娘が死んだ夜、母は虎になった
午後イチの講義。ただでさえ眠気を誘う教授の声が、私の脳に薄い膜を張ってゆく。
午後イチ……豚まん食べたい。
こっちに来てからは肉まんと呼ぶようになった。でも、頭の中では「豚肉使てんねんから豚まんが正しぃんちゃうん!」と、わたしが怒っている。
机の上で、スマートフォンが筆入れを巻き添えに一度震えた。
どうせ、カラオケのお誘いだろうとは思ったが、手は無意識にアプリを開いていた。
《今度の連休、土蔵の整理をするので、琴巴も手伝いに来なさい》
そこには母からの要件だけを告げる文面と、ハタキを振る国民的専業主婦のスタンプがあった。
面倒い。明治以前からある古い蔵を壊し、姉夫婦の新居を建てる計画は、お正月の帰省の時に聞いてはいた。特に興味もなく、「お義兄さんも大変だなぁ」と聞き流していたが、こんな落とし穴があったとは。
何か理由をつけて断れば、順延して夏休みにしようとか言いかねない。
《わかった》と、短く送っておく。片手を上げている刈り上げおカッパ少女のスタンプと共に。
帰省当日。飛行機のチケットはすでに母から送られてきていたので、連休初日とはいえ特に慌てることもない。
そのチケットは、母の優しさというより「絶対帰って来い」のサインだと思う。
故郷の空港に降り立つ。
連休初日にもかかわらず、利用者は少ない。その理由は誰にでもわかるし、誰も否定しない。たった二文字――「不便」。
当然、「なぜこんなところに空港を?」という疑問を誰しもが持つ。利権、土地の確保、騒音――いろいろ言われてはいるが、真相はわからない。
私は特に興味もないし、空港が近くて便利になったとしか思わない。
空港を出てタクシー乗り場へ向かう。
空港から自宅までは、いつもタクシー。新設された鉄道路線もあるが、逆方向だ。利用できなくはないが、遠回りで無駄に乗り換え時間がかかる。
さほど待つこともなく、座席に背を預けることができた。
「すみません。虎見澤までお願いします」
運転手さんは、バックミラーでちらりと私に目を向けた。
「お帰りなさい。蔵仕舞いのお手伝いですか?」
「ええ、まあ」
すでに土蔵のことは広まっているようだ。きっと姉が、新居が建つことをあちこちで吹聴したのだろう。そういう行為を恥ずかしいとも思わない人だ。悪い人ではない。私のこともよく可愛がって、面倒を見てくれた。
この歳になっても、私のことを「こーたん」と呼び、隙あらば抱きついたり、頭を撫でようとしてくる。
私も鬱陶しいとは思いながら、嫌いではない。
ある意味、自分に正直な人なのだろう。
「虎見澤さんのとこなら、あの蔵にもお宝が山ほど眠っとるじゃろって、みんな言うとりますよ」
バックミラーに時折り目を遣りながら運転手さんが話し掛けて来る。
「いえ、古いだけで大したものも入ってないですよ。私も、ゴミ掃除の手伝いに呼ばれたようなものです」
面倒くさいなと思いつつ、愛想笑いを浮かべて相槌を打つ。
ここでうっかりした態度でも見せようものなら、明日には「虎見澤さんとこの下の娘さんが……」って町中――下手をすれば市内中に広がってしまう。そんなところが、私の故郷だ。
その後の話題はもっぱら土蔵のこと。テレビを呼べばいいとか、鑑定に来てもらうといいとか、そんな話ばかりだった。
家の前でタクシーを降りるときも、「手伝えることがあったら言うてくださいね。いつでも行きますんで」と、親切心なのか、土蔵への興味なのかわからない挨拶をされた。
「ただいまー」
台所のほうから、「おかえり! 早く手伝って!」と母の声が飛んでくる。
相変わらずの調子に苦笑しながら、荷物を置いた。
その夜、親族の宴会の場を抜け出し、土蔵へと足を運ぶ。
私が適当に押し込んでおいた“宝物”を確認するためだ。おかしな物は仕舞ってないはずだが、念のため確認はしておきたい。物によっては二度と日の目を見せない覚悟で。黒歴史は闇の中に沈んでもらう。
私が土蔵の鍵を持ち出したことに母は気づいていたようだ。おおよそ察してはくれたのだろう。
大きく重い扉を開けると闇が広がっていた。懐中電灯の灯りを壁に向け、照明のスイッチを探す。
スイッチを入れると、重い闇は払われたが、まだそこかしこに闇は蹲っている。残った闇を懐中電灯で切り裂き、記憶を頼りに目的の場所へと向かう。
私が中学生の頃、この土蔵で見つけたチッペンデールのライティング机。可愛いフォルムに一目惚れし、無理を言って自分の勉強机にしたが、二年ほどで猫脚が折れてガタつき、またここに逆戻りした。
その後は、書き溜めたノートや小物類を密かに隠しておく場所として活用している。
引き出しの奥には、あの頃の私が書き散らした言葉たちが眠っている。五年分の、幼さと熱の混じった記録。
引き出しを開けると、埃の匂いとともに、紙の乾いた気配が立ちのぼった。
指先で古びた束をかき分けていると、見覚えのないノートが一冊、底に貼りつくようにしてあった。
表紙は日焼けして褪せ、角はほころび、紙は薄い飴色をしている。手に取ると、かすかに湿気を吸った繊維のざらつきが指先に残った。
ページをそっと開く。
最初の行に記された日付を見て、私は息を呑んだ。
――明治三十七年。
その文字を見つめながら、私はただ黙って立ち尽くした。
この机は、確かに私のものだったはずなのに。
そしてそこに記されていたのは――
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娘の死より三日余り、家中は静まり返りたり。
静けさあまり、我は呼吸の音さへ耳障りに感じ、ひそやかに息を止む。
時計の針進むごとに、壁がきしみ、森のざわめきのごとく我が胸に響きたり。
警察の者、申せり。
「事故にござります。夜、滑り落ちたのでしょう」
雨夜の出来事なるに、言葉に悪意なきも、胸奥に冷たく刺さるものあり。
娘、真白、十歳。
筆圧弱く日記を書き、ぬいぐるみを枕元に並べ、眠る幼子なり。
その部屋に今、誰もなし。
されど、空気は微かに揺れ、息をしているかのごとく思わる。
風にあらず、何か――魂の残り香のごときもの。
我はそっと部屋の戸を開く。
窓わずかに開き、月光差し込む。カーテン揺れ、壁に細き影落つ。
まるで爪にて引かれし線のごとし。
指触ればざらりとした感触、胸奥に冷気走りぬ。
若き巡査、畏り申す。
「家具の角の擦れに過ぎませぬ」
我はただ頷き、
されど心奥にて叫ぶ。
――違う。
引き出し開き、娘の筆記帳を取り出す。
表紙は薔薇色、端破れ、文字と絵整然と並ぶなり。
「お母さま けふは とらがゆめにいでてきた」
「とらは やさしい でも つめが いたい」
指先震えたり。
紙は微かに湿り、温もりさえ残るなり。
娘は何を見ていたか、何故虎なのか。
夜の風の音、胸に蘇る。
――娘、いなくなりし夜、窓外で低く響く唸りありけり。
我は筆記帳閉じ、手の甲を見る。
壁に触れしせいか、細き線赤み帯び残れり。
月光差し、微かに光を帯びたり。
夜深まり、遠くで低く咆哮響きたり。
唇自然に動き、低き唸りとなりぬ。
――あれは、我が声なりけり。
眠り浅く、夢濁り、胸奥に低く唸るもの覚醒す。
夢中、娘歩む。足音、我が胸の鼓動と重なりたり。
――お母さま。
目開けば夜明け前の薄闇なり。
声の主いずれもなし。されど耳奥に残響ありけり。
窓開けば、湿りし土と獣の匂い帯びたる風流れ来るなり。
我、庭に一歩を踏み出す。草濡れ、光を反射す。
その先に娘の姿、白きワンピース、濡れ髪、裸足なり。
されど瞳、我を見ず、胸奥覗き込む。
――虎の目なり。
「お母さま……」
声かすれ、しかし深く響きたり。
我、駆け寄らんとすれど身揺れ、爪の感覚鮮明なり。
手見るに、指長く尖り、毛生え始む。
身、もはや己ならず。
娘微笑み、後ずさる。
「ここで見ていて」
庭の端、血に濡れし落葉の痕。
あの夜の記憶鮮明に蘇りぬ。
――我があの夜……
思い出胸奥に熱を帯び、呻きと唸り、身を支配す。
爪伸び、牙覗き、身獣の形に変ず。
血と雨と月光混ざり、世界赤く揺れたり。
我吠え、森を駆ける。
遠くで獣の声応え、娘の声も混ざるなり。
母と娘、獣と人、死と生、すべて一つなり。
――娘は、ここに。私の内に。
夜、森を覆い、月赤く血色を帯びたり。
我立ち尽くす。胸奥低く唸るもの覚醒す。
庭に立つ娘。白き衣、裸足、瞳虎の光帯ぶ。
「お母さま……」
声深く響きたり。
手伸ばすも、身変わる感覚なり。
爪伸び、牙覗き、身獣化す。
娘笑み、血の匂い伴うなり。
「やっときましたね」
胸奥疼き、唸り漏れたり。
我叫ぶ、吠えるなり。
森中、血雨月光の中、駆ける獣として。
娘の声と我が命、胸で脈動す。
光に包まれ、毛消え、指人の形に戻る。
胸奥の鼓動残れり。
娘の命と我が命、血の夜終われり。
されどその熱、なお生き続けるなり。
夜溶け、東天の空灰色に濡れ渡りたり。
森の匂い、風のざわめき、湿った空気。
我、泉のほとりに立ち、胸に手を当てる。
鼓動は娘のもの、かつ我がものなり。
月残る中、娘現る。白き衣、濡れ髪、裸足。
輪郭光に溶け、恐怖悲しみなし。
「お母さま……」
手差し伸べれば、娘の手取るなり。
世界静かに震え、胸奥に温かさ広がりぬ。
泉水面に光揺れ、二人の姿映す。
祠見ゆ。古き石の祠、苔覆い、朝露光るなり。
白き百合一輪、娘の好む花。
我、手を合わせ、頬を涙静かに伝う。
――血と恐怖、涙すべて、この瞬間溶けゆくなり。
月沈み、太陽淡く光注ぎたり。
我立ち、娘の手握るなり。
獣としての衝動は恐れにあらず、生きる力と成りぬ。
血の夜過ぎ、痛み悲しみ残るも、再会の朝にすべて受け入れらるなり。
森頷き、風ざわめくなり。
我と娘、祠前で光に包まれ、静かに歩み始む。
――生くることは、恐ろしく、愛おし。
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私はそっとノートを閉じた。
埃の粒が、懐中電灯の光の中で金色に舞っている。
さっきまで冷たかったはずの指先が、じんわりと熱を帯びていた。
ページの余韻が、胸の奥でまだ続いている。
“母”の言葉なのか、“獣”の声なのか、それとも、もっと古い何かの記憶なのか。
外では風が鳴っていた。
古い屋根を渡り、森の方から、低い唸りのような音が混じって聞こえる。
私は思わず、蔵の扉の方を振り返った。
木の隙間から差す月の光が、床に細い線を落としている。
それは――まるで爪痕のようだった。
胸の奥がふっと疼く。
恐怖ではない。懐かしさのような、呼ばれているような感覚。
そっと胸に手を当てる。鼓動が一つ、二つ。
その拍動が、誰かの息と重なるように感じた。
――生くることは、恐ろしく、愛おし。
その言葉が、光のように胸の内を満たした。
私はノートを机の引き出しに戻し、そっと蓋を閉めた。
もう一度、外の風が鳴る。
夜は静かに、けれど確かに、息づいていた。




