第4話 影の向こうで眠るもの
――面倒な相談ほど、だいたい紅茶が美味しい時間にやって来る。
学園本館三階、K.G.S.部室。
桐嶋・クラリス・聖蘭は、いつものように優雅にティーカップを傾けていた。
午後の光が窓から差し込み、床に落ちた影がゆるやかに揺れている。
表向きは、何の変哲もない平和な午後だった。
「で? 今度は何かしら?」
クラリスの視線の先。
扉の前に立っているのは、中等部二年の少女――中峰陽子だった。
制服の裾をぎゅっと握り、落ち着かない様子で視線を泳がせている。
「あ、あの……実は……」
一度言葉を切り、意を決したように顔を上げた。
「隣のクラスの子が……長澤千里子っていう子なんですけど……数日前から、行方がわからなくて……」
その名に、クラリスの眉がわずかに動いた。
「長澤……千里子」
背後で書類を整理していた玲子が、ふと顔を上げる。
「確か……霊感がかなり強いって噂の子よね?」
「はい。本人はあんまり自覚なかったみたいですけど……最近、変な影を見たって言ってて……」
クラリスは、ふうん、と面白そうに相槌を打った。
「影、ねえ」
その場にいた佐々木葵が、静かに口を挟む。
「……それ、扉の形をしていませんでしたか」
陽子は、はっと顔を上げる。
「そ、そうです! ドアみたいだって……!」
クラリスは、にっこりと微笑んだ。
「やっぱり」
「……やっぱり、って」
葵が眉をひそめる。
「クラリス先輩、それ……」
「ええ。あなたと星蘭が入った部屋と、同じ系統の怪異よ」
クラリスは立ち上がり、窓際へ歩み寄る。
午後の光が、床に長い影を落としていた。
「いい? 『存在しない部室』って怪異は、正確には――」
くるりと振り返る。
「場所じゃないの」
「……場所じゃない?」
「影が条件を満たしたとき、入口だけが現世に現れる。でも、その先はどこにも属さない」
指を一本、立てた。
「現世でも、幽世でもない。時間の流れがほとんど止まった、神隠し型の停滞空間よ」
陽子が息を呑む。
「じゃ、じゃあ……千里子は……」
「迷い込んだまま、出られなくなっている可能性が高いわね」
クラリスは、あっけらかんと言った。
「そして厄介なことに――」
視線が、葵へ向けられる。
「あなたたちが昨日感じた人の気配。あれ、多分……その子よ」
沈黙。
葵は、静かに拳を握り締めた。
***
その夜。
久遠女学園附属病院。
静まり返った個室で、葵は愛子のベッドの傍に座っていた。
「……ごめんね」
葵は、小さく呟いた。
霊障。
目そのものに異常はない。
けれど、視界は闇に閉ざされたまま。
典子の神眼による診断は、はっきりしていた。
「縁が、遮断されている。視覚情報が、魂に届いていない」
つまり――
霊的な“何か”が、愛子の眼を奪っている。
――見えていない。
そのはずだった。
不意に、空気が揺れた。
ぱちり。
愛子の瞳が、瞬いた。
「……あ、……お、い……せんぱ……い?」
かすれた声。
葵は、息を呑んだ。
「……愛子?」
次の瞬間。
「……あ……」
愛子の視線が、確かに――葵を捉えた。
一瞬。
本当に、一瞬だけ。
「……あお、い……せん……」
そして、ふっと焦点が失われる。
「……っ!」
葵は思わず立ち上がった。
そのとき。
テーブルの上のノートが、ひとりでに開く。
『見えただろう』
文字が、滲むように浮かび上がる。
『切り離されているだけだ。縁は、まだ残っている』
葵の喉が、鳴った。
『取り戻したければ独りで来い』
『影の扉の先、「存在しない部室」の謎を解け』
ノートは、静かに閉じた。
葵は、震える手で愛子の手を握る。
「……待ってて」
声は、低く、強かった。
「必ず、連れて帰るから」
***
――影は、いつだって突然、そこにある。
放課後の校舎。
日が傾き、廊下の窓に長く伸びる影が、床をゆっくりと侵食していく時間帯。
北浜星蘭は、教室の自分の席に座ったまま、指先をきつく握りしめていた。
(……朱音)
今日一日、彼女は学校に来ていない。
連絡も取れない。
担任は「体調不良かもしれない」と曖昧に言ったが、そんなはずはないと、星蘭にはわかっていた。
理由は単純だ。
朱音は、あれを見ていた。
――影が、扉の形を取る瞬間を。
星蘭自身、葵と一緒に「存在しない教室」に入ったとき、朱音がそこに強い興味を示していたのを覚えている。
楽しそうに、無邪気に。
「ねえ星蘭、ああいうのってさ。入ったらどうなるんだろうね」
その言葉を、冗談だと思ってしまった自分が、悔しい。
がた、と机の中で何かが鳴った。
びくりと肩を揺らし、星蘭は鞄を開く。
――中に入っていたのは、見覚えのない封筒だった。
白い。
だが紙の質感が、どこかおかしい。
触れた瞬間、風が指先を撫でたような感覚が走る。
「……何、これ」
封を切る。
中には、短い文がひとつ。
『誰の力も借りるな。独りで来い。影の扉の先に、芹沢朱音はいる』
星蘭の呼吸が、止まった。
――次の行。
『助けたければ、「存在しない部室」の謎を解け』
ばさり、と紙が手から落ちる。
(……ふざけないで)
歯を食いしばる。
(朱音を……利用してる?)
怒りが、先に立つ。
だが、その奥に、確かな手応えがあった。
――生きている。
朱音は、まだどこかにいる。
星蘭は立ち上がった。
その背中には、迷いよりも先に、決意があった。
「……上等ですよ」
誰に言うでもなく、低く呟く。
「独りで来い、ですか。言われなくても、そうするつもりです」
破邪の風を継ぐ者として。
そして、親友を取り戻す者として。
星蘭は、影の伸びる廊下へと歩き出した。
***
そして。
そのすべての動きを、少し離れた場所から“聞いていた”少女がいる。
学園中庭。
黒いフリルの日傘の下。
「――なるほど」
神薙美海は、愉快そうに唇を吊り上げた。
《詞縁・言ノ調律》。
学園内に漂う言葉の残響を拾い上げる、その日課の中で。
彼女は、二つの“独り言”を、はっきりと聞いた。
星蘭の決意。
葵の覚悟。
「独りで、ね」
くす、と笑う。
「甘いわ」
だが、その瞳は、楽しげに光っていた。
「でも嫌いじゃない。そういうの」
影が、地面に濃く落ちる。
美海は、日傘を畳んだ。
「誰かに助けられる前提の怪異なんて、退屈だもの」
黒薔薇の断罪者は、歩き出す。
力でねじ伏せるために。
言霊で縛り上げるために。
そして、自分が最強であることを、証明するために。
***
影は、今日も、どこかで形を変える。
扉となり。
招き。
拒み。
そして三人の少女は、それぞれに。
風を携え。
弓を握り。
言葉を刃として。
同じ「存在しない場所」へと、向かっていく。
その中心で、眠る朱音と。
閉じ込められた坂下千里子は。
まだ、知らない。
自分たちが、どれほど大きな縁を、動かしてしまったのかを。
***
つづく




