第7章 暁の楔(クネウス・アウローラエ)Ⅲ ~ 新たなる指令
ノビリスの毛並みが逆立ち、赤く染まった魔力がその巨躯を取り巻き始めた。それは神人種としての「強い怒り」であった。
「たかが、人間種……力なき者が、地位が上というだけで、閣下を詰問するなど—— 言語道断ッ! 許せないっ。しかし、もっと許せないのは—— その隙を作った愚か者だっ」
獣の咆哮たるその声は、壁を震わせ、空気を裂く。
「貴様が中途半端な報告をしたせいで、閣下は辱めを受けたのだ! 手柄だと? この程度で? 貴様の報告一つで、どれほど閣下が矢面に立たされたか—— わかっているのか?」
怒りの魔力波が渦を巻き、ゼイロスの眼前に迫る。逃げ道はない。実力差は歴然。下手に魔眼の力を使おうものなら、それこそ言い訳も許されず、即死は免れない。
死ぬな、これは。本気で死ぬ。
~本文より
クレデンティウム帝国現地特別招集軍事特務隊—— その軍中枢に位置する「ベルセクオール部隊 総司令部指令所」の一角にて、魔眼隊隊長ゼイロスは片膝をつき、床に額を落とすようにして頭を垂れていた。全身から滲む冷や汗が、毛並みを濡らし、すっかりと湿らせる。
この男にとって、戦場で敵に囲まれるよりも遥かに恐ろしい状況が、今、目の前に広がっていた。
それは、総司令部副官、ノビリス・アウルムの存在だった。
大地熊の獣人である彼女は、ただの高位戦士ではない。地母神の祝福を受け、その権能を直接振るう“神人種”。帝国においても希な存在であり、政治・軍事・宗教において一目も二目も置かれる英雄種の中でも、ひときわ異彩を放つ異端にして猛者である。
そして今、そのノビリスが、ゼイロスに対して明確な怒りと殺意を放っていた。
「……ゼイロス隊長」
圧を孕んだその声は、まるで地鳴りのように部屋の空気を震わせる。
「ロド閣下が、わざわざ首都アウレウス・マグナまで出向き、イザベラ情報相に弁明なさったこと—— まさか、ご存じないとは言いませんよね?」
「……い、いえ……その件については……存じ上げませんでした……」
声を搾り出すゼイロスの頭に、耳がピタリとくっついている。
ノビリスの毛並みが逆立ち、赤く染まった魔力がその巨躯を取り巻き始めた。それは神人種としての「強い怒り」であった。
「たかが、人間種……力なき者が、地位が上というだけで、閣下を詰問するなど—— 言語道断ッ! 許せないっ。しかし、もっと許せないのは—— その隙を作った愚か者だっ」
獣の咆哮たるその声は、壁を震わせ、空気を裂く。
「貴様が中途半端な報告をしたせいで、閣下は辱めを受けたのだ! 手柄だと? この程度で? 貴様の報告一つで、どれほど閣下が矢面に立たされたか—— わかっているのか?」
怒りの魔力波が渦を巻き、ゼイロスの眼前に迫る。逃げ道はない。実力差は歴然。下手に魔眼の力を使おうものなら、それこそ言い訳も許されず、即死は免れない。
死ぬな、これは。本気で死ぬ。
恐怖に身を強張らせるゼイロスの脳裏に、過去の戦場が走馬灯のように巡る。
そのときだった。
「ノビリス。もうよい、止めなさい」
低く、威厳を孕んだ声が室内に響いた瞬間、魔力の嵐がすぅっと静まり、怒りの奔流が海底に沈むように消えていく。
現れたのは、ベルセクオール部隊総司令ロド・グリムその人だった。
灰銀の体毛をなびかせ、無言の圧倒的存在感を持って立つその姿に、ノビリスの表情が一変した。
「閣下っ!!」
ノビリスは一転して、全身の毛並みを整え、小さくぺこりと頭を下げる。あの猛々しかった姿はどこへやら、まるで乙女のような声で口を開いた。
「お帰りなさいませっ……ご帰還にお出迎えも出来ず、御見苦しいところを……申し訳ありません!」
その声には、緊張と嬉しさが綯い交ぜになった、純粋すぎるまでの敬愛が滲んでいた。神の力を振るう神人種が、無邪気に憧れる“英雄”——それが、ロド・グリムであった。
ロドはため息を一つ漏らしつつ、ゼイロスに視線を落とす。
「……ゼイロス。お前にも非はあるが……まあ、今回は皇帝陛下の取り成しもあった。事を大きくせぬよう務めよ」
「……はっ、肝に銘じます……」
ようやく命拾いをしたと知ったゼイロスの声は、かすれていた。
「ノビリス、蒼花茶を頼む。ゼイロスと君の分もあわせて淹れてくれ。三人で君の上手いお茶を頂きたい」
「は、はいっ! 喜んで、今すぐご用意いたしますっ。お待ちくださいっ」
巨体に似合わぬきびきびとした素早さで、ノビリスは部屋を後にする。
ロド・グリムは一人、静かな足音で私室へと向かい、ゼイロスはその背に続きながらも、なお身体の奥底が震えていた。ノビリスの威圧はひとまず去ったが、今から相対する男——ロド・グリムの問いは、別の意味で容赦がない。
部屋に入るとロドは静かに扉を閉め、帳を下ろした。灯りは最小限、外界からの視線も音も完全に遮断される。帝国においてこの空間は、密談と命令の場であり、真実の言葉だけが許される場所だった。
ロドは窓辺に立ち、外の夜空を見つめながら低く問う。
「……長腕隊と黒牙隊の斃れた状況報告。どうしても、腑に落ちぬ点がある」
ゼイロスは一瞬だけ目を伏せる。答えは用意していた。だが、それを言えばすべてが変わる。いや——言わねば、ロドの怒りが本当に自分を貫くだろう。
「……閣下の御推察通り、敵に“例の男”が関わっていた可能性が高いです」
ロドは振り返らず、ただ言葉を待つ。
ゼイロスは続けた。
「長腕隊と黒牙隊、特に黒牙隊は、隊ごと消し飛ばされたような戦況でした。戦術では説明のつかぬ消滅。その痕跡に、かつてお話にあった“守護剣聖”――オルクス・フルミニスの力の残響を感じました」
しばしの静寂のあと、ロドがゆっくりと振り返る。灰銀の瞳が、まっすぐにゼイロスを見据えた。
「何故、すぐに報告しなかった?」
「……閣下が今も“かつての盟友”をどう思っておられるか……迷いがありました。もし……もし違っていたら、その名を軽々しく口にすることこそ、閣下に対する裏切りになるかと……」
ロドはしばらく視線を逸らさなかった。だがその表情に、怒りはなかった。
「……あの御仁は相変わらずだな。帝国の牙を見事にへし折る形で現れるとは」
微かに目を細め、口元に僅かな笑みが浮かぶ。それは皮肉でも怒りでもない、戦士としての、真の敬意。
「オルクス殿。……やはり底知れぬ」
ロドは深く息を吐いた。
「ゼイロス」
「はっ」
「シルヴァ・カストラの戦い以降、対象の気配が掴めていない。だが確かに動いている。……なお我らと敵対するというのなら、いずれまた対峙することになる」
ロドは静かに命じた。
「魔眼隊を精鋭で再編し、オルクス殿の捜索に当たれ。この件はイザベラ情報相には知らせるな。動きは最小限で、だが全力で追え」
「……畏まりました」
「いいか、ゼイロス。再び相見える時が来たなら、我が手で語らねばならぬ言葉がある。それだけは、他の者には絶対に譲れぬ。忘れないでくれ」
ゼイロスは頭を垂れたまま、かつての“戦友たち”の姿を思い浮かべる。かつて一つの敵に相対し、命を背に戦った戦士たち。
だが今は、帝国と、王国と、それぞれ別の立場にある。そして、名誉も生命も、それら全てを投げうって獣人種の未来を見ようと立ち続けているのが——ロド・グリムという男なのだ。
「はい。肝に銘じます」
そう告げると、ゼイロスはロドの覚悟の深さにため息を一つついた。
帝国の為ではなく、ロドの為に力を振るう。ただそれだけだ—— 改めて決意を固めると拳を握りしめる。
「閣下、良い甘味を頂きましたので、併せてお持ち致しました」
やや離れたところから、ノビリスの弾んだ声が聴こえてきた。
次回 港町での探索をルミナリスとルルリアが行います。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
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しっかりと書いていきます。




