忍び寄る影⑦
きっかけは、些細な噂だった。
「中等部二年の木島かおりって子、願いが叶うって話を広めてるらしいよ」
その名前を聞いたとき、雨宮愛子の胸に、小さな棘のような違和感が走った。
木島かおり──D組。モデル活動をしている目立つ生徒で、教室ではいつも人の輪の中心にいる。小柄だが、目鼻立ちのはっきりした可愛らしい顔立ちに、人懐っこい笑顔。誰とでも気さくに話し、教師からの評価も高い。
だが、愛子は思った。
(そんな子が、本当に……?)
彼女は「小さな願い」を、ただの噂としてではなく、確かに存在する“現象”として捉えていた。それは決して、誰かの遊び半分で済むようなものではない。
だからこそ、かおりがそれに関わっているという噂は、無視できなかった。
◆
放課後の図書室で、かおりを見かけた。
「こんにちは。木島さん……だよね?」
「うん、そうだけど……あれ? あなた、愛子ちゃんだよね? 美術部の。こないだ展示されてた絵、すごく良かったよ」
笑顔で、自然に、優しいトーンで話しかけてくる。
けれど、愛子はその中に、目に見えない“温度差”を感じ取っていた。──その言葉に、心が乗っていない。むしろ、どこか探るような視線すら含まれていた。
「ありがとう。でも、今日はちょっと、別のことで話があって……」
「ふぅん? なに?」
愛子は、声を落とした。
「“小さな願い”について、聞きたいの。あなた、何か知ってるんじゃないかって……」
その瞬間。
かおりの表情が、わずかに固まった。だが、すぐに笑みを取り戻す。
「なんだぁ。噂の話ね。うん、まあ……ちょっと知ってるかも?」
「本当に? それって、叶うって話も?」
「うーん……秘密、かなぁ。でもさ」
かおりは一歩、愛子に近づいた。
「そういうの、あんまり深く首突っ込まないほうがいいよ? “変なこと”になるから」
言葉は柔らかい。だが、確かにそこには“脅し”があった。
見た目は可愛い女の子。明るく、誰にでも好かれる、そんな少女。
──でも、この子は、違う。
愛子ははっきりと感じた。かおりの中に潜む、確信的な“悪意”を。
(最初からこうだったのか、それとも……願いに取り込まれたのか)
わからない。ただ一つ確かなのは──この子が、危険だということ。
それが確信に変わったのは、数日後の、あの場面だった。
◆
人気のない階段の下。夕焼けに染まる空の下、かおりと千春の姿があった。
「ねぇ千春。私に何か願ったり、誰かに何か余計なこと言ったりしてないよね?」
「え……?」
「大丈夫だよね。だってね──私はもう、『千春が私に何か不利なことをしませんように』って、お願いしといたから」
その笑顔が、あまりに自然で、あまりに残酷だった。
(やっぱり……)
愛子は唇を噛み締めながら、そのやりとりを見つめていた。
──千春は、かおりに操られていたのではない。けれど、確かに彼女を“信じて”いた。
その信頼を利用して、かおりは“願い”の連鎖を導いたのだ。
その時にはもう、愛子は決めていた。
(止めなきゃ──あの子を)
◆
夜の屋上。
高い手すりの向こうに、千春の小さな背中が揺れていた。
「……誰も、信じてくれない」
風が吹き抜ける。少女の声は、あまりに儚く、脆い。
その足が、わずかに動いた、その瞬間──
「──ダメっ!」
走り出したのは、愛子ではなかった。
先に千春の腕を掴んだのは、一人の高等部生だった。
佐々木葵。
制服の袖が風に舞い、葵は力強く、その手を引き戻す。
「……おちついて?」
短く、優しい声だった。
その声に、千春の肩が震え、足が止まった。
膝をつき、その場に崩れ落ちるようにして泣き出した少女を、葵はしっかりと抱きとめた。
◆
愛子は、その光景を遠くから見つめていた。
強くなれなかった自分が、そこにはいた。
でも──
誰かが手を伸ばしてくれる。
それが、この世界にまだ残っている、ほんの少しの“救い”なのだと。
涙があふれ、愛子はその場に座り込んだ。
夜の風が、静かに髪を揺らしていた。




