挿話 影の内側で、彼女はまだ名を持たない
――ここには、時間がない。
そう思ったのが先だったのか。
それとも、思った瞬間に、時間が止まったのか。
長澤千里子は、静かな場所にいた。
教室……だったはずだ。
けれど壁の色は曖昧で、床も天井も、はっきりとした輪郭を持たない。
影だけが、妙にくっきりしている。
(……まだ、夢?)
そう思おうとして、思考が途中でほどけた。
眠っていない。
でも、起きてもいない。
そんな感覚。
歩こうとすると、足は動く。
けれど、どこまで行っても景色は変わらない。
「……あ」
声を出したつもりだった。
だが、その音は、自分の耳にすら届かなかった。
代わりに。
――さわり。
何かが、縁をなぞるように、意識に触れてくる。
(……誰か、いる?)
返事はない。
ただ、影が揺れた。
影は、壁から剥がれ、床に落ち、また別の形を取る。
時折、それは――扉のように見えた。
(……ああ)
思い出す。
あの日。
放課後の校舎で、偶然見つけた“それ”。
影が、扉の形をしていた。
怖いはずだった。
なのに、胸の奥が、ざわりと――嬉しそうに震えた。
(……呼ばれた、気がした)
だから、触れてしまった。
――入ってしまった。
後悔は、ない。
少なくとも、今は。
ここは、静かだ。
怖いものも、痛いものも、何も来ない。
その代わり。
何かが、少しずつ、こちらを見ている。
(……ねえ)
問いかける。
(あなたは、誰?)
返事は、ない。
けれど。
次の瞬間、遠くで言葉が揺れた。
誰かが、誰かに呼びかけている。
必死で。
切実で。
そして――独りで。
(……あ)
胸の奥が、きゅっと締まる。
知っている。
その気配。
あれは――
(……風)
もうひとつ。
(……弓)
さらに、鋭く、甘い――
(……ことば)
――来る。
誰かが、ここへ向かっている。
それが、助けなのか。
それとも、もっと深い縁の始まりなのか。
千里子には、まだわからない。
ただ。
影が、また扉の形を取った。
そして、彼女は。
眠っている少女の存在を、そっと感じた。
(……もう一人)
小さく、微笑む。
(……大丈夫)
誰に向けた言葉か、自分でもわからないまま。
この場所で、彼女は待つ。
名前を呼ばれる、その瞬間まで。




