第8章 禍根Ⅸ ~ 逃げる英雄
老剣士の動きはまるで水面を滑る光のように滑らかで、その刃の一撃一撃は何の障害もなく吸い込まれるかのようであり、苛烈で鋭い。
帝国兵士らが張っている簡易の魔導防御結界などものともせず音も無く滑り込み、一瞬で五人の兵士全てに剣閃が走った。
~本文より
オルクス・フルミニスは、木製の小さなテーブルに腰掛け、赤ん坊の王子を籠ごと腕の中に抱きながら、静かに新鮮な乳母山羊乳を小瓶に移していた。
赤子の小さな指が、老いた指を握った。力は弱いが、その温かさが胸に沁みた。
王子は穏やかに眠っており、宿の灯りの揺らめきが赤ん坊の頬に柔らかな影を落とす。
ルミナリスもルルリアもおらず、うるさくああだこうだともっともらしくしかられることが無い。
まあ久しくそのようなことはなかったので今の旅は新鮮ではあるが、ほっとする部分もある。
齢を重ねた伝説の剣士でもそこは変わらない。
耳がかゆくて目深にかぶっていた帽子から、ついうっかりとエルフの耳が零れていたが、誰も見て見ぬふりをしていた。もともと王国時代からの栄えている港町だ。
エルフ族に関しては偏見どころか誰もが皆敬意を払っている。
港町ベリスティアの安宿『鴎亭』は裏通りに面し、旅人よりも港で働く労働者たちが主に利用する場末の宿だった。逆にそれが目立たず、帝国の目もあまり届かない利点となっていた。
だが、今宵は違った。
「おい、じじい……そこ、空けろよ」
質の悪そうな人間種アリシノーズの帝国兵たちが、酒瓶を片手に入ってきた。酔っている上に随分と居丈高な正規兵だ。背中には帝国の軽歩兵章が縫い付けられている。総勢五人。
「……他の席も空いておるが?」
オルクスは柔らかに応じた。声は低く、しかし老いてなお威厳に満ちている。だが、兵士たちは老人を侮っていた。
「耳が遠いのか? ここがいいって言ってんだよ。ガキの寝床なんざ、俺たちの酒盛りには邪魔だろうが」
一人が机を足で蹴り、もう一人が王子の入った籠に手を伸ばそうとする。
その瞬間——
「……それ以上、手を伸ばすな」
オルクスの声音が一変した。
兵士たちはその声に戦慄を覚えたが、それを振り払おうと余計に嘲笑った。
「なあ? おいおい、護衛気取りか? 老いぼれが。ここは俺たち帝国の町だ。王国はもうないぞ、偽人族め」
それでもオルクスは席を立たなかった。あくまで穏やかなまま、腕の中で赤ん坊を守るように軽く抱き直す。
「ならば、せめて子に害だけは加えぬよう願いたい」
「うるせえっ!!」
男たちの一人が苛立ち混じりに拳を振り上げ、オルクスの頬を殴りつけた。乾いた音が安宿に響く。
しかし、オルクスは微動だにしなかった。赤ん坊を抱いたまま、静かに立ち上がる。
「満足したかの? 爺は退散するから許してくれ」
そう言ってその場を立ち去ろうとしたところに、怯えをごまかし、無理やりに勢いをつけた若い兵士が剣を抜いて、
「わからねえエルフのジジィだな。お前の態度が気に入らねえんだよ」
悪意にまみれた言葉を吐き捨てると王子の入った籠へと刃を向けた。
侮蔑だけではなく、明らかに怯えから来る殺意のこもった刃を英雄が見逃すはずもない。
——次の瞬間、光が舞った。
袂から僅かに覗いていた短剣が瞬時に抜かれ、帝国の魔導封印の結界を滑るように切り裂きながら、渦を巻くように五人の兵士へ刃を振るう。
老剣士の動きはまるで水面を滑る光のように滑らかで、その刃の一撃一撃は何の障害もなく吸い込まれるかのようであり、苛烈で鋭い。
帝国兵士らが張っている簡易の魔導防御結界などものともせず音も無く滑り込み、一瞬で五人の兵士全てに剣閃が走った。
いずれも声を出す閑すら与えられず、寸分違わず的確に急所を刺し貫かれ、瞬きの間に絶命した。
自分も床も血で汚れることもほぼないように冷徹に仕留めている。
「………不埒ものめらが」
オルクスは、剣を静かに収め、周囲の客たちは遠巻きに眺めていたが、騒ぎ立てる者は誰もいない。
それどころか、見るからに強面の男たちが、すぐさま駆け寄るや兵士たちの身ぐるみを剥ぎはじめ、持ち物を検分し始めた。動きに迷いや無駄がなく、随分と手馴れている。
訓練と実践を相当に積んでいる者たちだ。
検分をしていた若い男が年かさの海風に焼けた肌の大男に声をかけた。
「オヤジ、やっぱり、威張り腐っていた阿呆に〝報せ札”がついています」
報せ札—— 帝国がアリシノーズ階級の兵に持たせる魔導符であり、所持者の死を感知すれば、即座に座標を帝国魔導機兵へ報せる厄介な機能を持つ“札”だ。
当然、報せを受けた魔導機兵が急行してくるというものである。
年かさの男が、ちっと舌を鳴らすと、
「報せ札はその辺の目立たない路地の隅へ放って、あとは全部まとめて海へ放り込んでおけ。誰も何も見ちゃいねえから、帝国の糞に話すことなんざ何もねえしな」
オヤジと呼ばれた年かさの大男が、ぎろりとオルクスを睨みつけたと思えば、帝国兵たちの持っていた金袋を集めてまとめると自分の金袋も加えてオルクスに手渡し、小さく耳打ちした。
「英雄様でも旅に金は要り様でしょうから、持って行ってやって下さい。呪いがかけられているかなんて、俺には判らねえが、伝説のお方だ。何とかなさるでしょ。お伽話の英雄様に恩を着せられたら、この先死んでも自慢できまさぁ。残りは俺らで始末しておきますんで」
粗暴な海賊のような見かけによらず、しっかりとした気遣いをみせると、店主に目配せする。
店主も頷いて、声をあげた。
「ほら、今日はもう店じまいだ。皆、何もかも忘れて、帰った帰った」
オルクスは、耳を軽くかきながら、胸に抱いた籠をしっかりと肩紐で結び直す。
籠の中では守護の神玉を抱えたまま赤子が、すやすやと寝息を立て眠っていた
「済まぬな……皆、迷惑をかける。あとこれも貰っていこう」
オルクスはそう告げると、果物かごから、黄色くて酸味の強い果実キルナを三つほどカバンにいれ、金貨を弾いて店主に向けて弾いて渡した。
亭主は造作もなく受け止めると、さらに手を出して金貨の追加を要求する。
「ふっ、仕様があるまい。ほれ」
さらに二枚の金貨が投げられ、店主は満足げに受け取り、厨房裏から外へと繋がる裏口を無言のまま、瞳で示した。
オルクスは目線でうなずき、荷を背にして、裏口から宿の路地へと抜け出た。
外の夜気は海風を孕み、潮の匂いが鼻を刺す。
オルクスは黄色いキルナを一つ取り出し、齧ると強すぎる酸味に顔をしかめながら、宿の角にある植込みの樹の枝に突き刺し、直ぐ近くの枝を一本折り曲げた。
「ルミナ嬢ちゃんなら……王家の密語、カントゥス・レガリスを知っておるじゃろう。気付いてくれよ」
オルクスは仄かな魔力を果実に込めると、微かな溜め息を一つついて、赤ん坊を再び抱え直した。そして軽々と飛び上がり、屋根から屋根へと音もなく跳んで、森の方角の闇の中へと滑り込むように姿を消した。
次回、ルミナリスとルルリアは今回の騒ぎを知り、オルクスと合流しようとしますが、帝国の手が伸びてきます。
ここまで読んでいただきありがとうございます。楽しめて貰えたなら、とても嬉しいです。




