第3話 実存の証明
サルトル先生の講義は、いつも定刻より五分遅れて始まる。
今日も、教壇にふわりと現れるその姿は、スーツに黒タートル、眼鏡を外してどこか遠くを見ていた。
「──さて、諸君。本日のテーマは『実存の証明』だ。存在が先か、意味が先か。それが問題だ」
教室内にはサルトル推しの生徒たちが最前列を陣取り、ノートの端にEXISTENCEと殴り書きしている。
私は一番後ろの席で、ポケットに入った椎の実を何となく握りしめていた。
「人間は、まず投げ出されて生まれる。そして、その後で自分が何者かを決める。
これを実存は本質に先立つという」
先生の声は、淡々としているけれど、時折、黒板にチョークを叩きつけるようにして強調する。
「たとえば――」
先生は教室の窓の外を指さす。
「君たちが、この学園に何となく来たのも、最初に“意味”があったわけじゃない。存在しているうちに、あとから意味ができる」
「……つまり、意義も正しさも、後付けでしかないんですか?」
気付くと、私はそう声に出していた。私は、正しい事をするために思想を学ぶつもりだった。行為にあとから理由をつける……それは言い訳とすら思う。
先生はにやりと笑って、私を見た。
「そう。本質なんてものは後からだ。君は今、思想で自分を証明しようとしているだろう。
だが、君がここにいること”そのものが、まずはすべてだ」
サルトル推しの生徒たちはノートに、さっそく「本質=後付け」と赤字で書き込みが始まる。
私はポケットの椎の実を指で転がしながら、心の中で問う。
(私は……ここにいるって、それだけで意味になるんだろうか)
サルトル先生は続ける。
「自分をどう定義するかは、他者との関係の中で初めて生まれる。
だが、最初から正しい自分でいようとするな。
君たちは失敗や迷いの中でしか、自由を知ることはできない」
「……自由、ですか」
「そうだ。自由とは、自分で選び直せること。
誰かの理論でも、既存の思想でもない、君自身の選択が、君の実存を作るんだ」
私は、椎の実を強く握った。
ポケットの中で、椎の実がかすかに震えたような気がした。
(選び直せる? 私が、誰かの答えじゃなく、自分の問いを持てるだろうか)
ふいに、先生が私のほうを見たまま、微笑した。
「証明なんてものは、他人に向かってするものじゃない。
私は今、ここにいる。それが、今日の君の唯一の意味」
その言葉に、教室の中ほど――いわゆる実存厨のグループがなぜか盛り上がりはじめる。
一人がいきなり立ち上がり、黒板の前で叫んだ。
「先生ッ! 自分探しって、失敗したら存在ごとリセットされるんですか!?」
別の生徒がノートを投げ上げ、
「本質が後付けなら、今日が期限の提出物はいまから作ればOKってことですよね?」
と得意げに言う。
サルトル先生、眼鏡を外して苦笑い。
その横で、窓際の自由主義サークルの男子が急に立ち上がり、教壇に向かって「我思う、ゆえに昼寝!」と叫びながら机に突っ伏し、それを見た女子が「いや、それデカルト!」とツッコミを入れる。
……が、すでに誰も聞いていない。
推しサルトルの女子グループは、一斉に「実存=エモ!」と書いた団扇を振り出し、教室の後方で勝手にペンライトを点滅させ始めた。
いつの間にか空席には「存在証明券」と書かれた謎のカードがバラ撒かれている。
その間にもサルトル先生は涼しい顔で板書を続けている。
私はポケットの椎の実を握りながら、一瞬にして始まった馬鹿騒ぎに唖然としながらぽつりと呟いた。
「……この学園、みんな存在証明が下手くそすぎる」
しばらく後、講義が終わる。未だに騒がしい教室を私は目立たぬようにそっと出る。と、ポケットの椎の実が小さく震える。
「……実存は、選び直すたびに、形を変えます」
私は、小さく息を吐いた。
「……それでも、今の自分を受け入れてみるしか、ないんだね」
窓の外の光が、机の上に長い影を落としている。