忍び寄る影⑥
東寺千春が「小さな願い」を知ったのは、クラスの人気者・木島かおりからだった。
「ねえ千春。この願い、試してみない? ほんとに叶うんだよ」
茶色がかった巻き髪に、笑顔がよく映える。雑誌で見たこともある読者モデルのクラスメートが、そんな秘密を打ち明けてくれたのが、嬉しくてたまらなかった。
「紙に願いを書いて、枕の下に入れて寝るだけ。翌朝、紙が消えてたら……ね?」
かおりは人懐っこくウィンクをして見せた。
千春は戸惑いながらも、誘われるままにその夜、女子寮の自室で初めて“願い”を試した。
──『明日の朝、寝坊しませんように』
何でもない、小さな願いだった。
翌朝、紙はそのまま残っていたが、不思議とすっきりと目が覚めた。偶然かもしれない。だけど、それからというもの、願いは少しずつ、少しずつ変化していった。
◆
最初は些細なことだった。
──『飯田さんが忘れ物をして、先生に怒られますように』
──『可南子とペアを組まないで済みますように』
小さな不満、小さな嫌悪。自分でも「ちょっと意地悪すぎるかな」と思いながらも、叶ってしまうたびに、その誘惑は強くなっていった。
かおりに報告すると、彼女は明るく笑った。
「そっか。叶ったんだ? 千春って、意外と才能あるかもね」
そう言って頭を軽くポンと叩かれたとき、胸の奥がくすぐったくなった。かおりが褒めてくれるなら、もう少し願ってもいいんじゃないか──そんな風に思った。
◆
千春の“願い”は次第にエスカレートしていった。
──『前の席の律子が風邪をひいて、早退しますように』
──『放送係の南条が失敗しますように』
──『大村がスピーチに失敗して、みんなの前で恥をかきますように』
そのすべてが、叶った。
理由は分からない。でも確かに、千春の目の前で、願った通りのことが起きた。
(本当に、あたしのせい……?)
そんな罪悪感が、わずかに芽生えたこともあった。けれど、そのたびにかおりの明るい笑顔が、不安を吹き飛ばしてくれた。
「大丈夫。願ったぐらいで、全部千春のせいになるわけないじゃん」
そう、言ってくれたから。
気づけば、クラスのほとんどの生徒に対して、千春は“何かしら”の不幸を願っていた。
◆
歴史のテストがある前日の夜。千春はベッドの上で、紙を前にしばらく悩んだ末──
──『明日の試験が、自分に解ける範囲になりますように』
と書いた。
紙を丁寧に折り、枕の下へ。そういえば、前回の試験で、友達の晴美に負けた事を思い出し、もう一枚紙を取り出し──
──『晴美の試験が失敗しますように』
と、もう一枚のお願いを書いた。
その夜、千春は二つの願いをしてしまった。
一日一つまで。それは、かおりに言われた最初のルール。
(でも、どうせバレないし……)
悪魔のささやきに負けたのは、自分だった。
◆
試験の日。
配られた問題用紙は、驚くほど簡単だった。まさに「自分に解ける範囲」の内容。
(やった……本当に叶った!)
その喜びは、しかし長くは続かなかった。
山岸晴美が、不意に顔をこわばらせて席を立った。静かな教室で、椅子を引く音がクラスメートの視線を集める。
「……なに、これ」
その手から、何か紙のようなものが零れ落ち、ひらひらと千春の前に落ちた。
千春はその紙を拾い上げ、見てしまった。その紙には、殴り書きの文字があった。
《晴美の試験が失敗しますように。──東寺千春》
自分の願いと、自分の名前が書かれたその紙を、彼女は呆然と見つめていた。
数秒後、目線が千春に向けられる。
「……これ、あなたが?」
◆
教室が、静まり返った。
千春の耳に届いたのは、椅子を引く音。振り返ると、教室の中は騒然となっていた。みんなの手には紙が握られていた。
──『前の席の律子が風邪をひいて、早退しますように──東寺千春』
──『放送係の南条が失敗しますように──東寺千春』
──『大村がスピーチに失敗して、みんなの前で恥をかきますように──東寺千春』
──『志保がグループ分けで余って孤独になりますように──東寺千春』
──『体育の授業で美月がビリになって、みんなの前で恥をかきますように──東寺千春』
それは、千春が今まで願ってきた、すべての“願い”だった。そして書いた覚えがない自分の名前まで記載されている。
その全てが、願われた本人の手に渡っていた。
「なんで、こんな……」
「最低」
「信じてたのに……」
誰かが、そう呟いた。ざわつくクラスの中で、千春の周囲から、音が消えた。
机の中、カバンの中、制服のポケット──どこから出てきたのか分からない。ただひとつ確かなのは、“すべてがバレた”という事実。
◆
放課後、人気のない階段の下で、千春はかおりにすがった。
「ねえ……私、どうすれば……!」
かおりは、くすりと笑っていた。
「ねぇ千春。私に何か願ったり、誰かに何か余計な事を言ったりしてないよね?」
「え……?」
その言葉に、心が凍る。
「大丈夫だよね。だってね──私はもう、『千春が私に何か不利なことをしませんように』って、お願いしといたから」
明るい笑顔のまま、かおりはくるりと背を向けて去っていく。
誰よりも優しく、誰よりも冷たく。
千春の頭の中に、何かが崩れ落ちる音が響いた。
そんな二人の会話を、物陰から見つめる視線がある事に、最後まで二人は気が付かなかった。
◆
その夜、寮の屋上。
もう誰も信じてくれない。誰も助けてくれない。
足元に広がる夜の闇は、どこまでも静かで優しかった。
もしもやり直せるなら、もう一度だけ、誰かに──
けれど、そんな願いは、もう叶わない。
分かっている。全部自分が招いた事なのだと。かおりは切っ掛けに過ぎなかった。全ての願いは自分の中から出てきた言葉だったのだから。
千春は、誰にも見られることなく、静かに屋上の淵からその身を投げた。




