコを口に運ぶ。
隣の藤崎が気まずそうな顔をした。
「感じの良いバーですね」
「よく来るんですよ」
撮影の終わりに、藤崎に誘われた。また仕事を組むこともあるだろうし、親しくなって損はない。接待も慣れていた。
藤崎に連れてこられたバーは、ジャズバーで、レトロな雰囲気だった。二人はカウンター席に座っていた。
「少し失礼します」
来て早々、藤崎は立ち上がる。トイレだろう。洋子はにこやかにお辞儀した。
タバコを一吸いし、半ばほどで揉み消す。
しばらくしても藤崎は戻ってこない。大きい方だろうか。
そのうちに演奏が始まる。ピアノの軽快なリズム。トランペットの流れるような音。硬質のリズムを刻むドラム。ベースの低いリフ。
洋子はその演奏に聴き入る。音楽は嫌いになったが、それはデジタル化された音だ。クラシックや、生の楽器の音は、聞いてて不快にならない。細胞の一つ一つに染みついた、電子音への嫌悪が、洋子を音から拒絶させるのだ。
めったに音楽を聞くこともない。これを聴きに来ただけでも、甲斐があると思えた。洋子はちゃんと聴こうと振り向く。そして驚く。
穏やかな照明の下、舞台の中央で、藤崎は直立し、力強くトランペットを吹いていた。休みの時はリズムを取り、照明に映し出される彼の姿は、眩しく見えた。そして笑顔を洋子に向ける。
曲は二つほど。落ち着いた曲と、少しコミカルな曲。十五分ほどで、演奏は終了した。
藤崎は照れ笑いを浮かべながら、
「すみません、退屈させてしまって」
「そんな、素晴らしい演奏でした!」
「僕たち、ここの店の常連で、ときどき演奏をやらせてもらってるんです」
藤崎のバンドメンバーは、藤崎が洋子と話しているのを見て、肩をすくめて舞台裏に退場する。
「いいんですか、皆さん」
「大丈夫です。今日は秋窪さんに、聞いてもらいたかったんです」
「ありがとうございます」
本心から出た言葉だった。
「高校の頃、トランペットをやっていまして」
「それですごく上手なんですね」
「といっても、社会人になってから再開したんですよ。ジャズバーに来たのがきっかけで、ジャズやりたい! って思って。メンバーもみんな社会人で、ネットで集まったんですよ」
「すごいですね」
「といっても、仕事の関係でなかなか集まれないんですが、月に数回集まって音を合わせたり、こうして演奏させてもらってるんです」
「けっこう長いんですか?」
「もう、五年ぐらいになるんじゃないかな? 今のメンバーが揃うまで、だいぶ時間がかかりましたから」
「でも、羨ましいです。こうして演奏して、すごく楽しそうです」
羨ましい、そう思ったのは何年ぶりだろう。誰かの成功を妬むことはあっても、そんな感情は久しぶりだった。
藤崎は照れながら、
「あの、それでですね」
「はい?」
ためらいがちに、洋子を見る。
「その、もし良かったら、ボーカルに入ってもらえないでしょうか? いや、その、話半分にでいいです。その気が向いたらでも。その、たまにでもいいんで。少しやってみて、嫌でしたら、遠慮しなくていいですし」
藤崎はしどろもどろになる。
藤崎の不安とはよそに、洋子の胸は高鳴っていた。その興奮を、自分でももてあました。
「あの、少し考えさせてもらっていいですか?」
思わず声がうわずる。
「どうぞ! 気が向いたらでいいので」
藤崎は引きつりそうになりながら、必死に笑顔をつくっていた。
洋子も、仮面は外れ、どうしたらいいか、呆然としていた。
洋子は枕に顔を埋める。
引っ越して三ヶ月以上経つが、まだ梱包された荷物を、ほとんど開けていなかった。最小限の、ベッドやテーブル、食器を出しているだけだった。テレビが出してあるのは、仕事上、見る必要があったからだ。
洋子はベッドの上でもじもじする。藤崎の誘いは、快諾するつもりだ。ただ自分の中の、感情と向き合うのに必死だった。
もう十年は歌っていない。カラオケは、音の理由で入れない。それにジャズの歌い方とか分からない。
とりあえずCDを買いに行こう。音楽を聞かなければ映画も見ない。レンタル店のカードは持っていないので、手当たり次第に買うしかない。何がおすすめか、藤崎に聞こう。どんなスタイルでいくのかとか、練習はいつかとか。
ただ歌えるかどうか、不安でしょうがなかった。またあのバーに連れて行ってもらって、他のバンドの雰囲気や、ボーカルがいれば参考にしよう。
そこで洋子はごちゃごちゃ考えず、弾かれたように腹筋を始める。声を出すためには、腹筋が重要だ。体のバランスも関係してくる。食生活も見直さねば。酒は飲まない、タバコも吸わない。
そんなことを考えながら、眠っても、口元は綻んだままだった。