小さな願い(前編)
英語の授業中、窓際の席でペンをくるくる回しているのは──大滝涼子だった。
(今日もまた、本読んでる……)
隣の席の佐々木葵は、きっちりノートを取りながら、ちらちらと教科書を確認している。無駄がなく、静かで、すこし冷たくも見える横顔。
(ちょっとでいいから、ボクと喋ってくれたらいいのに)
そう思いながらも声をかけるわけにもいかず、涼子はノートの端に意味のない線を引いていた。
そのとき。
「──Miss Otaki?」
英語教師の声に、涼子がビクッとする。
「えっ、は、はいっ! わ、わたし?」
「ページを見なさい。Section Four, line three.」
「ラジャー……じゃなくて、イエス、ミス!」
後ろの席からくすくすと笑いが漏れ、涼子はそっと視線を落とす。
(……ま、いいや。放課後、声かけてみよ)
◆
放課後。昇降口で靴を履き替える葵を、涼子が背後から軽くつつく。
「ねえ葵、今日ひまだったりしない?」
「え……?」
「ちょっと図書館寄ってこうよ。なんか、本でも探しながらしゃべりたい気分でさ」
「……本、探すのは私でしょ?」
「ばれた?」
涼子が無邪気に笑うと、葵は小さく肩をすくめる。
「……いいよ?」
その一言に、涼子はにんまりした。
◆
久遠女学園の図書館は、放課後には生徒たちの静かなざわめきが満ちていた。
二人はカードを提示して入館し、書棚の間を並んで歩く。
「この時間、けっこう混んでるね」
「うん、人気の資料とかすぐ埋まっちゃうし……」
そう答えながら歩く葵の横で、涼子が唐突に尋ねる。
「……ねえ、葵って、いつも授業の予習とかしてるでしょ?」
「え?」
「だって、ノートめっちゃ綺麗だし、先生の話もちゃんと聞いてるし。ね? 優等生ってやつ?」
「……そういうの、やめて?」
苦笑気味に言われ、涼子は口を尖らせる。
「えー、褒めてるのに~」
「褒めてるように聞こえない……」
「うっ、それはボクの信用が低すぎでは……?」
そんなやりとりをしながら、空いた閲覧テーブルを見つけて並んで腰を下ろす。
そのとき、隣のテーブルから、女子生徒たちのひそひそ声が聞こえてきた。
「……でね、昨日、ほんとに願い叶っちゃったの。ちっちゃいやつだけど」
「えー、また“あれ”やったの?」
「うん。紙に書いて、枕の下に入れて寝るやつ。朝起きたら、ちゃんと廊下の電球が直ってた!」
「それは偶然じゃ……?」
「かもだけど、三回続いたら信じたくもなるよ」
涼子が目を丸くし、葵と顔を見合わせる。
さらに別のグループでも──
「ねえ、見て。席、空いてたでしょ?」
「うそ、ほんとだ。昨日お願いしたの?」
「うん。“明日はこの席に座れますように”って。そしたらちょうど今朝から空いたの」
「こわ……でもちょっといいかも」
涼子が肘で葵をつつく。
「ねえ、流行ってるの? この“願い事”おまじない」
「最近よく聞くね。中等部から広まってるって」
「でもみんな、小さな願いばっかなんだな。恋が叶いますように、とか、成績アップとか。もっと派手なのあるかと思った」
「……小さいからこそ、叶いやすいと思ってるんじゃない?」
「なるほど。それなら──“葵が明日もボクと喋ってくれますように”とか?」
「……やめて?」
「そっちがやめてって言うの!? ひどっ!」
そう言いながらも、涼子は嬉しそうだった。
◆
少し席を離れた掲示板の前に、ふと貼られていた一枚の紙に涼子の目がとまる。
──《願いは、一日一つまで。それ以上は、罰がある》──
「……変な張り紙だね」
背後から覗き込んだ葵が、小さく言う。
「なにそれ、学園怪談っぽい」
「“給食のおかわりは一回まで”みたいなルール?」
「……ちがうと思う」
二人で苦笑する。
誰も、それがどこから来た張り紙なのかは気にしなかった。
その日も、そんな他愛ない会話をしながら、涼子と葵は図書館の中をゆっくりと歩いていた。
だが。
──気づかぬうちに、静かに入り込んでいた。
まるで、空気のように気づかぬまま肺に入り込み、毒性を持った菌が細胞をひとつずつ侵すように。
ほんの小さな歯車が、ゆっくりと、しかし確実に、ずれはじめていた。




