Ⅱ ~潮牙商会
声音は低く、殺気を押し殺している。
むしろ抑えられているぶんだけ、なお危うかった。
ルルリアは視線を逸らさない。
「南帳房、灰印の三列目。車輪の向こう側。紹介元は外縁交易」
その名を出した途端、気配が変わった。
~ 本文より
船着場は静かだった。
人影はない。
船は二隻。
ひとつは腹の低い沿岸船。もうひとつは細身で、異様に船首の長い快速船。どちらも見た目は地味だが、帆も船腹も、いざとなればただの商船では済まぬ機動を見せそうな匂いがある。
干された網の下、倉庫脇、船影、潮溜まりの向こう。
視界に入らぬところに、複数の目が潜んでいる気配だけがあった。
ルミナリスが静かに分析を走らせる。
熱源、七。
うち三は高所。二は倉庫内。二は水際。
武装魔力反応あり。魔導銃、短弩、鉤槍、湾刀。
要警戒—— 黄色の領域。
オルクスは表情を変えない。
わずかに視線を動かしただけだった。
一歩踏み出したのは、ルルリアだった。
一度だけ潮の匂いを吸い込む。
湿った塩気の奥に、黒油、干魚、濡れ縄、古い血の匂いが混じっている。
懐かしいとは思わないが、忘れてもいないもの。
こういう場所では、先に名乗った方が負ける。
必要なのは、届くべき相手にだけ届く言葉だ。
ルルリアは桟橋の先、無人に見える船影へ向かって、語り掛けるように言った。
「潮が黒けりゃ、疼く牙は何を噛む? 牙に何を与える?」
波が杭を打つ音だけが、ぴしゃり、ぴしゃりと返る。
ルルリアは黙ったまま待っていた。
符牒は、投げたあとの間にこそ意味がある。
次の瞬間、倉庫の陰から何かが動いた。
海獣人だった。
長身だが、立ち方が人間と違う。重心が低く、全身が波の揺れに慣れている。
濡れたような黒青の肌のところどころに、鱗とも魔導文様痕ともつかぬ光沢があった。頬から耳の下にかけては、薄く裂けたような鰓痕。背には短い銛。腰には鉈めいた湾刀。首には牙の飾りが揺れている。
その目は、暗い海底のように冷たかった。
「腐った潮なら、牙は肉を裂き、骨をかじり取る」
返答はあった。
だがそれは、迎えの言葉ではなかった。
ルルリアは、その瞬間に悟った。
相手の目の色が、さらに一段深く沈んだからだ。
「その符牒を、どこで覚えた」
声音は低く、殺気を押し殺している。
むしろ抑えられているぶんだけ、なお危うかった。
ルルリアは視線を逸らさない。
「南帳房、灰印の三列目。車輪の向こう側。紹介元は外縁交易」
その名を出した途端、気配が変わった。
見えない高所で、何かがきしむ。
倉庫の陰で靴底が半歩ずれる。
水際の殺気が、潮に溶ける寸前まで膨らんだ。
ルミナリスの百眼に、敵意判定の数値が跳ね上がる。
「敵意が増しています。警戒してください」
そう告げながらも、彼女はまだ杖を上げなかった。
指を添えるだけに留める。
海獣人はぴくりとも動いていない。
だが、その静止こそが最も危険だった。
「……ゴルデンオスト」
その言葉は吐き捨てるのでも、嘲るのでもなかった。
もっと悪い。
飲み込めぬ毒を、舌の上で確かめるような言い方だった。
オルクスの指が、腰の剣に触れる。
抜いてはいない。だが、いつでも斬れる距離にある。
海獣人が一歩、前へ出た。
「小娘。ひとつだけ教えてやる」
その声は低く、妙に澄んでいた。
「ここでその名を出して、まだ首が繋がってるのは、俺がいま考えてるからだ」
ルルリアの喉がわずかに鳴る。
それでも引かなかった。
「考える余地があるなら、まだ完全な敵じゃない。商談の機会はあるってことでしょ?」
「ほざくな」
短い一言。
だがその一音で、周囲の気配がさらに張った。
「ゴルデンオストは、潮を読むふりをして他人の海を売る。海路を買い、仲間を秤にかけ、沈むと分かってる船にも笑って旗を振る。あの商会の筋を名乗る奴は、客じゃない。災いだ」
その言い方で分かった。
これは商売上の不和ではない。
身内を殺された者の憎悪だ。
「……なら、どうして撃ってこないの」
ルルリアはゆっくり言った。
「そこいらに、いろいろ潜んでるのに」
海獣人は吐き捨てるように答えた。
「お前だけなら、今ごろ海の底で魚の餌だ。話を聞いてやってるのは、後ろにいる女のお蔭だ」
水かきのある指が、ルミナリスを指す。
「お前」
海獣人の目が細まる。
「アルゲントルム魔法人だな」
ルミナリスは一切身動ぎをしなかった。
真っすぐにその視線を受け止める。
「なぜそう判断したのですか」
「俺と頭は、昔、王国の海兵としてひとりの女と共に戦ったことがある」
海獣人の声音が、ほんのわずかに変わる。
殺意が消えたわけではない。だが、その底に別の色が混じった。
「太陽の乙女、ソラデア・アルクス。——あの物騒な魔法使いだ」
ルミナリスの瞳が、わずかに揺れる。
「あの女には、命を助けられた恩がある。だから、そっくりなその顔をすぐには斬らずに眺めている」
そう言いながらも、海獣人の殺気は完全には消えない。
ただ、今はそれを呑み込んでいるだけだ。
ルルリアは、ルミナリスとオルクスへ一瞬だけ視線を送ると、両手をゆっくり上げて一歩前へ出た。
「私は今、ゴルデンオストの使いじゃない」
海風が、後ろに束ねた髪を横へ払う。
「あそこに拾われて、使われて、見限った側」
海獣人の目が細まる。
「証明は」
「あるわけないでしょ」
ルルリアは即答した。
「でも、あなたたちに信じさせることができるものはある」
穏やかに、しかしはっきりと、怯えなど見せず、辺りに聞こえるように声を張り上げた。
「今から出す。だから、撃たないで」
次回、ルルリアの交渉と海獣人たちの取引を描きます。
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございます。
感謝申し上げます。
また是非、お目にかかれるよう、しっかりと描いていきます。




