託された弓と、真の想縁
大杉玲子の命がけの《想縁・自縛ノ結界》によって、佐々木葵の周囲の悪意の奔流は一時的に静止していた。その代償として、玲子は床に崩れ落ち、霊力を使い果たしている。
「師匠……!」
葵の胸には、玲子への感謝と、目の前の元凶である木島かおりへの激しい憤怒が渦巻いていた。しかし、怒りだけでは彼女の弓は引けない。彼女の力、想縁は、憎しみを原動力としない。
(木島さんを裁くのは、私じゃない。私がしなきゃいけないのは、この人に宿ってしまった、歪んだ縁を解きほぐすこと……!)
葵は深呼吸し、立ち上がった。玲子が自身を盾にしてくれたのは、この一瞬、葵に「寄り添う想い」を純粋に灯す機会を与えるためだと理解していた。
床に落ちた弓の霊媒を拾い上げ、右手に固定する。霊力が、怒りの炎ではなく、静かな湖面のような澄んだ光となって、彼女の周りに集まり始めた。
「ほら、無力な偽善者さん。弓は出せたけれど、私を射れるかしら?」
ベッドの上のかおりは、冷笑を浮かべたまま、余裕を崩さない。
「その弓は、相手に『寄り添う』という、甘ったるい想いでしか力を発揮しない。私に宿るのは、この学園のすべての悪意よ。嫉妬、憎悪、いじめ……その総体! あなたに、この悪意に『寄り添う』ことなんて、絶対にできないわ!」
かおりの言葉は、葵の核心を突いていた。この醜悪な悪意の総体に対して、「寄り添いたい」と心から願うことは、人間の感情として非常に難しい。一歩間違えれば、葵自身の心まで悪意に飲み込まれる。
「確かに、私は、あなたのしたことは許せないわ。愛子ちゃんにしたことは、卑劣で、断罪されるべき行為よ」
葵は、ゆっくりと弓を引き絞り始めた。霊力が弓弦に集まり、一本の光の弦を結ぶ。
「でも、あなたの奥にいる木島かおりさん自身は、誰よりもこの悪意に苦しみ、囚われている。あなたが、この悪意の女王に選ばれたのは、あなたが誰よりも孤独だったからでしょう?」
◆
その孤独という言葉に、女王の表情が初めて微かに歪んだ。
「黙りなさい、佐々木葵! 私は女王よ! 孤独なんかじゃない! 私は、この学園の悪意全てと繋がっている!」
「それは、繋がりじゃない。鎖よ!」
葵が言い返す。彼女の想縁は、ついに形を結んだ。それは、殺意を全く含まない、純粋な癒しと和解の力。《想縁弓・慈愛ノ解結》。しかし、その力は、あまりにも巨大な悪意の塊を前にして、ひどく頼りなく見えた。
「無駄よ! その力で、この『悪意の引力』をどうするつもり!?」
かおりは、再び鏡から呪力を引き出し、保健室の結界を最大に強化しようとする。
その時、床に倒れていた玲子が、顔を上げ、か細い声で葵に語りかけた。
「葵……撃ちなさい。あなたの想縁の弓は、悪意を破壊するのではない。悪意の根源である、歪んだ縁そのものを、『解く』ための力よ」
玲子は続けた。
「あなたの弓は、相手を救うために、自分自身が相手の孤独を受け入れることを厭わない。それが、想縁使いの呪いであり、『真の想縁』の力よ。撃って、その悪意を、あなたの中で『調停』しなさい!」
◆
玲子の言葉は、葵の迷いを断ち切った。
(そうだ、私は、この悪意を破壊するんじゃない。この木島さんが背負ってしまった、孤独の縁を受け止め、解きほぐすんだ!)
葵は、弓を天に掲げ、そのままかおりの心臓を目掛けて、静かに狙いを定めた。
「《想縁弓・慈愛ノ解結》――!」
放たれた矢は、霊力の純粋な光の奔流そのものだった。殺意の欠片も含まない、しかし、誰かの魂を救おうとする凄まじい意志を宿した光。
矢は一直線にかおりへと向かう。
「ふざけるな!」
女王は怒号を上げ、鏡から、これまでで最大の呪力を引き出した。
「 偽善の光など、この悪意の引力で捻じ曲げてやるわ!」
かおりの全身から噴き出した黒い悪意の奔流が、葵の放った光の矢を迎え撃つ。
純白の光と、深淵の闇が、保健室の中央で激突する。
光は闇に包まれようとも消えず、闇は光に呑まれようとも屈しない。「救済の想い」と「悪意の結晶」が激しく衝突し、空間全体に凄まじい霊的な衝撃波を発生させた。
そして、光の矢は、黒い闇の中を、一歩、また一歩と、進んでいく。
それは、葵の純粋な想いが、かおりの悪意を捻じ曲げるのではなく、悪意の層の奥深くにいる、孤独な「木島かおり」本人に手を伸ばそうとしていることを示していた。
「馬鹿な……届くはずが……!」
矢が、ついに女王の身体に触れる直前――空間が、時間の流れさえも歪めるかのように、静止した。




