10 人間
担架は軽い。
軽いのに、腕が重い。
荷物が増えたからじゃない。
選択肢が減ったからだ。
リシアは息をしている。だが浅い。
歩けない。喋れない。たまに指が布を掴み直すだけ。
――生きたい、って意思だけは残ってる。
だから運ぶ。
運ぶと決めた以上、次に考えるのは「どう生き残るか」だ。
裂牙熊を倒した場所から離れる。
血は呼ぶ。魔物も、人間も。
俺は風下を維持しつつ、根の上を渡った。
柔らかい地面は踏まない。足跡が残る。
落ち葉の厚い場所は避ける。音が出る。
それでも、背後で乾いた擦過音がした。
金属が葉を踏む音。
獣じゃない。人間だ。
……来たか。
俺は止まらない。止まれば包まれる。
走らない。走れば音が増える。
歩幅だけを詰め、呼吸を殺す。
耳を澄ませる。
複数。
足の揃い方が雑だ。軍じゃない。
だが慣れている。森に慣れている。
声が聞こえた。
「……熊の血、まだ新しいぞ」
別の声。
「派手にやったな。――囮は?」
囮。
リシアのことだ。
やっぱり、あいつらは“救う”気なんてない。
俺は歯を食いしばった。
怒りは判断を遅らせる。だから捨てる。捨てて、次。
まず、匂いと足跡を散らす。
沢は避ける。匂いが集まる。待ち伏せにも向く。
代わりに、風の通る尾根へ上がる。匂いを散らす。
担架の紐が掌に食い込み、皮が擦れる。
痛い。だが痛みは情報だ。まだ動ける。
背後の声が近づく。
「足跡、運んでるな」
「生きてりゃ上出来だ。回収して帰るぞ。縄と杭は全部持ってけ」
回収。
道具の回収。証拠の回収。――人の回収。
リシアは物だ。
俺の中で、合理が暴れる。
ここで捨てれば、生存率は上がる。
……捨てない。
捨てないなら、やることは一つ。
追う価値を下げるか、追える状況を壊す。
俺は地形を選んだ。
倒木が多い斜面。見通しが悪い。隊列が崩れる。
だが、相手も学習している。
前方に影が立った。
背の低い男。革の鎧。手に短弓。
こいつ、回り込んで待っていた。
目が合った瞬間、男の顔が変わる。
驚きじゃない。理解だ。
「……は?」
次に来たのは嫌悪。
「人、じゃねえ……?」
俺は鑑定眼を開きたい衝動を抑えた。
今やると情報に溺れる。まず距離。
男が弓を上げた。狙いは俺じゃない。担架。
リシア。
最悪。
俺は短槍を作らない。作る一瞬で終わる。
代わりに、影で薄い“板”を生成して担架に被せた。
矢が板に当たり、甲高い音を立てて逸れた。
男が舌打ちし、次の矢を番える。
「それ、返せ」
声が軽い。人の命に重さがない声。
「こっちは金払って“借りて”んだよ。囮役は高ぇんだ」
借りてる。
背後に取引がある。組織がある。
この場で殺すのは簡単だ。
でも殺せば、集団が“確定”で俺を潰しに来る。
今の俺はそれを受けられない。
だから、折る。
俺は牙狐を一体だけ生成した。
短時間で終わらせる。帯域を重くしない。
――脚。噛むな。体当たり。
牙狐が跳び、男の膝へ体重をぶつけた。
男が体勢を崩し、矢が地面に刺さる。
俺はその隙に担架を木の陰へ滑り込ませた。
視線を切る。狙いを失わせる。
男が怒鳴る。
「出てこい!」
背後から足音が増える。
仲間が来る。囲まれる。――時間がない。
俺は影で縄を作り、地面を這わせた。
根に絡ませ、男の足首を取る。
男が転ぶ。
「くそっ……!」
俺は槍を作らない。
代わりに、落ち葉を蹴り上げて視界を潰し、牙狐を“顔”へ跳ばせた。
――怖がらせろ。噛むな。
牙狐が視界に飛び込み、男が反射で腕を上げる。
弓が落ちる。
その瞬間、俺は男の背後に回らず、距離を取ったまま言った。
「追うな」
男が唾を吐いた。
「化けもんが……!」
その言葉を無視する。
反応した瞬間、心が動く。心が動けば判断が遅れる。
足音が迫る。三人以上。
今ここで戦えば長引く。長引けば終わる。
俺は牙狐を消し、担架を掴んだ。
走る。
今だけは走る。音より距離が優先だ。
枝が割れ、怒号が飛ぶ。
「こっちだ!」
「囮を持ってかれたぞ!」
「逃がすな、回収だ!」
回収が目的なら、諦めない。
つまり――追跡は続く。
俺は走りながら、自分の残量を見る。
自分
創生容量(C) 10/18
帯域(B) 余裕:中(消耗)
半分。
まだ戦える。
でも守る対象がいる。守りながら戦うのは単純に難易度が跳ねる。
担架の上で、リシアの唇が震えた。
薄い声が漏れる。
「……また……つれて……いかれる……?」
俺は答えなかった。
答えるより、行動で示す方が早い。
追手の声がさらに近づく。
次は――逃げ切るだけじゃ足りない。
追えなくする必要がある。
そしてそれは、いずれ――
人間と真正面から噛み合うってことでもあった。
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