5 魔物複写
俺は牙狐の死体を見下ろした。
もちろん肉を口にしたことはある。
生きるために、必要な分だけ。匂いが残らない量だけ。
でも、それは“食事”だ。
こいつは違う。
鑑定眼の表示が、まだ視界の端に残っている。
《魔物複写 発動条件:完全摂取》
……完全。
俺の喉が、勝手に鳴った。
胃の奥がきしむ。吐き気が先に来る。
全部。骨も、皮も、血も、臓器も。
残さず取り込めという意味だろう。
理屈は分かる。
抜け道がないからこそ、力の代償として成立する。
でも――やりたくない。
“食う”のは嫌だ。
そして“全部”はもっと嫌だ。
俺は牙狐から視線を外し、森の暗さに目を向けた。
ここで躊躇している時間が、一番危険だ。
血の匂いが広がる。呼ぶ。
呼ばれて困るのは、俺だ。
合理的に考える。
リライトを使わないなら、俺の戦力は伸びが鈍る。
鈍れば、いずれ死ぬ。
この森は、ずっと同じ難易度じゃない。奥には環境が削る場所があって、その向こうには“致命”がいる。
今の俺が生き残っているのは、まだ“中”と“高の端”で収まっているからだ。
それが崩れた瞬間、槍一本じゃ足りなくなる。
……つまり、選択肢は一つ。
やる。
俺は牙狐の死体に手を伸ばし、指先を肉へ触れさせた。
冷たい。
血の粘りが指に絡む。
その瞬間――腹の奥が“冷える”。
クリエイトの熱とは違う。
熱じゃない。影でもない。
何かを読むような、引きずり込まれる感覚だ。
俺は意識を一点に絞った。
――リライト。
視界の端に、短い表示が重なる。
《魔物複写 起動》
《条件:完全摂取》
《…開始しますか》
開始しますか、なんて選択肢があるのが逆に悪趣味だ。
俺は答える。声じゃない。意図で。
――開始。
次の瞬間、俺の口元から黒い膜が滲んだ。
それは霧みたいに薄いのに、確かに“何か”だった。
膜が牙狐の死体に触れると、肉が溶けるように輪郭を失い、黒へ落ちていく。
俺は反射で喉を鳴らした。
飲み込む。
口に肉の感触はない。噛む必要もない。
ただ、胃の奥へ“重さ”だけが落ちてくる。
――気持ち悪い。
吐きそうになる。
だが吐けば不発だ。残滓が残る。条件を満たせない。
俺は呼吸を止め、喉を動かし続けた。
黒い膜が広がる。
皮も、肉も、骨も、臓器も、血の溜まりも――形を失って吸い込まれていく。
時間が長い。
体感で、数十秒。いや、もっと。
その間、俺の周囲の音が遠くなる。
意識が一点に固定される。視野が狭くなる。
……危ない。
今、何かが来たら終わる。
だけど止められない。止めたら無駄になる。
喉が焼ける。
胃が裏返りそうだ。
全身に汗が浮くのに、身体が冷たい。
それでも、最後の欠片が消えた。
地面に残ったのは、血の染みだけ。
肉片はない。骨の白もない。牙すらない。
視界に表示が浮かぶ。
《完全摂取:達成》
《魔物複写 成功》
《複写対象:牙狐》
《特性取得:牙/跳躍》
《複写枠:1/1》
《魔物複写 熟練 +?》
……枠。
つまり、今は一つしか保持できない。
保持を増やすには、リライトのレベルを上げる必要がある。
俺は膝をついた。
吐き気が遅れてくる。胃が波打つ。喉が酸っぱい。
それでも――得たものがある。
俺は震える手で鑑定眼を開き、自分を見た。
自分
HP 10/10
攻 2 防 2 敏 3
創生容量(C) 6/12
帯域(B) 余裕:低
状態:軽度疲労(精神)
身体の数値は変わらない。
本体が強くなるわけじゃない。そこは、変わらない。
でも、視界の端にもう一つ表示が増えていた。
《複写:牙狐(保存)》
《使用:生成時に適用》
……なるほど。
リライトは、俺自身を強くするスキルじゃない。
俺が“作るもの”を変えるスキルだ。
つまり――
今の俺は、牙狐を“作れる”。
槍一本で戦っていた俺が、次は“牙と跳躍を持つ個体”を出せる。
それは、本体が弱いままでも戦い方が変わる。
ただし代償は重い。
完全に飲み込む。無防備になる。気持ち悪い。精神が削れる。
……それでも。
俺は口の端を拭い、立ち上がった。
効率は、感情より上だ。
感情で判断が遅れた瞬間に死ぬ。
俺は周囲の気配を探り、匂いの薄い方向へ移動を始めた。
今日はもう狩らない。
今の状態で欲張れば、死ぬ。
寝床へ戻って休む。
そして明日――確かめる。




