忍び寄る影①
朝の教室には、まだ誰の姿もなかった。
久遠女学園中等部二年生、佐藤愛子は、制服のスカートを軽くはたきながら、一番奥の席に腰を下ろす。
手に持ったスケッチブックを机の上に広げ、鉛筆を取り出す。
モデルは、もう決まっていた。
――佐々木葵。
あの先輩と出会ってから、もう何枚の絵を描いたか分からない。
写実というよりは、心に残った光景を切り取るように。
たとえば、あの図書館の午後。
廊下を歩く葵の背中。
図書館の中でふと見せた柔らかい表情。
ふんわりと空間に浮かぶイメージを、そっと紙の上に下ろしていく。
静寂の中、鉛筆の先が紙を走る。
だがその時。
――ガラリ、と教室の扉が開いた。
「おはよー、愛子ちゃん」
「わわっ! ゆ、由美子ちゃん!?」
驚いて振り向くと、笑顔のクラスメート、三輪由美子が立っていた。
いつも明るくて、お調子者。人懐こい性格で、誰からも好かれるタイプだ。
「ご、ごめん。びっくりさせちゃった?」
「う、うん……ていうか、なんでこんな早く?」
「相談があってさー。……あ、もしかして今、絵描いてた?」
「え、あっ……うん。ちょっとだけ」
ばつが悪そうに言う愛子に、由美子は悪びれもせず覗き込む。
「やっぱり、佐々木先輩だ。てかさー、それもう皆知ってるよ? 愛子ちゃんが毎朝ここで写生してるのも、モデルが“例の先輩”ってのも」
「えっ、うそ……」
「ふふ、隠してるつもりだった? かわいいねぇ」
由美子の屈託ない笑顔に、愛子は顔を赤らめて目を逸らす。
「で、何の相談なの?」
「うん……そのことなんだけどさ。ちょっと変な話、していい?」
◆
二人で教室の隅に並んで腰掛け、由美子がそっと制服のポケットから小さな紙片を取り出す。
「これ……昨日の夜、書いちゃった」
そこには、ボールペンの字でこう記されていた。
《明日の英語の授業がなくなりますように》
「え……」
「そう。あの“願いが叶う”ってやつ。紙にお願いを書いて、枕の下に入れて寝ると、次の日に叶うかもって──」
愛子が紙に触れた瞬間、微かな違和感が指先を走った。
(……念?)
紙の表面に、まるで染み付くように残された“何か”の気配。
愛子には“見える”力がある。
母親譲りの、霊的な感応体質。
特別な訓練を受けたわけじゃないけれど、強い感情や、残された想い──そういうものが、視えるのだ。
由美子は少し気まずそうに笑いながら、続ける。
「今日の英語の授業、なくなればいいな~って。だって、ミニテストあるって言われてたじゃん? あたし、全然覚えてなくてさ」
「それで……この紙、どうしたの?」
「捨てようと思ったんだけど、なんか変に気になっちゃって……愛子ちゃん、ちょっと見ててくれない?」
◆
英語の時間になった。
教室内に先生の姿が現れないことに、生徒たちはざわめき始めた。
しばらくして、担任がやってきて言った。
「英語の鈴木先生ですが、体調不良でお休みです。今日は自習になります」
──その瞬間。
(……消えた)
由美子から預かっていた紙から、あの“念”のような気配が、まるで最初からなかったかのように、すっと消え去っていた。
まるで、果たすべき役目を終えたかのように、ふっと色褪せ、軽くなっていくのを、愛子は感じ取っていた。
(……これは、偶然なんかじゃない)
誰かが、何かを広めている。
この“願い”、そして“念”のしくみを、理解した上で。
愛子は、ふと教室の外に視線を向ける。
中庭の向こう、昇降口から続々と登校してくる生徒たち。
笑い声と足音の中に、どこか異質な“気配”が混じっている気がした。
小さな違和感。
それが、ゆっくりと、しかし確実に広がっている。
◆
その日、愛子はスケッチブックを閉じ、筆を取らなかった。
鉛筆より先に、感じてしまったからだ。
あの紙の、静かで、不穏な“空白”を。
(……誰かが、念を集めてる?)
ふと、肌を撫でるような、微かな寒気。
どこかで、確かに何かが動いている。
愛子の中で、ほんの小さな警鐘が鳴りはじめていた。




