15 灰紫の指(リシア視点)
息が、できる。
それがいちばん、こわかった。
森の霧はまだ濃い。肌にまとわりつく冷たさも、鼻の奥の湿り気も、何も変わっていないのに――胸の中だけが軽い。さっきまで、吸っただけで痛かったのに。
私は自分の手を見た。
灰紫。薄い色。血の色が遠い。指先は少し尖って、爪は黒い。触れると硬いのに、ちゃんと温かい。
……これが、「魔物」。
頭の奥で、言葉だけが浮かぶ。
でも実感は追いつかない。実感が追いつく前に、足音が来る。
「来る。今度は数だ」
彼の声は、いつも短い。
短いのに、身体が勝手に動く。命令だからじゃない。従うと“生きられる”と分かってしまっているからだ。
私は深呼吸した。
霧が肺に入る。……痛くない。咳も出ない。
怖い。
嬉しい、より先に怖いが来る。
「……わかった」
自分の声が、ちゃんと音になった。掠れているけど、言葉として届いている。
それだけで涙が出そうになるのに、彼は振り返らない。
振り返らないまま、手首を掴んで引く。
強い。冷たい。迷いがない。
迷いがないのが、少しだけ救いだった。
迷われたら、私はきっと、立っていられない。
⸻
木々の間から、影が揺れた。
最初に見えたのは目。黄色い光がいくつも、低い位置で瞬く。
狼。
数が多い。
でも、普通の狼じゃない。体の輪郭が霧と混ざって、どこまでが毛でどこからが霧か分からない。
私は反射で後ずさった。
足がもつれて、転びそうになる。
その瞬間、彼の声が落ちる。
「止まるな」
叱られたみたいで、胸が縮む。
でも次の瞬間、私は気づく。叱ってるんじゃない。止まったら死ぬから言ってるだけだ。
……それが彼だ。
私は唇を噛んで、足を動かした。
怖いのに、身体が前へ出る。
霧の中で、彼が“何か”を作る気配がした。
目に見えないのに分かる。あの影が、糸みたいに伸びる感じ。胸の奥がざわつく。
狼が跳ぶ。
――速い。
私は思わず息を止めた。
止めた瞬間、彼の手が私の肩を押す。岩陰へ押し込むみたいに。
「隠れろ」
隠れる。
隠れるって、どうやって? と思うより早く、私は岩の冷たさに背中をぶつけた。苔が服に貼り付く。
狼の足音が近い。
歯が擦れる音。唾液の匂い。心臓が跳ねる。
でも、咳き込まない。
霧が苦しくない。だから、恐怖だけが増える。恐怖を“そのまま”感じてしまう。
――逃げなきゃ。
そう思った瞬間、狼の一匹が岩陰へ顔を突っ込んできた。
黄色い目が、私を見た。
私の喉がひゅっと鳴る。声にならない。
その狼の首に、黒い線が絡んだ。
影の縄。
狼は首を振り、跳ね退こうとする。
でも縄が、引っ張ってはいないのに“ほどけない”。絡むというより、重さを増やしているみたいに。
狼が転ぶ。
地面に顎を打って、呻く。
私は見てしまった。
狼が“可哀想”だと思う前に、もう一匹が来る。
今度は彼の背中へ。
背中が薄い。――この人、強くない。怖いほど分かる。
なのに、彼は逃げない。
彼は半歩だけ動いて、狼の噛みつきを外す。
半歩。たったそれだけ。
それなのに、狼の歯は空を噛んで、苔を削る。
彼の動きは派手じゃない。
むしろ、地味。小さい。音がしない。
でも、その小ささが、私には恐ろしい。
失敗が許されない動きだからだ。
彼が影で、もう一本の縄を作る。
狼の脚に触れる。狼が跳ぶ。跳んだ着地が滑る。
その瞬間、彼が狼の鼻先へ短い槍を突き出した。
槍は深く刺さらない。刺さらないのに、狼は怯む。目を閉じる。
痛みじゃなくて、“怖さ”で止まったみたいだった。
彼は追撃しない。
倒すためじゃない。近づけないための動き。
……それを見て、私は気づく。
彼は狼を殺したくないんじゃない。
“今は”殺せないだけだ。
必要があれば、きっと殺す。
さっき、私を助けるために人を殺した。私は知らないけど、知ってしまう。彼の目の奥に、その“決めた”跡が残っている。
怖い。
でも――その怖さの向こうに、別の感情がある。
私を置いていかない、という怖さ。
⸻
狼の群れが、少し離れた。
近づいては、縄や滑りで止まり、すぐに引く。何度か繰り返すうちに、群れの足音が散っていく。
彼は私の方へ手を伸ばした。
「立てるか」
私は頷いた。
立てる。立てるけど、足が震えている。
彼は私の手首を掴んで引いた。
その手が、ちゃんと人の手みたいに温かいのが、逆に変だった。
「……わたし、足手まとい……?」
口から出た瞬間、恥ずかしくなる。
奴隷の言葉だ。役に立つかどうかで自分を測る癖。
彼は一瞬だけ止まった。
そして、いつもの短さで言う。
「死なれると困る」
優しくない。
でも、否定じゃない。
私は、それが嬉しいのか分からないまま、喉の奥が熱くなった。
「……うん」
霧の中で、私はもう一度自分の手を見た。
灰紫の指先が、震えている。
魔物になっても、私は私だ。
怖いものは怖い。泣きたいものは泣きたい。
でも――息ができる。
だから、もう一歩だけ。
彼の背中を見失わないように、私は足を前へ出した。




