14 リシア
“重い”足音が、霧の向こうで止まらない。
枝が折れる音が太い。地面が沈む。
対象:霧角鹿(中魔)
HP 24/24
攻 8 防 6 敏 6
特性:突進/霧角/耐痛
危険度:致命(対単独) 誤差:低
眷属化が終わっても、俺の本体が強くなったわけじゃない。
当たれば死ぬ。だから受けない。
俺はリシアの腕を掴んだ。
掴んだ瞬間、指先が僅かに硬い。爪が黒く、触れた皮膚が冷たいのに――生きた体温がある。
リシアは自分の手を見下ろしていた。
色が抜けた肌。指先の鋭さ。呼吸をしても、霧で咳き込まない。
それが、怖いのか。
それとも、安心なのか。
瞳が揺れている。焦点が合っていない。
でも、俺を見上げた時だけ、焦点が合う。
「……いま……わたし……」
言葉になりかけた声を、霧角鹿の鼻息が叩き潰した。
霧が割れ、黒い角が見える。
俺は短く切る。
「走る。喋るな。息だけ」
リシアは一瞬だけ口を閉じ、喉を鳴らして頷いた。
「……うん」
霧角鹿が頭を低くする。
突進の姿勢。
俺はリシアの背を押し、岩陰へ滑り込ませた。
直線を外す。角度を切る。
影で縄を一本だけ作る。
拘束じゃない。脚の角度を崩すための一本。
縄を地面に這わせ、霧角鹿の前脚のラインへ置く。
霧角鹿が踏み込む。
縄が脚に触れ、絡む。止まらない。止まらないから重心がズレる。
突進が一拍だけ鈍る。
その一拍で、俺はリシアの手首を引いた。
走らせる。速度じゃない。“線”を切るために走る。
リシアの足取りはまだぎこちない。
でも倒れない。転ばない。呼吸が続いている。
――耐性が効いてる。
それだけで価値がある。
リシアが走りながら、自分の胸元を押さえた。
さっきまでの“苦しい”がないことに戸惑っているみたいに。
「……へん……」
声が漏れた。
俺は即座に切り返す。
「今は考えるな。後で」
“後で”という言葉が、リシアの瞳を一瞬だけ明るくした。
後がある。生き残れる前提の言葉だからだ。
その表情が、すぐに霧角鹿の咆哮で消える。
角が岩を抉る音。石が飛ぶ。
近い。怖い。近い。
リシアが息を吸った。
咳き込まない。吸って、吐ける。
それでも、肩が震える。
霧じゃない。恐怖だ。
「……こわ……」
小さく漏れた声は、子供みたいだった。
16歳くらいだろうか。普通ならここにいるだけで壊れる。
俺は冷たく返した。
「言うな。呼吸だけ」
合理だ。恐怖は呼吸を乱す。呼吸が乱れれば体が削れる。削れたら次は死ぬ。
……でも、切り捨てた直後に胸が痛む。
守りたい、みたいな余計なものが混ざる。
それが判断を鈍らせる。だから嫌だ。
リシアはそれでも頷いた。
唇を噛んで、声を飲み込んだ。
「……ん」
強い。
強いというより、強くなろうとしている。
⸻
霧角鹿が追ってくる。
突進は失敗したが、歩みで詰めてくる。角度を取り直すつもりだ。
このまま逃げるだけだと、いずれ直線を作られる。
一度でも突進が通れば、俺かリシアが終わる。
だから逃げ方を変える。
“突進できない地形”へ誘導する。
俺は沢へ向かった。
水の匂いは匂いを散らす。足場は滑る。直線が殺せる。
リシアが沢を見て、顔を青くした。
足が止まりそうになる。
俺は手首を強く引いた。
「止まるな」
強く言い過ぎた。
だが止まったら死ぬ。
リシアは一瞬だけ俺を見て――歯を食いしばり、沢を跳び越えた。
躊躇いが遅れてくるタイプだ。判断は速いが、感情が追いつかない。
良い。
今はそれでいい。
霧角鹿が角を擦る。苛立ち。
それでも突っ込んでくる。
俺は沢手前で一度だけ立ち止まった。
怖いが、ここで角度を変えないと終わる。
影で縄を一本、霧角鹿の角先へ投げる。
絡める必要はない。触れればいい。
縄が角に触れた瞬間、霧角鹿は反射で首を振る。
進路が僅かにズレる。
ズレた先が、沢。
霧角鹿が沢へ踏み込み、足を滑らせた。
転ばない。だが速度が落ちる。突進が“歩み”に落ちる。
――取れた。
俺は沢の反対側の岩陰へ入り、リシアを押し込む。
水の匂いで生臭さが薄まる。霧角鹿は鼻を鳴らして探すが、角度が作れない。
しばらくして、霧角鹿は苛立ったように地面を蹴り、霧の中へ戻っていった。
効率が悪い獲物だと判断した。
……勝った。倒していない。追い払っただけ。
それでいい。
リシアが岩陰で膝を抱えた。
呼吸は続いている。霧に咳き込まない。だが指先が震える。
「……ごめ、んなさい……」
突然の謝罪。意味が分からない。
「何に」
俺が聞くと、リシアは自分の手を見つめた。
「……わたし……へんなのに……たすけてもらって……」
……そういうことか。
リシアは“変わった”ことを理解している。
そして、それが価値を下げると思っている。
奴隷だった思考だ。
“役に立つかどうか”で自分を測る癖。
俺は答えを迷った。
合理だけで言えば「役に立つから助けた」が最短だ。だが、それは今後の地雷になる。
俺は別の結論を選んだ。
「死なれると困る」
事実だ。俺一人だと索敵も補助も足りない。
それに、もう――戻れない方向へ来た。
リシアの瞳が少しだけ丸くなる。
期待した言葉じゃない。でも、否定でもない。
「……うん……」
リシアはそれ以上言わず、呼吸を整えた。
自分で、自分を立て直そうとしている。
その直後、霧の奥で別の音がした。
足音が多い。枝を踏む数が違う。
群れ。
俺はリシアの手首を掴み直し、立たせる。
「来る。今度は数だ」
リシアは一度だけ深呼吸し、頷いた。
「……わかった」
眷属になって最初の“返事”がそれなら、悪くない。




