第8章 禍根Ⅱ ~ 皇帝と悪魔
現れたのは、男とも女ともつかぬ妖艶さと言葉どころか視線さえ怯ませる威容を備えた悪魔──マラキ・バール・ゼバオット。
女も男もその色香に惑うような妖艶な貌に物憂げな表情を浮かべながら、どこか古代の神像めいた威厳と毒を備えたその存在は、絹のような声で、低く答えた。
「……我が“契約主”、レヴィ・ハジェル陛下。何か用か?」
~本文より
帝都アウレウス・マグナの中心にそびえる威容の帝城『レグナム・オリュクス』。
その最深部──陽光すら届かぬ帝室居所は、沈黙そのものが鎖のように重く垂れ込める。
端正に彫り上げられた貌を持つ男──皇帝レヴィ・ハジェルは、珍しく眉間に皺を刻んでいた。
鋼色の双眸はわずかに陰を増し、整った眉の下で研ぎ澄まされた刃のような光を宿す。
その立ち姿は直線で構成された彫像のようで、無駄な動きひとつなく、それだけで空間を支配していた。
広大な室内は冷ややかな石造りの壁に囲まれ、調度は最小限。整然と並ぶ書架、磨き抜かれた鋼鉄の机、そして皇帝が稀に腰を預ける長椅子が一つ──すべてが主人の性格を映すように感情の置き所を拒んでいる。
その「動かぬ岩」のような男が、不快の色を纏っていた。
「……マラキ。姿を見せろ」
低く、硬質な声が石壁を伝って広がる。
その瞬間、何もない空間が甘い香気とともにひずみ、銀色の燐光がゆらめく。
現れたのは、男とも女ともつかぬ妖艶さと言葉どころか視線さえ怯ませる威容を備えた悪魔──マラキ・バール・ゼバオット。
女も男もその色香に惑うような妖艶な貌に物憂げな表情を浮かべながら、どこか古代の神像めいた威厳と毒を備えたその存在は、絹のような声で、低く答えた。
「……我が“契約主”、レヴィ・ハジェル陛下。何か用か?」
数々の歴史の悲劇において、その影をちらつかせ、破滅を呼ぶ大悪魔にして、軍勢を率いる美しくも恐ろしき常勝者。堕落と憎悪をもたらす付きまとう死の影。
様々な不吉な二つ名をもつ悪魔のその声はあくまで心地よく、美酒のように滑らかだった。
「イザベラ・カリスに干渉したな。貴様の瘴気が直に触れた感触がある。どういうつもりだ」
レヴィ・ハジェルは眉ひとつ動かさず、端正な貌に不快感を載せたまま言った。ただその手には漆黒の闇を固め剣の容をしたものを握りしめている。その刃は動かずとも威圧を放ち、見る者の魂を締め上げる。
皇帝の表情はほとんど変わらないが、瞳の奥底に微かに閃く光が、全てを断ち切る覚悟を示していた。
悪魔は微笑む。口元だけで、感情のない美貌に歪みはない。
「ああ。確かに、少しだけ心に触れた。……獲物を逃すことの無いようにね。むしろ、先手を打って差し上げたのだよ。愛しのレヴィ陛下。“敵の芽”を見つけて、摘み取るために猟犬を放っただけだ……君の“未来”のために」
「余が知らぬ火種を、お前が“摘む”資格はない」
レヴィの声は静かだった。
だが、室内の温度が一瞬で下がったかのような威圧感に、マラキはうっとりと目を細める。
「……ああ、相変わらず。冷たく、美しい」
「虚飾は要らぬ、真意を語れ」
マラキは一拍置いて、指先で空気をすくうように手を振った。そこに現れて揺らぐは、イザベラの歪んだ瞳、ルミナリスの名が記された魔導記録、そして赤い光を発した義眼の断片の光景。
それらをなぞるようにして、悪魔は囁く。
「イザベラは“己を焼いた聖女の遣い”を憎んでいる……狂おしいほどに。その憎しみの底には、“かつての美しさを取り戻したい”という純粋な祈りが織り込まれている。わからないか? 彼女は君に愛され褒められたいのだ。その機会を奪った相手には執念深い猟犬となる。それは鼻の利く優秀な猟犬にだ。利用しない手はないだろう?」
「ならば、余が、帝国が、イザベラの思いの果てに応える。その為の魔導技術だ。それが『帝国』であり皇帝という秩序の存在意義だ」
「……それでは届かないのだ。レヴィ、驕り高ぶった運命を玩ぶもの共相手に、それでは届かない」
マラキの声が、ほんのわずか、哀しみを帯びていた。
「抗うために、運命を織り成すものを見つけ……支配者を気取る神々が気付かぬよう秘かに働きかける。意思を変え、人間種に有利となるよう、運命の書き換えを手助けしているのだよ、陛下」
皇帝レヴィ・ハジェルから静かな波動が生まれ、辺りに拡がり空気が揺らぎ冷たくなる。
「今はまだ帝国は微塵も揺らいではならない。帝国は人間種アリシノーズを守る城なのだ。それを支えるものの未来を脅かしているのではないか? 貴様の楽しみのために」
鋼鉄の意思で微塵も逡巡することの無い皇帝の問いに、マラキはふっと笑った。
「“未来”が脅かされる? むしろ……私はそうなるべき運命が動き出さないよう干渉しているということを、知らないとは言わせないぞ。預言の書にある “揺らぎ”が始まっていることは感じているだろう?」
レヴィ・ハジェルの目がわずかに細まる。
「貴様は、“運命”という言葉を盾に好き勝手をし過ぎる」
「陛下は気に入らぬと仰せか。では、こう申し上げよう」
マラキは片膝をつき、頭を垂れた。その動作は大げさであり、芝居じみていた。
「私は陛下と共に一敗地に塗れ、沈むつもりはない。傷つき倒れていた男に、全てに立ち向かう力と知識を得る機会を与えたのは、私だという事をお忘れなきように。我が君」
皇帝レヴィ・ハジェルに対し、悪戯な光を眼に宿し、おどけられる存在はマラキのみ。マラキはそのまま饒舌に言葉をつづけた。
「運命の支配者と驕る者たちを、永劫の時の彼方において、焔で焼き尽す覚悟と力を持つ同志だからこそ手を貸しているのだ。鼻持ちならない神々へとその切っ先を我が君が突きつけるその日まで、立ちはだかる全ての障害を、炎の中で“焼き尽くして”差し上げたい“ ……それが私の思いの全てだよ。陛下」
恭しくそして仰々しく深々と頭を垂れるマラキに、冷たい視線と沈黙を投げつけ、しばしののち、レヴィ・ハジェルは一言だけ告げた。
「……これ以上、勝手をすれば——お前の魂の在処ごと、“結び目”を断つ」
その声は低く抑えられながらも、冷たい波動を生みながら空気を震わせている。
マラキは伏し目がちに長い睫毛を瞬かせ、甘やかな微笑みを浮かべた。
「ふっ……承った、我が皇帝陛下。……けれど、どうかお忘れなきよう。私はあなたの影にして、もう一人の“あなた”だという事を……」
空間が揺れ、悪魔の姿は霧のようにかき消えた。
マラキが霧のように消えた後も、室内には冷気が漂い残った。
鋼鉄の眼差しをわずかに細め、皇帝は伝声機を取る。
その所作にすら、威厳と冷徹さと隠せぬ力強い意思が溢れている。
「……極星法座の光の天秤とフェラム・センチネル上級捜査官を呼べ。秘密裏に、直接話す。皇帝令だ」
受信機の向こうで短く緊張した返答が返る。
沈黙が戻ったその部屋で、ただ一人立つ皇帝の背は、巨大な城の石壁よりも冷たく、そして揺るぎなかった。
読んで下さり、大変うれしく思います。
少しでも楽しめて貰えたなら、幸いです。
心を込めて作品を作り上げていきます。




