エピローグ・第一節 ――千里子、静かな場所で
長澤千里子は、自分がなぜあの扉に手を伸ばしてしまったのかを、ようやく言葉にできるようになっていた。
それは、怖かったからでも、誰かに命じられたからでもない。
――呼ばれた。
それが、いちばん近い。
***
幼いころから、千里子には「見えすぎる」ものがあった。
人の感情の澱。
場所に染みついた後悔。
声にならない声。
封縁乙女と呼ばれる彼女たちの力と比べても、質が違う――
そう言われたことが、一度だけある。
だが、それは褒め言葉ではなかった。
「……また、聞こえてるの?」
そう問われるたびに、千里子は首を振った。
本当は、聞こえている。
見えている。
感じている。
けれど、それを口にすれば、距離が生まれることを、彼女は知っていた。
人と違うということ。
それは、特別である以前に、孤独だった。
***
影の扉は、静かだった。
恐怖も、痛みもない。
ただ、すべての“雑音”が消えていた。
「……ここ、は……」
誰の声も聞こえない。
誰の感情も流れ込んでこない。
隔絶された空間は、千里子にとって――
初めての「休息」だった。
誰にも合わせなくていい。
誰の期待にも応えなくていい。
そこに潜む異質さや狂気に、気づかなかったわけではない。
けれど、それでも。
「……少しだけ、ここにいたい」
そう思ってしまったことは、紛れもない真実だった。
***
救い出されたあと、千里子はしばらく保健室で過ごした。
眠っているあいだ、夢は見なかった。
それが、何よりの証だった。
放課後。
廊下で声をかけられたのは、意外な相手だった。
「……長澤さん、だよね」
「中峰……さん?」
隣のクラスの中峰陽子。
有名人だ。良くも悪くも。
「体調、大丈夫?」
「うん。もう平気だよ」
形式的なやりとりで終わると思っていた。
だが、陽子は立ち去らなかった。
「あのさ」
少し言い淀んでから、続ける。
「見える、でしょ」
千里子は、息を止めた。
「……どうして」
「分かるよ」
陽子は、柔らかな笑みを浮かべた。
「私も、そうだから」
***
二人は、すぐに親友になったわけではない。
距離は慎重で、会話も少ない。
けれど、沈黙が苦ではなかった。
見えるものの話。
聞こえてしまう声の話。
誰にも言えなかった、胸の内。
それを共有できる相手がいることが、千里子には新鮮だった。
「……陽子は、怖くないの?」
「怖いよ」
即答だった。
「でも、独りよりはマシ」
その言葉に、千里子は小さく笑った。
***
その様子を、少し離れた場所から見ている人物がいる。ゴスロリの衣装に身を包んだその人物は、校舎の角に身を隠しそっと覗いている。もちろん詞縁を使い人払いをしている。目立ちすぎなのは自分が一番よく分かっているのだ。
「……ふぅん?」
美海だった。
腕を組み、表情はいつも通り。
だが、視線は鋭い。
「陽子が、あんな顔するなんて」
嫉妬――と呼ぶには、少し幼い。
けれど確かに、胸の奥がざわつく。
「ま、いいか」
美海は小さく笑った。
「奪う気はないみたいだし」
それに、と。
「守るって決めた子が増えるのは……悪くない」
***
千里子はまだ、自分の力をどう扱えばいいのか分からない。
けれど。
独りで抱え込まなくてもいい、ということを知った。
あの扉の向こうで得た安らぎは、確かに真実だった。
だが――
今は、こちら側で息をしていたいと思える。
縁は、切れなかった。
けれど、結び直すことはできる。
千里子は、ゆっくりと歩き出していた。




