忍び寄る影②
中等部に、ひとつの奇妙な噂が静かに広がりつつあった。
──紙に願いごとを書くと、叶う。
ただし、願いは一日一つまで。
それ以上望むと、罰がある──
最初は、誰もが軽い気持ちで試したのだろう。
「雨がやみますように」「テストが延期になりますように」
そんな些細で、誰にでもありそうな、願いごと。
しかし。
(……やっぱり、あの紙から“念”が消えたのは偶然じゃなかった)
教室の窓際。スケッチブックも開かず、腕を組んで考え込む佐藤愛子の顔は、どこかいつになく真剣だった。
由美子の“願い”が叶った瞬間、紙に宿っていた強い“念”は、跡形もなく消えていた。
まるで、どこかへ移されたかのように。
そしてなにより──
(願いが叶ったあの瞬間、念は役目を終えたみたいに……すっと消えた)
愛子は、ぽつりと自分に問いかける。
「……これ、もし他の人だったら、どうなるんだろう?」
由美子のように、他人に願いの紙を見せる人間は稀だ。
普通は恥ずかしさもあるし、願いが叶ったとしても、その事実をわざわざ他人に話すとは思えない。
つまり──
(大半の“願い”は、人知れず叶い、人知れず消えてるってこと……?)
そこに、不気味な空白があった。
この噂が誰かの意図で広められていると仮定するなら──
消えた“念”の行方にも、必ず意図がある。
(……願いを通して集められてる、“何か”がある)
愛子の指先が、思わず震える。
◆
昼休み、食堂の隅。
愛子は購買で買ったパンを手に、生徒たちの雑談に耳を傾けていた。
「あれ、マジだったんだよ。だってさ、先週“好きな人と席が近くなりますように”って書いたら──」
「わたし、プリント忘れたのバレませんように、って書いたんだけど、マジでバレなかったの!」
「えー、でもそれって偶然じゃない? そんなの当たるわけ──」
生徒たちの声に、笑いと驚きが混じる。
どれも些細な内容。だが、それゆえに、誰でも“試してみたくなる”。
愛子はパンにかじりつきながら、そっと内心でつぶやいた。
(この子たち、ほんとに願いが叶ってるの……?)
その中に、妙なことに気づく。
(“願いが叶った”って話してるのに、誰も“紙をどうしたか”は言わない……)
書いた紙はどうしたのか? 捨てたのか? 取っておいてるのか?
聞けばいい。だが、なぜかそれを誰も話さない。
まるで、そこには“踏み込んではいけない領域”でもあるかのように。
(やっぱり、紙がカギ……)
紙に宿った“念”が、誰かに集められているとしたら──?
(だとしたら……誰が? なんのために?)
静かに忍び寄る疑念。
それは確かな形を持たず、けれど愛子の中で、日に日に重みを増していく。
そして、もう一つの“なにか”が──
愛子の背後に、静かに近づきつつあることに、彼女はまだ気づいていなかった。
◆
その日の夜。
布団に入った愛子は、スケッチブックも開かず、ずっと天井を見上げていた。
(あの人なら──解決できるんだろうか)
脳裏に浮かぶのは、葵の姿。
昼休みにベンチで笑っていた、柔らかい表情。
戦っていたわけでも、誰かを救っていたわけでもない。
ただ、友達と過ごすその穏やかな時間の中に──どうしようもなく惹かれるものがあった。
(……でも)
愛子は、ぎゅっと掛け布団を握りしめる。
(わたしだって……やれるところまで、やってみたい)
葵に頼りたい気持ちはあった。
けれど、それ以上に──あの人のように、自分の足で真実に近づきたい。
(わたしの目で見て、わたしの手で確かめたい。……そうすれば、いつか……)
その「いつか」が、何を指すのかは、まだ自分でも分からない。
けれど、絵を描くように。
胸の奥に、確かな何かが浮かび上がり始めているのを、愛子は感じていた。
(誰かの想いが勝手に使われるなんて、そんなの……わたし、見過ごせない)
それは、まだ淡く、輪郭のぼやけた恋心。
けれど──自分だけの答えを見つけたいという強い願いと共に、静かに、心の中で育ちはじめていた。




