縁の歪みと女王の罠
翌日。午前の授業を終えた教室で。大滝涼子は隣の席の佐々木葵の制服の袖を、ぐっと掴んでいた。
「ねえ葵、お昼、一緒に食べよ?」
「うん、いいよ。でも、そんなに力入れなくても、逃げたりしないよ?」
葵は優しく微笑んだが、涼子の瞳には、いつもの明るい無邪気さとは違う、微かな狂気が混じっているように見えた。その執着は、どこか不自然だった。
(昨日、『葵が明日もボクと喋ってくれますように』って、冗談半分で願ったせい……?)
涼子の脳裏に、あの「願い」の噂と、東寺千春の悲劇がよぎる。しかし、それ以上に、「葵を独占したい」という甘く重たい衝動が、身体の奥から湧き上がってくる。
葵はそっと涼子の手を外させると、スマホを手に取った。
「ごめん、少しだけ待ってて。連絡したい人がいるんだ」
涼子はすぐに不満そうな顔になる。
「え、誰に? なんで?」
「……昨日から、なんか変な縁を感じるんだ。私たち二人の間に、無理やり楔を打ち込まれたような、気持ちの悪い感触が」
葵の指がスマホを叩く。涼子の願いは、「葵との縁を繋ぐ」という純粋な願望だったが、術の側がそれを「葵が涼子から離れられない」という歪んだ形に変え、二人の縁に毒を流し込んでいるのだ。
葵は師匠へのメッセージを諦め、涼子の顔を見つめ、静かに、そして強く言い聞かせた。
「涼子。落ち着いて。今は、一緒にいるよ?」
その一言で、涼子の表情は一瞬で綻んだ。その変化の早さに、葵の背筋に冷たいものが走る。
「うん! 約束だからね!」
葵は涼子に微笑み返しつつ、内心で師匠に送るはずだったメッセージを修正した。
(『涼子が、危ない』。そして、術は『願われた者の縁を歪ませる』形で干渉している……)
「悪霊の女王」が、生徒の純粋な縁(想い)すら、汚染し始めているのだ。
◆
放課後。久遠女学園の中等部棟裏にある中庭で、スケッチブックを抱えた佐藤愛子は、木島かおりが友人と別れるのを待っていた。
友人と別れ、一人になったかおりに向かって、愛子はまっすぐ歩み寄った。
「木島さん。少し、お話があります」
「あ、愛子ちゃん? どうしたの、こんなところで。美術部じゃなくて、探偵ごっこ?」
かおりは最初、余裕の笑顔を浮かべたが、愛子の瞳が真剣な光を帯びていることに気づくと、警戒の色を強めた。
「おまじないの話よ。東寺千春さんの件、全部あなたの仕掛けだったんでしょう?」
愛子は一歩踏み込み、声を潜めた。
「あなたは噂を広め、ルールを破るように仕向けていた。そして、千春さんだけじゃなく、みんなの『願いの念』が、どこかに集められていることにも気づいているよね?」
かおりの笑顔が、ピシリと凍りつく。
「な、何を言ってるの? 私はただ、噂に乗っかっただけよ。千春の件だって、自業自得でしょ?」
「嘘よ」
愛子は強く言い返した。
「あなたは、千春さんの願いが『罰』として具現化するのを、楽しんでいた。昨日、階段の下で、私は全部見ていた。あなたの顔に貼られていた『悪意の縁』が、剥がれ落ちる瞬間を」
愛子は霊的感応体質を持っているがゆえに、かおりの本性を感じ取っていた。
「そして、その願いは、紙がなくても叶うはずがない。あなたは、その力がどこかに集められていることにも気づいている。そして、その一部が、あなた自身に集まり始めていることも」
愛子の言葉は、かおりの核心を突いた。かおりの顔から完全に余裕が消えた。
「う、うるさいっ! 何を知ってるのよ、あなた!?」
かおりは顔を青ざめさせ、涙目で首を横に振った。
「違う! 私は誰にも操られてないわ。この力は私が広めたんだから! そして、あなたが言ってる『何か』は、私も探している! その力と繋がれば、私はもっと上に行けるんだから!」
かおりは声を震わせ、半狂乱になったように激しい言葉を吐き捨てた。彼女の頬には涙が流れ、その形相はまさに追い詰められた卑劣な犯人そのものだった。
「もう嫌! 誰かに言いつけてやる!」
かおりは叫ぶと、裏庭から中等部棟の奥へと、一目散に逃げ出した。
愛子の目的は、混乱したかおりから、女王に繋がる情報を引き出すことだった。
(やはり、彼女もその力を探している! 女王の居場所に繋がるかも!)
愛子は確信し、かおりが逃げ込んだ棟の奥へと、全力で駆け出した。
◆
かおりは人通りの少ない、旧校舎へと続く古い連絡通路の階段を、もはや無様なほど必死に駆け上がっていた。愛子は、絶対に逃がさないと固く決意し、彼女を追いかける。
かおりは二階上の踊り場に到達したところで、呼吸を乱し、屈辱に顔を歪ませたまま足を止めた。彼女の全身は小刻みに震えているように見えた。
愛子が、階段の一階下の踊り場を曲がり、かおりがいる踊り場へ続く階段を駆け上がってきた瞬間、木島かおりは唐突に振り返った。
「待って、木島さん! 観念しなさい!」
愛子は息を切らし、手を伸ばす。彼女が、あと数段でかおりに追いつく――そう愛子が思った瞬間だった。
かおりの表情は、一瞬で氷のように冷たくなった。さっきまでの無様さ、恐怖、屈辱といった感情は、まるで魔法のように消え去っていた。
そこに貼りついていたのは、冷ややかで、計算し尽くされた、邪悪な笑顔。
かおりは、愛子との距離を確認し、おかしくて仕方がないといった様子で、楽しそうに笑い声を漏らす。
「バカね、愛子ちゃん? そんなに必死になって。優等生って、ホントに騙されやすいんだから」
愛子は足を止められず、かおりがいる踊り場まであと数段のところまで迫る。
「…まあ、もうどうでもいいんだけど」
かおりは、冷たい目線で愛子を見下ろした。
「私が昨日の夜、あなたのためだけに『小さな願い』をしたことにも気づかないの?」
愛子はハッと目を見開き、一瞬、足が止まる。その一瞬の躊躇が全てだった。
かおりは、愛子の瞳を見て、最高の愉悦を味わうように口の端を吊り上げた。
「私ね、お願いしたんだよ? 愛子が、この階段で足を滑らせますように、ってね?」
その言葉が響くかのように、愛子の足元に『滑らせる縁』が編み上げられる。何もないはずの段で、愛子の足が不自然にもつれた。
「あ……」
愛子は、かおりのいる踊り場に到達することなく、そのままバランスを崩した。手にしていたスケッチブックが宙を舞い、愛子の身体は、激しい音を立てながら、一階下のフロアに向かって転げ落ちた。
ドン、ドン、ドン……。
鈍い衝突音が、廊下に響き渡る。直後、階段の下のフロアにいた数人の下級生たちが、その光景を目撃し、悲鳴を上げた。
「キャー!誰か、階段で滑ったみたい!」
「早く先生を呼んで!」
かおりは、転落の音を冷たい笑顔のまま見届けた。下級生たちの視線からは、かおりの姿は見えない。誰も、かおりの存在を知ることはない。
「ふふ。これでさよならね、愛子ちゃん」
そして、何事もなかったかのように踵を返し、来た道を下りていった。階段の最下部で、愛子が微かに「あ、あお……い」と、憧れの先輩の名を呼ぼうとしたのを、彼女は知る由もなかった。
愛子の身体から、僅かに発せられていた霊的感応の縁が、音もなく途絶える。




