エピローグ・第二節 ――朱音、日常のすぐ隣で
放課後の教室は、まだ少し騒がしかった。
高等部一年。
窓際、二列目。
朱音は、椅子に座ったまま、ぼんやりと外を見ていた。
「……朱音?」
すぐ隣から声がする。
北浜星蘭だった。
「なに、ぼーっとしてるんですか」
「んー……」
少し考えてから、朱音は曖昧に笑った。
「なんかさ。終わったなーって」
「それだけ?」
「そ。それだけ」
星蘭は、疑わしそうな目を向ける。
「嘘ですね」
「ひどいな」
「長い付き合いですから」
***
あの事件のあと。
朱音は、何も失っていない。
少なくとも、表向きは。
日常は続き、授業は進み、テスト範囲は容赦なく広がる。
聖蘭は相変わらず忙しそうで、葵は少し静かになった。
けれど――
夜、夢を見ることがなくなった。
あの声も。
あの「約束」も。
思い出そうとすれば、思い出せる。
だが、それ以上、踏み込めない。
「……まあ、いいか」
朱音は、小さく息を吐いた。
***
「ねえ、朱音」
星蘭が、唐突に距離を詰めてくる。
「……近いんだけど」
「今さらでしょう」
肘が触れるほどの距離。
視線が合う。
「怖くなかったんですか」
「なにが?」
「……あれ」
言葉を選ぶ様子もなく、星蘭は続けた。
「向こうに行きかけたこと」
朱音は、一瞬だけ視線を逸らす。
「怖かったよ」
即答だった。
「正直、めちゃくちゃ」
それから、星蘭を見る。
「でもさ」
少しだけ、柔らかい声で。
「星蘭が引っ張り戻してくれたでしょ」
「……結果的に、です」
「それでいい」
朱音は、肩をすくめた。
「親友なんだから」
***
その言葉に、星蘭は何も返さなかった。
ただ、少しだけ目を伏せる。
「……朱音は」
「ん?」
「私のこと、信じすぎです」
「今さら?」
朱音は笑った。
「信じてるっていうか……知ってるだけ」
「知ってる?」
「そう」
机に頬杖をつきながら。
「星蘭が、絶対に見捨てないってこと」
星蘭は、観念したように息を吐いた。
「……やりづらいですね」
「褒め言葉よ?」
***
廊下の向こうで、葵の姿が見えた。
教室を覗き、二人の姿を確認して、軽く手を振る。
「あ」
朱音が立ち上がる。
「葵」
「……元気そうだね」
葵は、少し距離を保ったまま言った。
「うん。……そっちも」
会話は短い。
それでいい、と朱音は思っている。
踏み込めば、また何かが揺れる気がした。
だから、いまはこの距離がちょうどいい。
「……あのさ」
朱音が言う。
「ありがとう」
理由は言わない。
葵も、聞かない。
「……どういたしまして」
それだけで、十分だった。
***
放課後の教室。
星蘭が鞄を持ち上げながら言う。
「帰りますよ、朱音」
「はーい」
並んで歩く。
変わらない距離。
変わらない速度。
でも、確かに。
朱音はもう、どこかに連れていかれることはない。
選ぶのは、自分だ。
日常は脆く、縁は絡まりやすい。
それでも。
この場所で生きることを、朱音は選び続けていた。




