調停の矢と、孤独な女王の解放
鏡の深淵、『悪意の引力』が支配する精神世界。
葵の放った《想縁弓・慈愛ノ解結》は、女王の身体に触れる直前で静止した状態にある。
葵は、自らの内に湧き上がるかおりへの共感をそのまま霊力に変え、弓弦に全ての想いを込めた。狙うは、玉座の背後に渦巻く、学園の悪意の根源。
「あなたの孤独は、私が引き受ける! その悪意は、もう、いらない!」
その瞬間、『時間』が再び動き出した。
静止していた光の矢は、凄まじい勢いで突き進み、女王の心臓を掠めるようにして、その背後の悪意の渦へと向かった。
「馬鹿な! 私を無視して、悪意そのものに!? 私は、貴様の偽善を許さない!」
女王は最後の力を振り絞り、『悪意の引力』を凝縮させた黒い奔流を放ち、矢の軌道を捻じ曲げようとする。しかし、葵の矢には、もはや破壊の力はなく、純粋な解放の想いだけが込められていた。
黒い奔流と白い矢が激突した瞬間、派手な爆発音は起こらなかった。代わりに、矢の光が悪意の渦に触れた瞬間から、凄まじい浄化の光が、鏡の深淵全体を包み込み始めた。
「調停」が始まったのだ。
◆
浄化の光に照らされ、玉座の背後に渦巻いていた無数の黒い影――SNSを通じて繋がっていた『生徒たちの悪意』が、まるで溶けるように霧散していく。そして、女王の身体を包んでいた傲慢な『縁の皮』が剥がれ落ちた。
「あああああ……! 離さないで! 繋がっていたいの! 孤独は、もう嫌!」
女王の叫びは、悲痛な一人の少女の絶叫だった。彼女の瞳からは、涙が溢れ出していた。
『悪意の引力』の呪いが解け、鏡の中のすべての繋がりが断たれる。女王の姿は、ベッドの上でうずくまる、中等部の木島かおり自身の、怯えた少女の姿に戻っていた。
葵は、霊力の残滓が消えゆく弓をゆっくりと下ろした。彼女の心は、激しい疲労と、達成感に満たされていた。
「もう大丈夫よ、木島さん」
葵は優しく語りかける。
「あなたは、解放された。もう、誰もあなたの孤独を、悪意の鎖にはしない。これからは、本当の縁を見つけることができるわ」
かおりは、ただ泣きじゃくり、何も言えなかった。彼女の背後で、呪いの根源だった全身鏡が、音もなくヒビ割れ、静かに崩壊していく。
◆
光の奔流が治まり、葵の意識は、旧保健室の肉体へと戻る。
彼女は、額に汗を浮かべ、倒れている玲子と、ベッドの上で震えるかおりの姿を見た。
呪いの結界が解けたことで、周囲を満たしていた重苦しい悪意の気配は消え、ただ静寂が残っていた。
かおりは、意識を失って倒れている。その体からは、悪霊の器としての霊力は完全に失われ、ただの怯えた中学生の姿に戻っていた。
葵は、ふらつきながらも玲子に駆け寄り、その肩を抱き起こした。
「師匠! 大丈夫ですか!?」
玲子は、力を使い果たして蒼白な顔だったが、口元に微かな笑みを浮かべた。
「ええ……なんとかね。まったく、代償の大きな『調停』だったわ。あなたは、偽善なんかじゃない。真の想縁使いよ、葵」
玲子は、かおりの穏やかな寝顔を一瞥する。
「彼女の心の中は、私でも見通せないほど複雑に絡み合っていた。あの『悪意の引力』は、現代の闇が作り出した、厄介な呪いだったわ」
「木島さんは、救われましたか?」葵は、不安そうに尋ねた。
「ええ。あなたは、彼女の孤独に共感し、悪意の鎖だけを断った。彼女は、目を覚ませば、自分が犯した罪の重さに苦しむでしょう。けれど、もう悪霊の器ではない。彼女の未来は、彼女自身の縁に委ねられたわ」
玲子は、静かに息を整えた。
「さあ、この騒ぎも収まった。この件に関わった学園の子たちの被害は甚大だろうけれど、私たちは、封縁乙女としての役目を果たしたわ。クラリスに報告を。そして、あなたは、その疲労しきった身体を、まず休ませなさい」
葵は、師の言葉に深く頷き、力強く弓の霊媒を握りしめた。彼女の戦いは、終わった。




