女王の嘲笑と、調停者の静かな怒り
旧保健室。砕け散った扉の向こう、立ち込める重い呪いの気配のなか、大杉玲子と佐々木葵は、ベッドの上に立つ木島かおりと対峙した。
かおりの背後の全身鏡は、学園中の穢れを凝縮した黒い水面のように濁り、光を飲み込んでいた。
「よく来たわね、佐々木葵。そして、傍にいる封印の調停者さん」
かおりの声は、以前の怯えたものではなく、艶やかで傲慢な女王の響きを帯びていた。
「大杉玲子。あなたの縁力は知っているわ。想縁。人の想いを解きほぐし、和解させる調停術。確かに厄介だけど、この私――現代の悪意の結晶となった私には、無力よ」
玲子は静かに扇子を構えたまま、答えた。
「あなたの言う通り、私の力はあなたを『殺す』ためのものではないわ、木島さん。けれど、あなたが囚われている歪んだ縁を解き放つことはできる」
「歪んだ縁? 笑わせるわ」かおりは、軽蔑を込めて鼻で笑った。
「あなたが、自分の意志でやっていることではない。あなたは、悪霊の『器』に過ぎない」
葵が、一歩、前に踏み出した。
「葵。あなたは下がって」
玲子が制する。
「いいえ、師匠。私は……聞かなければならないことがあります」
葵の瞳には、愛子を救えなかった悲しみと、悪意の元凶への強い憤りが宿っていた。
(この人が、愛子ちゃんをあんな目に遭わせた元凶……。 許せない、絶対に……! でも、『真に寄り添いたい』と願わないと、私の弓は出せない。怒りや憎しみでは、私は戦えない。どうすればいいの……?)
葛藤を押し殺し、葵はかおりをまっすぐ見据えた。
「木島さん。あなたはあの子に――愛子ちゃんに、何をしたの?」
その問いかけに、かおりは楽しげに目を細めた。
「ああ、あの『偽善者の優等生』のこと? ええ、最高の獲物だったわ」
かおりは、まるで自慢話をするかのように口を開く。
「あの女はね、誰も傷つけたくないという偽りの想いを、自分と周囲に張り巡らせていた。それは私たちがもっとも求める、『強力な縁』の持ち主よ。だから、最高の素材として、私の『鏡』の前に差し出させてもらったの」
「卑劣な……!」
葵の全身の霊力が、怒りで一瞬、乱れた。殺意にも似た強い感情が、想縁の弓を引くための純粋な想いを押し潰そうとする。
「どうしたの、佐々木葵? 怒っている? その怒りでは、あなたは私を射れないでしょう。あなたの力は、『優しい偽善』でしか発動しないのだから!」
かおりの葵の弱点を正確に突いた発言に、玲子は驚きを隠せない。
「――やはり、そう。あなたは『器』となったことで、以前の女王の呪いの知識だけでなく、この学園の術者全員の縁力の性質まで読み取った。それが、K.G.S.を封じた手際の良さの理由だわ」
「卑劣なのは、あなたよ」
玲子が、静かに怒りを込めて言った。
「その力は、あなた自身の想いではない。悪意に囚われ、過去の呪いに弄ばれているだけの、哀れな存在よ」
しかし、かおりは玲子の言葉を無視し、葵に照準を合わせる。
「私を前にして、『純粋な想い』など保てるかしら?」
◆
次の瞬間、かおりは大きく手を広げた。
「我が力、『悪意の引力』の解放を告げる!」
その言葉と共に、背後の全身鏡から、黒い靄が一気に噴き出し、かおりの全身を包み込む。
「《呪縁・悪意ノ覆呪》」
かおりの術が発動すると、保健室全体が巨大な悪意の渦となった。それは、玲子と葵の心臓を直接握り潰すような、極度の嫌悪感と自責の念を引き起こす。
玲子は咄嗟に扇子を振り、防御の縁力を展開する。
「くっ……! 汚い……! 想縁使いの私達の心に、直接悪意の感情を叩きつけてくるつもりね!」
玲子にとって、この悪意の奔流は、肉体的なダメージよりも、精神的な痛みが大きい。
そして、最も深刻な影響を受けたのは、葵だった。
(この悪意……! 誰かに寄り添うなんて、できるはずがない……!)
葵の脳裏に、これまでの人生で犯した小さな過ち、見過ごした他人の苦しみ、そして涼子を助けられなかったという自責の念が、何百倍にも増幅されて叩きつけられる。彼女の心は一瞬にして凍りつき、想縁の源泉である「寄り添う想い」が揺らぎ始めた。
「ほら、弓は出せないでしょう? あなたの力は、この学園の悪意に耐えられないわ。あなたは、無力な偽善者よ」
◆
かおりの嘲りの声が響く中、葵は膝をついた。霊力が乱れ、弓の型を取ろうとしても、力が結ばれない。
「葵!」
玲子が駆け寄ろうとするが、彼女自身も結界の重圧に耐えるのが精一杯だ。
かおりはとどめを刺すように、鏡から呪いの力を引き出した。
「さあ、お終いよ。あなたが、その『偽善』のせいで助けられなかった子の苦しみを、永遠に味わいなさい!」
黒い呪いの奔流が、一気に葵へと向かう。
その瞬間、膝をついた葵の背後から、玲子が身を挺して立ちふさがった。彼女は扇子を広げ、自分の体すべてを盾にするようにして、その扇子を呪いの奔流に向けた。
「私が、そうはさせないわ」
玲子の全身から、生命力を燃やすかのような、純白の霊力が放たれた。それは、攻撃でも封印でもない、純粋な『遮断』の想い。
「《想縁・自縛ノ結界》!」
玲子の全身から放たれた想縁の力が、彼女自身の霊力回路を一時的に封じ、その代償として、鉄壁の霊的障壁を目の前に作り上げた。
呪いの奔流は、その障壁に叩きつけられ、激しい音を立てて霧散する。
「なんの術!?」
かおりは、霊力を失いかけているはずの玲子の行動に目を見張る。
「…私の術は、縁を断ち、縁を操る。その力は、自分自身に対しても発動できるのよ」
玲子の額には、脂汗がにじんでいた。この術は、自身の霊力の流れを一時的に停止させ、外部の縁との接触を絶つ代償の大きい防御術だ。この強力な防御の代償として、彼女の霊力は極度に疲弊し、しばらく術が使えなくなることを意味した。
「今よ、葵! 私の盾が、あなたを悪意の渦から一時的に解放した! 真に寄り添いたいという、あなたの純粋な想いを信じなさい!」
玲子は力なく崩れ落ちたが、その瞳は、強い師の光を湛えていた。
師の命がけの行動を見た葵の心に、再び力が満ちる。
(私は、誰かの過ちや苦しみを裁くために来たんじゃない……! かつて師匠が私を救ってくれたように。そして師匠が涼子を救ってくれたように、私は、木島さんに寄り添うために来たんだ! ――愛子ちゃんへの償いも、ここから始めさせる!)
葵は立ち上がり、静かに構えを取る。彼女の想いが再び研ぎ澄まされ、その手には、確かな感触が戻ってきた。
「見せてもらうわ。あなたの、無力ではない想いの力を!」
かおりが叫ぶ。




