第5章 隠し砦 シルヴァ・カストラⅡ ~ オルクスとロド・グリム
圧倒的な宿命を背負い、孤高に立ち続ける者だけが持つ、異質な輝き。
冷たくも美しい理想のため、己のすべてを投じて歩んできた生が刻み込まれた、燃え盛る魂。
獣人種、魔人種、精霊人種──そのいずれであっても決して届かぬ高さ。
恐らくは、神へ至らんとする者だけに許される境地。
私は、その輝きに魅せられてしまったのだ。
ただの人間種であるはずの男に、皇帝レヴィ・ハジェルという存在に。
~本文より
「つまらぬ、と余は言ったはずだ」
静かに告げられた皇帝の言葉に続き、再び放たれた黒き火炎の奔流が、すべてを呑み込んだ。
悲鳴すら残らない。肉も骨も武器も、灰に変わる暇さえ与えられず、虚無の炎に呑まれて消えていく。
広間一帯を、何もかもを燃やし尽くす嵐が荒れ狂った。
その炎の只中で、私は喉奥から咆哮を絞り出した。
「我らが祖、神獣ルーン──その力をこの身に顕現せよ!」
空気が震え、神聖なる獣の咆哮が大広間を満たす。
うぉおおーおん。うぉおんおおーん。
神獣ルーンの加護を証す、銀狼の雄叫びだ。咆哮と同時に全身の銀毛は光をまとい、その身は立ちはだかる障害すべてを粉砕する光の戦鎚と化す。
雷霆の速さで放った一撃は、黒き炎そのものを砕きながら、皇帝の胸元へと迫った。
同じ刹那、もう一人の英雄が動く。
オルクス殿は天を仰ぎ、その声で天命を詠んだ。
「刻まれし力名は疾風、勇名は剛断──フェルス・フォルティス!」
詠唱と共に魔剣が解き放たれる。
旋風を巻き上げるその刃には、大地をも斬り裂く巨人族の一撃に匹敵する威力が込められていた。全身全霊を注ぎ込んだ剣閃は、守るべき世界への誓いそのもの──魔剣アシュラムに断てぬものはない。
銀光と風の刃。
二人の英雄が放つ強大な二つの力が、皇帝ただ一人へと収束する。
しかし、皇帝は、身じろぎ一つしないまま微笑んだ。
「うむ……これは面白い」
その声音は、どこか楽しげですらあった。底冷えするような冷たさを孕みながら。
次の瞬間、皇帝は右手ただ一本で、神獣の光を宿した銀狼の頭を軽々と押さえ込み、左手の漆黒の手甲で、オルクス殿の魔剣を微動だにせず受け止めていた。
私の渾身の一撃も、オルクス殿の全霊の一閃も、まさしく雷と暴風であったはずだ。
だが、皇帝の顔には焦りの影すらない。むしろ、その仕草には退屈を紛らわせるような余裕さえ漂っていた。
「良かろう……」
わずかに唇を歪めた皇帝の右手が、それだけで光の狼を握りつぶす。
ルーンの顕現は、悲鳴を上げるように粒子となって四散し、光の欠片は哀れなほど無力に空気へと溶けていった。
同時に、左手のひと振りで、オルクス殿の魔剣が甲高い音を立てて宙を舞う。私とオルクス殿の身体は、凄まじい衝撃とともに、石壁に叩きつけられた。
躰に走った痛みで意識が飛びそうになり、崩れた石壁の瓦礫が、重苦しい音を立てて私の上に降りかかる。
それでも、私は、そしてオルクス殿も、倒れ込んだまま皇帝を睨みつけていた。
指一本満足に動かせずとも、まだ戦う気でいたのだ。
怒りと敵意を宿す我らの視線を受けながら、皇帝の眼差しは、思いの外柔らかく穏やかだった。
「お前たち二人は──余の意によって、その生を許す」
皇帝はゆっくりと歩を進める。
漆黒の鎧とマントをまとった姿が、ただ存在するだけで空間を支配していく。
その後ろに控える護衛たちは、一度も動かなかった。
ただ、帝国の旗のもとに整然と並び、身じろぎ一つせぬまま、皇帝の圧倒的な存在感を讃え続けていた。それが、この帝国にとっての“当たり前”なのだと言わんばかりに。
「……帝国に敵対し、お前たちに与した者たちの末路を、その目に焼き付け、心の底に刻み込むがよい。そして知れ──余に抗うことの愚かしさを」
その言葉は鋼のように重く、ただ耳に届くだけで、敵対者の希望を押し潰す力を帯びていた。
外から、破壊の音と悲鳴が聞こえ始める。
人々の叫び、魔導機兵の咆哮、建物が崩れ落ちる音──それらが重なり合い、轟音となって広がっていく。
「もてなしへの返礼だ、ロド・グリム。そして愚かにして哀れなるリセリア王女よ。この国は、地図の上から掻き消える定めと相成った。うぬらの愚かしさゆえにな」
リセリア王女は、王家に伝わる覇者の短剣を握り締め、皇帝の背を貫こうと跳びかかった。
だが皇帝は振り返りすらしない。片手で黒炎を放っただけで、彼女を灰すら残らぬほど完全に焼き尽くした。
逡巡も躊躇も欠片もない。そこに情けなど、一つとして見出せなかった。
「お前は──」
私は怒りを声に変え、皇帝を糾弾しようとした。
だが、途中で言葉を失った。
皇帝が、ほんの一瞬だけ、私の目の奥を覗き込んだのだ。
その刹那、私は──我を忘れた。
見えたのだ。
魂の深奥に溢れる、底知れぬ悲哀と決意、そして噴き上がる炎を。
神獣ルーンの権能──魂の本質を見極める力を、このときほど恨めしく思ったことはない。
帝国皇帝レヴィ・ハジェルという一人の男が纏う力の本質を、私は誰よりも明瞭に見てしまったのだから。
それは、単なる暴力や魔力の発露ではなかった。
圧倒的な宿命を背負い、孤高に立ち続ける者だけが持つ、異質な輝き。
冷たくも美しい理想のため、己のすべてを投じて歩んできた生が刻み込まれた、燃え盛る魂。
獣人種、魔人種、精霊人種──そのいずれであっても決して届かぬ高さ。
恐らくは、神へ至らんとする者だけに許される境地。
私は、その輝きに魅せられてしまったのだ。
ただの人間種であるはずの男に、皇帝レヴィ・ハジェルという存在に。
「待て、化け物……」
低く絞り出された声で、私は我に返った。
声の主が誰かなど、考えるまでもない。
迷いなく真っ直ぐな鋼の意思が宿る、その言葉の調子だけで分かる。
震える脚で立ち上がり、なおも皇帝を睨みつけるオルクス殿の姿があった。
「人間種アリシノーズの守護を謳う皇帝が、人外の化け物となり果てているとは……茶番ではないか? それとも闇の神の眷属殿と申し上げれば良いかの? 陛下」
額を伝う血を拭いもせず、オルクス殿は皇帝を嗤っていた。
絶対的な力の差を前にしても折れることなく、なおも対峙しようとする気概が、その全身から立ち上っていた。
「我が力の素を見切ったか。流石はお伽話の英雄よ。しかし、誤りがある故、是正しておこう」
皇帝の影が、足元から大きく広がる。
どこまでも深い闇となり、その向こう側には、美しく煌めく星々の姿が瞬いているように見えた。
人には──獣人にも魔人にも精霊人にも──決して届かぬ、高み。
「余は闇の神の眷属などではない。余は帝国皇帝レヴィ・ハジェルその人であり、如何なる神々とて、余を支配できぬと知れ」
その言葉と姿を目の当たりにして、私は再び銀毛を逆立てた。
我らが如何に強くあろうと、刃が届くはずがない。届く道理がない。
あれは、何なのか。
神そのものと呼ぶべきか、それとも──もう、生き物と呼ぶことすら不遜なのか。
「アシュラムよ。我が許へ、約定を果たせっ!」
圧倒的な力を振るう皇帝に、オルクス殿はなおも魔剣を呼び戻し、立ちはだかろうとしていた。
その雄姿を前にして、私はようやく自分を取り戻す。
オルクス殿に加勢するべく、力の入らぬ四肢に鞭打ち、何とか立ち上がった。
勝算など、どこにもない。
恐らく火にくべられた焚き付けのように、あっさりと燃やし尽くされるだろう。
それでも──牙は折れておらず、爪もまだ研がれている。
そう覚悟を決めたとき、皇帝はマントを翻し、広間の出口へと歩き出していた。
「生かしておく──そう告げたはずだ。貴様らは面白い。故に見逃してやろう。忘れるな。貴様らの生は、余が与えたものだ」
オルクス殿は皇帝の背に向けて、電光石火の突きを放った。
だが、剣ごと弾かれ、そのまま気を失う。
私は、皇帝の背中が遠ざかっていくのを見送りながら、崩れ落ちるオルクス殿を咄嗟に抱え、宮殿の外へと走り出した。
胸の内では、かつて覚えたことのない感情が渦巻いていた。
種族の誇りを踏み躙られた怒り、圧倒的な存在への畏怖、そして──ほんのわずかな、敬意にも似た何か。
帝国皇帝レヴィ・ハジェル。
恐るべき力を行使するその存在は、何者にも代えがたい『異端の頂点』であるという事実。
その前では、種族も善悪も、いかなる言葉も薄っぺらに思えた。
私は獣人種の王狼として、種族の生存と繁栄を守らねばならぬ。
なんとしても、だ。
皇帝という圧倒的な存在を嘆くように、雨音が再び激しさを増し、大広間を打ち鳴らす。
冷たく身に染みるその音を聞きながら、私はみじめに走り抜けた。
──そして、今。
「それで、その後、閣下とオルクス様……その、伝説の英雄様は、どうされたのでしょうか?」
大地熊族のノビリスが、目を輝かせながら問いかけてきた。
ロド・グリムとしてではなく、“昔話をする一人の男”としての私の話を、間近で聞けていることが、嬉しくてたまらないのだろう。
「目を覚ましたオルクス殿は──己の剣が遠く届かぬことに、笑っておられたよ」
私は思わず、口元を和ませた。
「真に強いお方だ。神の力を相手にしてなお、何か戦うための方策はないか、と話しておられた。そのまま姿を消され、別れた後の消息は、残念ながら私も知らない」
蒼花茶の香りが、少しだけ雨の日の記憶と重なる。
「だが今回、久々にお会いすることになる。私が帝国に降ったときから、いつかこうなるとは思っていた。あの御仁相手に、争うことになる日が来るだろうとね」
「大変、貴重なお話を賜り光栄です、閣下。では、ご下知の通り、十分な戦力をもって進めてまいります」
ノビリスは深く一礼し、満足げな表情でテントを辞した。
私は、その大きな背中に、子熊だった頃の震える肩を重ねる。
あのとき守れた命を、今度は彼女自身が誰かのために使おうとしている。
「守りたい未来があるのだ。この身に代えても──許されよ、オルクス殿」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
蒼花茶を飲み干し、ひとつ息を吐いたとき、胸の奥底で燃える何かが、静かに、だが確かに、決意の形をとっていた。
次回は囮にする隠し砦でのランバートの策を目の当たりにするルミナリス、オルクスを描きます。
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これからも読んでいただけるよう、しっかり造りこんでいきます。




