娘が死んだ夜、母は虎になった【改訂版】
2026年1月14日、大幅に改稿しました。
午後イチの講義。ただでさえ眠気を誘う教授の声が、私の脳に薄い膜を張ってゆく。
午後イチ……豚まん食べたい。
こっちに来てからは肉まんと呼ぶようになった。でも、頭の中では「豚肉使てんねんから豚まんが正しぃんちゃうん!」と、関西弁のわたしが怒っている。
机の上で、スマートフォンが筆入れを巻き添えに一度震えた。
どうせ、カラオケのお誘いだろうとは思ったが、手は無意識にアプリを開いていた。
《今度の連休、土蔵の整理をするので、琴巴も手伝いに来なさい》
そこには母からの用件だけを告げる文面と、ハタキを振る国民的専業主婦のスタンプがあった。
面倒い。明治以前からある古い蔵を壊し、姉夫婦の新居を建てる計画は、お正月の帰省の時に聞いてはいた。特に興味もなく、「お義兄さんも大変だなぁ」と聞き流していたが、こんな落とし穴があったとは。
何か理由をつけて断れば、順延して夏休みにしようとか言いかねない。
《わかった》と、短く送っておく。片手を上げている刈り上げおカッパ少女のスタンプと共に。
帰省当日。
飛行機のチケットはすでに母から送られてきていたので、連休初日とはいえ特に慌てることもない。
そのチケットは、母の優しさというより「絶対帰って来い」のサインだと思う。
故郷の空港に降り立つ。
連休初日にもかかわらず、利用者は少ない。その理由は誰にでもわかるし、誰も否定しない。たった二文字――「不便」。
当然、「なぜこんなところに空港を?」という疑問を誰しもが持つ。利権、土地の確保、騒音――いろいろ言われてはいるが、真相はわからない。私は特に興味もないし、空港が近くて便利になったとしか思わない。
空港を出てタクシー乗り場へ向かう。
新設された鉄道路線もあるが、逆方向だ。さほど待つこともなく、座席に背を預けることができた。
「すみません。虎見澤までお願いします」
運転手さんは、バックミラーでちらりと私に目を向けた。
「お帰りなさい。蔵仕舞いのお手伝いですか?」
「ええ、まあ」
すでに土蔵のことは広まっているようだ。きっと姉が、新居が建つことをあちこちで吹聴したのだろう。そういう行為を恥ずかしいとも思わない人だ。悪い人ではない。私のこともよく可愛がって、面倒を見てくれた。
この歳になっても、私のことを「こーたん」と呼び、隙あらば抱きついたり、頭を撫でようとしてくる。私も鬱陶しいとは思いながら、嫌いではない。ある意味、自分に正直な人なのだろう。
「虎見澤さんのとこなら、あの蔵にもお宝が山ほど眠ってるやろと、みんな言うてますよ」
バックミラー越しに、運転手さんが親しげに話しかけてくる。
「いえ、古いだけで大したものも入ってないですよ。私も、ゴミ掃除の手伝いに呼ばれたようなものですから」
面倒くさいなと思いつつ、愛想笑いを浮かべて相槌を打つ。ここでうっかりした態度でも見せようものなら、明日には「虎見澤さんとこの下の娘さんが……」なんて噂が町中に――下手をすれば市内中に広がってしまう。そんなところが、私の故郷だ。
その後の話題はもっぱら土蔵のこと。テレビを呼べばいいとか、鑑定に来てもらうといいとか、そんな話ばかりだった。
家の前でタクシーを降りるときも、「手伝えることがあったら言うてくださいね。いつでも行きますんで」と、親切心なのか、土蔵への野次馬根性なのかわからない挨拶をされた。
「ただいまー」
台所のほうから、「おかえり! 早く手伝って!」と母の声が飛んでくる。
相変わらずの調子に苦笑しながら、荷物を置いた。
その夜、親族の宴会の場を抜け出し、土蔵へと足を運ぶ。
私が適当に押し込んでおいた“宝物”を確認するためだ。黒歴史は闇の中に沈んでもらう必要がある。私が土蔵の鍵を持ち出したことに母は気づいていたようだが、おおよそ察して黙認してくれたのだろう。
大きく重い扉を開けると闇が広がっていた。懐中電灯の灯りを壁に向け、照明のスイッチを探す。
スイッチを入れると、重い闇は払われたが、まだそこかしこに黒い気配は蹲っている。残った闇を懐中電灯で切り裂き、記憶を頼りに目的の場所へと向かう。
私が中学生の頃、この土蔵で見つけたチッペンデールのライティング机。可愛いフォルムに一目惚れし、無理を言って自分の勉強机にしたが、二年ほどで猫脚が折れてガタつき、またここに逆戻りした。
その後は、書き溜めたノートや小物類を密かに隠しておく場所として活用している。
引き出しの奥には、あの頃の私が書き散らした言葉たちが眠っている。五年分の、幼さと熱の混じった記録。
引き出しを開けると、埃の匂いとともに、紙の乾いた匂いが立ちのぼった。
指先で古びた束をかき分けていると、見覚えのないノートが一冊、底に貼りつくようにしてあった。
表紙は日焼けして褪せ、角はほころび、紙は薄い飴色をしている。手に取ると、かすかに湿気を吸った繊維のざらつきが指先に残った。
ページをそっと開く。
最初の行に記された日付を見て、私は息を呑んだ。
――明治三十七年。
その文字を見つめながら、私はただ黙って立ち尽くした。
この机は、確かに私のものだったはずなのに。
そこに記されていたのは、私の知らない筆跡だった。
***
娘を喪ひて三日余り、家内は死したる如く静まり返れり。
静寂あまりて、我は己が呼吸の音さへ耳障りに感じ、ひそやかに息を殺す。
時計の針が進むごとか、壁が軋み、森のざわめきのごとく我が胸に響きたり。
警察の者、申せり。
「事故にござります。夜、誤って滑り落ちたのでしょう」
雨夜の出来事なれば、言葉に悪意なきも、胸奥に冷たく刺さるものあり。
娘、真白。十歳。
筆圧弱く日記を書き、ぬいぐるみを枕元に並べ、眠る幼子なりき。
その部屋に今、人影なし。
されど、空気は微かに揺れ、誰ぞが息をしているかの如く思わる。
風にあらず、何か――魂の残り香のごときもの。
ある夜、我はそっと部屋の戸を開く。
窓わずかに開き、月光差し込む。カーテン揺れ、壁に細き影落つ。
まるで爪にて引かれし線のごとし。
指にて触るればざらりとした感触あり、背筋に冷気走りぬ。
若き巡査は「家具の角の擦れに過ぎませぬ」と畏まりて言いけれど、我は心奥にて叫ぶ。
――違う、と。
引き出しを開け、娘の筆記帳を取り出せば、拙き文字にてこうありき。
「お母さま けふは とらがゆめにいでてきた」
「とらは やさしい でも つめが いたい」
指先震えたり。
紙は微かに湿り、温もりさえ残るごとし。
娘は何を見ていたか。何故、虎なのか。
娘がいなくなりし夜、窓外で低く響きし唸り声が胸に蘇る。
我は筆記帳を閉じ、ふと己が手の甲を見る。
壁に触れしせいか、細き線が赤みを帯びて残れり。
月光に翳せば、傷は微かに燐光を放つ。
夜深まり、遠くで低く咆哮が響きたり。
呼応するが如く唇おのづから動き、漏れ出でしは低き唸りなりき。
――あれは、我が声なりけり。
***
そこで一度、私はページをめくる手を止めた。
指先が小刻みに震えているのがわかる。寒さのせいではない。
文字の向こうから立ち昇る湿度と、鉄錆のような匂い――血の気配が、あまりにも生々しかったからだ。
ゴトッ、と音がした。
心臓が跳ね上がる。慌てて懐中電灯を向けるが、そこには古びた桐箪笥があるだけだ。
風だ。風が蔵を揺らしているだけ。
そう自分に言い聞かせるが、ノートに書かれていた「低き唸り」が、私の耳の奥で耳鳴りのように響いている。
これは、創作? それとも狂人の妄想?
……いいえ、違う。
私の本能が告げている。これは記録だ。私の中に流れる血の、源流の記憶。
唾を飲み込み、張り付くような乾いた喉を潤す。
怖い。けれど、続きを知らなければならない気がした。
私は祈るようにして、再びノートに視線を落とした。
***
夢現に、胸奥に潜む獣が覚醒す。
庭へ出づれば、草濡れ、月光を反射す。
その先に娘の姿あり。白きワンピース、濡れ髪、裸足なり。
されどその瞳、我を見ず、我が内なる闇を覗き込む。
――虎の目なり。
「お母さま……」
声は娘のものなれど、地の底より響くがごとし。
駆け寄らんとすれど身が揺れ、爪の感覚鮮明となる。
手を見れば、指長く尖り、剛毛が生え始む。
身、もはや人の形をなさず。
娘は微笑み、手招く。
庭の端、血に濡れし落葉の痕。あの夜の記憶、鮮烈に蘇りぬ。
我があの夜、あの子を――。
慟哭は獣の咆哮となりて夜気を裂く。
血と雨と月光混ざり、視界は赤く揺れたり。
我吠え、森を駆ける。
獣と人、母と娘、死と生、すべて渾然となりて闇に溶けゆく。
夜明け前、東天の空は灰色に濡れ渡りたり。
森の匂い、風のざわめき、湿りたる空気。
我、泉のほとりに立ち、胸に手を当てる。
鼓動は娘のもの、かつ我がものなり。
残月淡き中、再び娘現る。
輪郭は光に溶け、もはや恐怖も悲しみもなし。
「お母さま」
手差し伸べれば、娘はその手を取りたり。
かつて獣たりし我が手は、人の形に戻りて温かし。
泉の水面に光揺れ、二人の姿映す。
古き石の祠、苔生して朝露光るなり。
白き百合一輪、娘の好む花を供ふ。
我、手を合わせれば、頬を涙静かに伝う。
血と恐怖、後悔の念、すべてはこの瞬間に昇華せり。
月沈み、朝陽が森を射す。
獣としての衝動は恐れにあらず、生きる力と成りぬ。
我と娘、祠の前で光に包まれ、静かに歩み始む。
――生くることは、恐ろしく、愛おし。
***
私はそっとノートを閉じた。
埃の粒が、懐中電灯の光の中で金粉のように舞っている。
さっきまで冷たかったはずの指先が、じんわりと奇妙な熱を帯びていた。
ページの余韻が、胸の奥でまだ続いている。
“母”の言葉なのか、“獣”の声なのか。それとも、この血に刻まれた、もっと古い何かの記憶なのか。
外では風が鳴っていた。
古い屋根を渡り、森の方から、低い唸りのような音が混じって聞こえる。
私は思わず、蔵の扉の方を振り返った。
木の隙間から差す月の光が、床に三本の細い線を落としている。
それは――まるで巨大な爪痕のようだった。
胸の奥がふっと疼く。
恐怖ではない。懐かしさのような、遠い場所から呼ばれているような感覚。
そっと胸に手を当てる。トクン、と心臓が鳴った。
だが、それだけではない。その拍動のすぐ裏側で、一瞬遅れて、もう一つ別の鼓動が重なった気がした。
それはまるで、百年前の誰かの息遣いが、私の命に共鳴しているかのようだった。
――生くることは、恐ろしく、愛おし。
その言葉が、熱を持って私の内側を満たしていく。
私はノートを机の引き出しに戻し、そっと蓋を閉めた。
もう一度、外で風が鳴る。まるで遠吠えのように。
虎見澤の夜は静かに、けれど確かに、息づいていた。




