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娘が死んだ夜、母は虎になった【改訂版】

作者: 真野真名
掲載日:2025/10/10

2026年1月14日、大幅に改稿しました。









 午後イチの講義。ただでさえ眠気を誘う教授の声が、私の脳に薄い膜を張ってゆく。


 午後イチ……豚まん食べたい。

 こっちに来てからは肉まんと呼ぶようになった。でも、頭の中では「豚肉使つこてんねんから豚まんが正しぃんちゃうん!」と、関西弁のわたしが怒っている。


 机の上で、スマートフォンが筆入れを巻き添えに一度震えた。

 どうせ、カラオケのお誘いだろうとは思ったが、手は無意識にアプリを開いていた。


《今度の連休、土蔵の整理をするので、琴巴ことはも手伝いに来なさい》


 そこには母からの用件だけを告げる文面と、ハタキを振る国民的専業主婦のスタンプがあった。


 面倒い。明治以前からある古い蔵を壊し、姉夫婦の新居を建てる計画は、お正月の帰省の時に聞いてはいた。特に興味もなく、「お義兄さんも大変だなぁ」と聞き流していたが、こんな落とし穴があったとは。

 何か理由をつけて断れば、順延して夏休みにしようとか言いかねない。

 

《わかった》と、短く送っておく。片手を上げている刈り上げおカッパ少女のスタンプと共に。




 帰省当日。

 飛行機のチケットはすでに母から送られてきていたので、連休初日とはいえ特に慌てることもない。

 そのチケットは、母の優しさというより「絶対帰って来い」のサインだと思う。



 故郷の空港に降り立つ。

 連休初日にもかかわらず、利用者は少ない。その理由は誰にでもわかるし、誰も否定しない。たった二文字――「不便」。

 当然、「なぜこんなところに空港を?」という疑問を誰しもが持つ。利権、土地の確保、騒音――いろいろ言われてはいるが、真相はわからない。私は特に興味もないし、空港が近くて便利になったとしか思わない。


 空港を出てタクシー乗り場へ向かう。

 新設された鉄道路線もあるが、逆方向だ。さほど待つこともなく、座席に背を預けることができた。


「すみません。虎見澤とらみざわまでお願いします」


 運転手さんは、バックミラーでちらりと私に目を向けた。


「お帰りなさい。蔵仕舞いのお手伝いですか?」

「ええ、まあ」


 すでに土蔵のことは広まっているようだ。きっと姉が、新居が建つことをあちこちで吹聴したのだろう。そういう行為を恥ずかしいとも思わない人だ。悪い人ではない。私のこともよく可愛がって、面倒を見てくれた。


 この歳になっても、私のことを「こーたん」と呼び、隙あらば抱きついたり、頭を撫でようとしてくる。私も鬱陶しいとは思いながら、嫌いではない。ある意味、自分に正直な人なのだろう。


「虎見澤さんのとこなら、あの蔵にもお宝が山ほど眠ってるやろと、みんな言うてますよ」


 バックミラー越しに、運転手さんが親しげに話しかけてくる。


「いえ、古いだけで大したものも入ってないですよ。私も、ゴミ掃除の手伝いに呼ばれたようなものですから」


 面倒くさいなと思いつつ、愛想笑いを浮かべて相槌を打つ。ここでうっかりした態度でも見せようものなら、明日には「虎見澤さんとこの下の娘さんが……」なんて噂が町中に――下手をすれば市内中に広がってしまう。そんなところが、私の故郷だ。


 その後の話題はもっぱら土蔵のこと。テレビを呼べばいいとか、鑑定に来てもらうといいとか、そんな話ばかりだった。


 家の前でタクシーを降りるときも、「手伝えることがあったら言うてくださいね。いつでも行きますんで」と、親切心なのか、土蔵への野次馬根性なのかわからない挨拶をされた。





「ただいまー」


 台所のほうから、「おかえり! 早く手伝って!」と母の声が飛んでくる。

 相変わらずの調子に苦笑しながら、荷物を置いた。


 その夜、親族の宴会の場を抜け出し、土蔵へと足を運ぶ。

 私が適当に押し込んでおいた“宝物”を確認するためだ。黒歴史は闇の中に沈んでもらう必要がある。私が土蔵の鍵を持ち出したことに母は気づいていたようだが、おおよそ察して黙認してくれたのだろう。

 

 大きく重い扉を開けると闇が広がっていた。懐中電灯の灯りを壁に向け、照明のスイッチを探す。

 スイッチを入れると、重い闇は払われたが、まだそこかしこに黒い気配は蹲っている。残った闇を懐中電灯で切り裂き、記憶を頼りに目的の場所へと向かう。


 私が中学生の頃、この土蔵で見つけたチッペンデールのライティング机。可愛いフォルムに一目惚れし、無理を言って自分の勉強机にしたが、二年ほどで猫脚が折れてガタつき、またここに逆戻りした。

 その後は、書き溜めたノートや小物類を密かに隠しておく場所として活用している。

 

 引き出しの奥には、あの頃の私が書き散らした言葉たちが眠っている。五年分の、幼さと熱の混じった記録。

 引き出しを開けると、埃の匂いとともに、紙の乾いた匂いが立ちのぼった。

 指先で古びた束をかき分けていると、見覚えのないノートが一冊、底に貼りつくようにしてあった。

 表紙は日焼けして褪せ、角はほころび、紙は薄い飴色をしている。手に取ると、かすかに湿気を吸った繊維のざらつきが指先に残った。


 ページをそっと開く。

 最初の行に記された日付を見て、私は息を呑んだ。


 ――明治三十七年。


 その文字を見つめながら、私はただ黙って立ち尽くした。

 この机は、確かに私のものだったはずなのに。

 そこに記されていたのは、私の知らない筆跡だった。




 ***




 うしなひて三日余り、家内は死したる如く静まり返れり。

 静寂あまりて、我は己が呼吸の音さへ耳障りに感じ、ひそやかに息を殺す。

 時計の針が進むごとか、壁が軋み、森のざわめきのごとく我が胸に響きたり。


 警察の者、申せり。


「事故にござります。夜、誤って滑り落ちたのでしょう」


 雨夜の出来事なれば、言葉に悪意なきも、胸奥に冷たく刺さるものあり。

 娘、真白。十歳。

 筆圧弱く日記を書き、ぬいぐるみを枕元に並べ、眠る幼子なりき。

 その部屋に今、人影なし。

 されど、空気は微かに揺れ、誰ぞが息をしているかの如く思わる。

 風にあらず、何か――魂の残り香のごときもの。



 ある夜、我はそっと部屋の戸を開く。

 窓わずかに開き、月光差し込む。カーテン揺れ、壁に細き影落つ。

 まるで爪にて引かれし線のごとし。

 指にて触るればざらりとした感触あり、背筋に冷気走りぬ。


 若き巡査は「家具の角の擦れに過ぎませぬ」と畏まりて言いけれど、我は心奥にて叫ぶ。

 ――違う、と。


 引き出しを開け、娘の筆記帳を取り出せば、拙き文字にてこうありき。


「お母さま けふは とらがゆめにいでてきた」

「とらは やさしい でも つめが いたい」


 指先震えたり。

 紙は微かに湿り、温もりさえ残るごとし。

 娘は何を見ていたか。何故、虎なのか。

 娘がいなくなりし夜、窓外で低く響きし唸り声が胸に蘇る。


 我は筆記帳を閉じ、ふと己が手の甲を見る。

 壁に触れしせいか、細き線が赤みを帯びて残れり。

 月光に翳せば、傷は微かに燐光を放つ。


 夜深まり、遠くで低く咆哮が響きたり。

 呼応するが如く唇おのづから動き、漏れ出でしは低き唸りなりき。


 ――あれは、我が声なりけり。




 ***




 そこで一度、私はページをめくる手を止めた。


 指先が小刻みに震えているのがわかる。寒さのせいではない。

 文字の向こうから立ち昇る湿度と、鉄錆のような匂い――血の気配が、あまりにも生々しかったからだ。


 ゴトッ、と音がした。


 心臓が跳ね上がる。慌てて懐中電灯を向けるが、そこには古びた桐箪笥があるだけだ。

 風だ。風が蔵を揺らしているだけ。

 そう自分に言い聞かせるが、ノートに書かれていた「低き唸り」が、私の耳の奥で耳鳴りのように響いている。


 これは、創作? それとも狂人の妄想?

 ……いいえ、違う。

 私の本能が告げている。これは記録だ。私の中に流れる血の、源流の記憶。

 唾を飲み込み、張り付くような乾いた喉を潤す。

 怖い。けれど、続きを知らなければならない気がした。


 私は祈るようにして、再びノートに視線を落とした。




 ***




 夢現ゆめうつつに、胸奥に潜む獣が覚醒す。

 庭へ出づれば、草濡れ、月光を反射す。

 その先に娘の姿あり。白きワンピース、濡れ髪、裸足なり。

 されどその瞳、我を見ず、我が内なる闇を覗き込む。


 ――虎の目なり。


「お母さま……」


 声は娘のものなれど、地の底より響くがごとし。

 駆け寄らんとすれど身が揺れ、爪の感覚鮮明となる。

 手を見れば、指長く尖り、剛毛が生え始む。

 身、もはや人の形をなさず。

 娘は微笑み、手招く。

 庭の端、血に濡れし落葉の痕。あの夜の記憶、鮮烈に蘇りぬ。


 我があの夜、あの子を――。


 慟哭は獣の咆哮となりて夜気を裂く。

 血と雨と月光混ざり、視界は赤く揺れたり。

 我吠え、森を駆ける。

 獣と人、母と娘、死と生、すべて渾然となりて闇に溶けゆく。

 

 夜明け前、東天の空は灰色に濡れ渡りたり。

 森の匂い、風のざわめき、湿りたる空気。

 我、泉のほとりに立ち、胸に手を当てる。

 鼓動は娘のもの、かつ我がものなり。

 残月淡き中、再び娘現る。

 輪郭は光に溶け、もはや恐怖も悲しみもなし。


「お母さま」


 手差し伸べれば、娘はその手を取りたり。

 かつて獣たりし我が手は、人の形に戻りて温かし。

 泉の水面みなもに光揺れ、二人の姿映す。

 古き石の祠、苔生して朝露光るなり。


 白き百合一輪、娘の好む花を供ふ。

 我、手を合わせれば、頬を涙静かに伝う。

 血と恐怖、後悔の念、すべてはこの瞬間に昇華せり。


 月沈み、朝陽が森を射す。

 獣としての衝動は恐れにあらず、生きる力と成りぬ。

 我と娘、祠の前で光に包まれ、静かに歩み始む。


 ――生くることは、恐ろしく、愛おし。




 ***

 



 私はそっとノートを閉じた。


 埃の粒が、懐中電灯の光の中で金粉のように舞っている。

 さっきまで冷たかったはずの指先が、じんわりと奇妙な熱を帯びていた。


 ページの余韻が、胸の奥でまだ続いている。

 “母”の言葉なのか、“獣”の声なのか。それとも、この血に刻まれた、もっと古い何かの記憶なのか。


 外では風が鳴っていた。

 古い屋根を渡り、森の方から、低い唸りのような音が混じって聞こえる。

 私は思わず、蔵の扉の方を振り返った。

 木の隙間から差す月の光が、床に三本の細い線を落としている。

 それは――まるで巨大な爪痕のようだった。


 胸の奥がふっと疼く。


 恐怖ではない。懐かしさのような、遠い場所から呼ばれているような感覚。


 そっと胸に手を当てる。トクン、と心臓が鳴った。

 だが、それだけではない。その拍動のすぐ裏側で、一瞬遅れて、もう一つ別の鼓動が重なった気がした。

 それはまるで、百年前の誰かの息遣いが、私の命に共鳴しているかのようだった。


 ――生くることは、恐ろしく、愛おし。


 その言葉が、熱を持って私の内側を満たしていく。

 私はノートを机の引き出しに戻し、そっと蓋を閉めた。


 もう一度、外で風が鳴る。まるで遠吠えのように。


 虎見澤の夜は静かに、けれど確かに、息づいていた。







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― 新着の感想 ―
不思議な迫力のある作品でした。 中島敦の「山月記」を自家薬籠中の物としつつ、新しい読後感を与えてくれている筆者様の文章力が素晴らしいです。 虎が記した物語を、母の愛に満たされて生きる女性が受け取るとい…
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